・・・・・・(26)朝香センセの狂乱
子守唄が途切れて、センセは小さく笑った。
「美久ちゃん。 ‥‥ごめんね。 あたしやっぱり、やってしまった‥‥」
「センセ? 酔ってるんですか?
ウィズはどうしたの? それ彼の携帯でしょう?」
「眠らせてしまったの。 だってしようがないでしょう?
どんなに優しくしてもらっても、あたしのものにならないし‥‥」
「何を飲ませたんですか!」
「飲ませたりはしないわ。 彼は匂いに敏感ですもの。
凝視法よ。 ただの催眠よ。
拍手一つで解けてしまう、薄っぺらな魔法‥‥」
あたしはちょっとホッとした。
いきなり無理心中に突入することはなさそうだ。
この段階で電話して来たってことは、先生にも相当ためらいがある。
あたしは走り出した。
携帯はONのまま。
「センセ、今どこにいるんですか?」
「中央病院の隣に、シティホテルがあるでしょう?
そこの7階よ。 海側だけど端っこだから、景観はいまいち」
「“オーシャン・ビュー”ですよね」
「そうよ。誤解のないよう言っとくけど、もともとただ食事に来たのよ。
ここの海鮮フレンチが食べたかったの。
‥‥胸が一杯で食べられなかったけどね」
「わかります」
あたしはゲーセンの騒音の中に駆け込んだ。
所沢刑事を見つけると、後ろから腕を取って、店の外まで引っ張り出した。
「おいおいッ、なんだお嬢! よせどうしたっ?」
刑事は初め抵抗したが、あたしの必死の形相を見て、ただ事でないと察したらしい。 途中からは自分で走ってくれた。
こちらの騒ぎが聞こえているのかいないのか、朝香センセはおかまいなく喋り続ける。
「部屋を取りたいと誘ったら、吹雪クンなんて言ったと思う?」
「ウィズ困ったでしょうね」
正直に答えた。
「その反対よ。 念を押されてこっちが驚いたわ。
『最後の一秒まで女性として扱いますが、それでいいんですよね?』って。
いいと言ったら、彼が自分でフロントからカードキーを貰ってきたの。
それをテーブルの真ん中に置いて食事よ。 咽喉を通ると思う?」
あたしは表通りに出てタクシーを拾った。
携帯での会話を途切れさせるわけには行かない。
メモ用紙に行き先を書いて、運転手に渡す。
動き始めた車の中で、隣に座った不審顔の刑事にも、メモで事情を説明する。
書きながらも会話は続けなければならない。
「それで結局どうだったんですか?」
「どうって?」
クラクションの音が響いて、いらいらする。
「彼を眠らせる前に、彼と寝たんですかっ!?」
「おいおい」所沢刑事が引いている。
「‥‥ボディスーツを脱ぐ勇気がなかったの」
朝香センセが、涙声で言った。
「ウィズのエスコートがお気に召さなかったわけじゃないんですね?」
「気に入らないのは、この幸せが今夜限りということだけよ」
センセの言い草を聞いて、怜のことを思い出した。
自分で奪い取ったものを土壇場で放り出してしまうところが、二人は似ている。
「眠らせたって、時間は同じようにやってきますよ。
センセには少なくとも朝まで、その幸せを味わう権利があったのに!
今だって一秒一秒が貴重なはずだわ。 エッチが出来なかったら、お酒でもダンスでもいいじゃないですか。
センセ、ウィズを起してください!
謝って仕切りなおせば、あたしも他の人も邪魔なんかしません」
「美久ちゃんはいい子ね。
いい子すぎて、鼻につくわ。 ちゃんと憎ませてもくれないのね!」
叫んだ後、朝香センセは沈黙した。 泣いているようだ。
「センセ、大丈夫ですか?」
「‥‥殺してしまうの」
「え?」
「あたしね。15歳の時に、ボーイフレンドを殺したの。
初体験の手前まで行った相手よ」
背筋を冷たい電流が走り、あたしは言葉をつなぎ損ねて、酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせた。
「それ……殺し……って、もしかして、クスリで?」
「クスリで朦朧としてるところを誘導して、危険なところへ置き去りにしたの。
最後まで、あたしのことを女だと信じて疑わなかったわ」
「どうしてそんなこと」
「自分でもわからないの。手に入れるまでは死ぬほど好きでも、うまく行き始めると憎くて仕方がなくなるのよ。
久保先生にも相談したけど、結局原因がわからなかったわ。
今日はバッグの中に、ナイフと7種類のお薬を隠してあるのよ。
もし今夜もだめだったら、吹雪クン連れて、逝ってしまうつもりだったの」
ホテルに着くや否や、所沢刑事は現場たたき上げの実力を発揮した。
フロントに警察手帳を見せ、渋る相手に2分でキーを出させた。
「10時のニュースで、この出口から死体が運び出されるとこを流して欲しいのか?」
説得とは呼べない。 脅しだ。
「畜生、こんな時までヘタレてやがって。
トカレフ、今回いいとこなしだぜ!」
刑事はエレベーターの中で、さんざん文句を言った。
フロントマンに鍵を開けさせて、乱入。
部屋に殺到したあたしたちを迎えたのは、口をぽかんと開けて突っ立っている朝香センセだった。
ウィズはベッド脇の床に座り、白いシーツにほおを預けて眠っていた。
「使えねえ」
ベレッタ刑事が舌打ちしたほど、ウィズの顔は安らかだった。
朝香センセが大声で笑い出した。
「見てよ、美久ちゃん。 まんまとやられたわ。 お見通しだったのよ!」
センセは化粧ポーチの中身を、ベッドに開けて見せた。
ガラガラと音を立てて散らばったものは、ナイフでも毒薬でもない。
100円ショップで売っている、コスメの空ビンとスティック糊。
料理用のスパイスのビンが数本。
「彼、とっくに今日のことを予見してたんだわ」
朝香センセが笑いながら言った。
おそらくウィズは、朝香センセがドレスアップしたのを見た瞬間、予見が実現したことに気づいたのだ。 そして、センセの隙を見て、前もって用意しておいたものと、ポーチの中身を入れ替えた。
おそらく持った感じが似ているものを選んだはずだ。
「そこまで分かってて、なんであっさり眠らされちまうんだ!」
ベレッタ刑事は、どうでもウィズのヘタレぶりが気に入らないようだ。
「吹雪クン、催眠にかからない様に注意はしてたのよ。
でも、あたしはプロだし、彼はかかりやすい体質だから」
朝香センセは、少しだけ自慢げにウィズを庇った。
そして、あたしは気づいた。
ここから先は、ウィズにも予測がつかない世界になるのだということを。
武器と手段を失った朝香センセがどう出るかは、だれも知らないのだ。
朝香センセは、ほんとに予測を超えた行動に出た。
ウィズにふたこと三言、声を掛けて目覚めさせたのだ。
そして、彼が目を開けるが早いか、思いっきりその頬をひっぱたいた。
「馬鹿にしてるの?
殺されるとわかってて、なんで付き合うのよ!」
さすがに目を白黒させてぼんやりしているウィズに、センセはもう一度手を振り上げた。
あたしと所沢刑事がその手を押さえに入った。
「先生に気づいて欲しかったんですよ」ウィズが言った。
「あなたは僕よりも、美久ちゃんに性的魅力を感じてたんです。
今夜ベッドに誘いたかったのは、実は美久ちゃんでしょう?」
あたしは愕然とした。 もちろん、朝香センセもだ。
「吹雪クン何言ってるの?
あたしは吹雪クンをずっと思ってたのよ。
美久ちゃんを好きだったのは、怜の方だわ!」
「そう。あなたを刺激すると怜と交代するんで、僕もずっとそう思ってました。
でも、それじゃおかしいんです。
あなたの記憶は、基本的に怜に伝達されてない。
怜があなたに成りすますためにビデオを研究したのも、そのためですよね?
だったら、レイミ先生が体を使っている間、どうやって怜は美久ちゃんの性的刺激をキャッチするんです?」
あたしと刑事に腕をつかまれた状態で、朝香センセは真っ赤になって震えていた。
センセのそんな表情を見るのは初めてだった。
「あなたは、人格としては女性でも、使ってる体は男性のものです。
イメージどおりじゃない反応も、そりゃ時にはするでしょう。
それを認めず、男性と関係しようとしたことで、あなたの殺意は生まれて来ている。
あなたは美久ちゃんに性衝動を感じるたびに、逃げ出して怜と交代した。
怜は障害を気にして、美久ちゃんに手が出せない。
あなたは男性が相手だと、トラウマが発動する。
追い詰められて、無邪気に愛を囁く相手の男に憎しみをぶつけるしかなかったんです」
朝香センセは、唇をかんでウィズをにらみつけた。
すみません!昨夜寝惚けてまして、前回分を更新する時に間違えてこの回の本文を投稿してしまいました。夜半から明け方までの4時間を過ごして、早朝に気づいて直したんですが、あとで見ると気づいた方からメッセージでご指摘頂いてました。この場を借りておわびします。
夜更かしして読んで下さってる皆様、ありがとうございます。でも私のように寝惚けるので睡眠はおとり下さいね。




