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・・・・・・(28)忘却の河のほとりで

 そこであたしが最初に見たものは、海と見違えるような大きな川だった。

 向こう岸が全く見えない。

 音も立てずに大量の水が、右から左に流れて行く。

 空が暗いので、水はよどんだ銀色に見えた。

 とてつもなく寂しい岸辺だった。

 落っこちて来そうな、どす黒い空のせいだろうか。

 どうかすると骸骨が並んでいるように見える、河原の石のせいだろうか。

 背後から脅し上げるように迫る、黒々とした山影のせいだろうか。

 もしかしたら、川向こうの空がピンクがかったブルーに輝いて、いやに明るいせいかもしれない。


 早くあの明るい空の下に行きたいと思った。

 こんな寂しいところは、一刻も早く立ち去りたい。

 思ったとたん、目の前に虹色の船が出現した。

 ものすごくまぶしい陽光が、スポットライトのように、船の上にだけ注がれている。

 というより、光の当たった部分だけ、船体の虹色が見えるのだ。

 いくら目を凝らしても、全体の様子がつかめない。

 帆船なのか? 動力があるのか? できるだけ近づいて見たがわからなかった。


 甲板ははるか上だ。

 そこから、ひとりの男があたしを見下ろして言った。

 「乗るかね?」

 「はい!」

 あたしは大喜びで即答した。

 あのきれいな空の下へ、向こう岸へ渡れるのだ。

 「あいにく出航はもう少し後だ。

  あそこの待合所に入って待ってりゃいい。 名前を呼びに来るからな」

 振り向くと、背後に崩れかけたようなレンガ造りの小屋がある。


 「名前を呼ばれたら、大声で返事しろ。

  それが俺に聞こえたら、自然に船に乗れる」

 「はい!」

 元気に答えて、小屋の方に歩き出そうとしたところで、大変なことに気づいた。

 「あのー!‥‥すいませーん」

 恐る恐る、引っ込んでしまったさっきの男を呼び戻す。

 「なんだね?」

 「あの、あたし、自分の名前、忘れたみたいなんですけど‥‥」

 「ふうん」

 「ふうんって‥‥!いませんよねえ、こんな間抜けなヤツ」

 「いや、みんなそうだよ」

 男は事もなげに言った。

 「ここに来たら、みんな自分のことは忘れちまうんだ。

  それでも、返事が出来んやつは滅多におらんよ」


 あたしはちょっと安心した。

 同時に、とんでもない勢いで胸が痛くなった。

 なんだかよくわからないけど、悲しくて仕方がない。

 きっとあたしには、捨てちゃいけない記憶があったんだ。

 絶対忘れたくない何か大事な物があったんだ。

 それがもうなくなってしまったのが、悲しかったんだ。


 レンガ造りの小屋のドアは、木製だった。

 崩れかけた小屋に似合いの、傾いたドアだ。

 ドアを開けると、中は意外に広かった。

 壁際に、明るい火の燃え盛る暖炉。

 その正面に、粗末な木箱をベンチ代わりにして、二人の老女が座っていた。

 どういうわけか、物も言わずにお互いの髪やボタンを整え合っている。

 

 木箱がもうないので、あたしは後ろに立ったまま、ぼんやり暖炉の火を見ていた。

 炎を見ると、なぜかまた胸が痛くなる。

 今度は悲しいのでも苦しいのでもない。

 ただやたらと、胸が焦がれて痛い。


 そのうち、一人、また一人と、人間が増えて来た。

 老人が大半だが、若い者もいる。子供も数人いる。

 みんな無表情に入って来て、ぼうっと立っている。

 何か考えようとしても、何も考えられない様子だ.

 もともと湿度の高い室内が、人いきれでむせ返るようだ。

 

 遠くから鐘の音が近づいて来た。

 それから何かを叫ぶ声。

 呼んでいる。

 

 からん、からん。

 「船が出るよう、船が出るよう」

 からん、からん。

 「渡しの呼び上げだよう。

  金井ミツヨ、おるかねえ。金井、ミツヨお」

 からん、からん。

 小さな窓から、川岸を、カンテラを下げて呼び歩く人影がチラリと見えた。


 その時、とんでもないことが起こった。

 あたしの前にいた老女の、二人のうちの片方が、突然大きな口をあけたかと思うと。

 「オオオオオオーン!」

 と、汽笛も顔負けの声を爆発させたのだ。

 同時に老女は光り輝き、あっという間に透明になって消えてしまった。


 あたしはあっけにとられた。

 まさかあの咆哮を、あたしにも出せというのでは?


 呼び上げはまだ続いている。

 「船が出るよう。船が出るよう」

 からん、からん。

 「渡しの呼び上げだよう。

  坂本恵子、おるかね。坂本けいこお」

 「オオオオオオオーン!」

 またひとり、雄たけびを上げて消えて行った。

 

 どうもえらいことになった。

 どうやったらあんな声が出るって言うんだ?

 

 「呼び上げだよう。

  篠山美久、おるかね。篠山、美久う」

 あっ、と、あたしは驚いた。

 そう、あたしの名前はこれだ。

 今まで忘れてたのがうそみたいだ。ちゃんとわかった。

 あたしはあせりながら、みんなと同じように、出来るだけ大きく口を開けた。


 その時だ。

 一人の若者が、目の前に現れた。

 その男はありえない場所から飛び込んで来て、人の頭を飛び越えてあたしの正面に駆け寄った。

 若者は駆け寄りざま、あたしの口を手のひらで塞いだ。

 勢い余って、あたしはそいつと二人で床にひっくり返ってしまった。

 それでも彼は、口から手を離さなかった。

 

 からん、からん。

 「篠山美久、おらんかねえ」

 あたしは床に転がったまま抵抗した。

 早くしないと行ってしまうじゃないか!

 あの素敵な船に乗れなくなってしまう!

 暴れまわるあたしを、若者は必死になって押さえ込む。

 

 ついにあたしは、若者の手に噛み付いた。

 相手が口の中で、小さく舌打ちするのがわかった。


 彼はポケットからとんでもないものを取り出した。

 銀色に光る、金属の輪ッかが2本つながった物だ。

 ああ、これはよく知っている。

 けど名前が思い出せない。

 アレでしょ、ホラ。

 何か悪いことをした人を捕まえる時に、ガチャッてかけるアレだ、アレ。

 ‥‥と、記憶を探って納得したとたん。

 あたしは後ろ手に、その金具で括られていた。


 若者は金具を後ろに引いてあたしの腕を封じ、後ろから回した手であたしの口をしっかりと塞いだ。

 そのまま床に座り込む。

 動けなくなった。 


 からからん、からからん、からからん。

 鐘の音の調子が変わった。

 「篠山美久が、おらああん!」

 恐ろしく大きな、太い声が轟いた。

 からからん、からからん、からからん。

 「篠山美久う、どこじゃああ?」


 窓の外を、カンテラと一緒に巨大な影がうろついている。

 待ち合いの人たちから、小さな悲鳴がいくつも上がった。

 これは、もしかしたら大変なことになるのでは。

三途の川というのは東洋的なイメージですが、ここでは西洋の「レテ河」(忘却の河)のイメージとミックスして使っています。美久ちゃん個人が生んだイメージです。

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