・・・・・・(22)小さな魔術師の決心
ウィズはベッドを使って寝ていた。
それだけでもう、ウィズに戻ってないとわかってしまう。
あたしと朝香センセが部屋に入って行くと、彼は薄暗い部屋の中で両眼を開いて天井を見ていた。
朝香センセはベッドに近付き、小声で話し掛けた。
「あやめちゃん、少し疲れた?
お休みする前に、ちょっとお話しようよ。
ああ、横になったままでいいわよ」
朝香センセはベッドに腰掛け、左手をウィズの顔の前にかざした。
「少し呼吸が早いわね。ゆっくり息しましょう。
腕時計の秒針を見ていてね。
1,2,3,4で吸って‥‥1,2,3,4で吐いて。
1,2,3,4だんだん気持ちが良くなってきたねえ。
1,2,3,4まぶたが重くなった‥‥」
とても要領よくウィズを眠らせると、朝香センセは自分も一つ、深呼吸した。
「さあ、まずあなたの口にかけられた魔法を解きましょう。
あなたは声を出すことが出来なかったけれど、これからは出せるようになります。
3つ数えたら、声が出るようになりますよ。
1,2,3‥‥。
お返事してみようね。 ‥‥あやめちゃん?」
「はい‥‥」
ウィズは返事をしてから息をのんだ。
「ほら、声が出せたわね。 自分の声はどう?」
「‥‥オトコの声」
「ほんとね。 驚いたわね」
朝香センセが微笑んだ。
「それじゃ、思い出してね。
黒いドレスを着て、お化粧した日の事を覚えてる?」
「覚えてる」
「鏡の中の自分を思い出せる?」
「うん。 女の子になった」
「どんな気持ち?」
「ヘン。 どうしてこんな恰好するのか聞いたら、お姉さんが、そのほうがみんな喜ぶって‥‥太田原のお兄ちゃんも」
「太田原のお兄ちゃん、好きだった?」
「うん。 犬小屋の様子見にいつも来てくれた。
雪の日にカイロを箱いっぱい買ってきて、庭に隠してくれた」
「優しいわね」
「台風の日に、犬小屋が転げ回って壊れたことがあった。
そしたら、お兄ちゃんが、教会の鍵をくれた」
「教会に入れるの?」
「礼拝堂の祭壇の後ろが倉庫にしてあって、そこから入れるの。
蝋燭なんかを入れとく倉庫。
朝と夜、ミサがあるからあったかいんだ
そこに、お兄ちゃんがパンを置いてくれてた。 冬には毛布があった」
「そうなんだ。
じゃ、女の子になったあなたを見て、太田原のお兄ちゃんはどうしたの?」
しばらくの間、あやめちゃんは沈黙した。
呼吸の音だけがせわしなく響いた。
「‥‥悪魔だって」
「あなたを?」
「まるで悪魔だって、妖怪だって、そういう匂いがするって」
「それから?」
「香水を、蓋を外して持って来ていっぱい、いっぱい」
「匂いを消すためにかけたのね?」
ところが、あやめちゃんはうつむいて首を振った。
「違うの?」
朝香センセが意外そうに尋ねると、うなずいたウィズの全身ががガタガタ震えだした。
「おにいちゃんの頭の中が見えた。
気持ちの悪い生き物がたくさんたくさん詰まってて、口を開けて襲って来た。
そしたら神父さんがビンの中の水をそいつらにかけて溶かすシーンが出てきて」
「ああわかった、聖水ね!」
「うん、神様の水で妖怪が溶けるの」
「それはほんとにあったことかな?」
「ほんとじゃない、映画の話。 お兄ちゃんが見た映画の話だよ。
でも、そしたら僕の体が水でドロドロに溶けて行って」
「聖水で溶けた?」
「お兄ちゃんはそう思ってた、溶けろ溶けろ早く溶けちまえって」
「彼の憎しみが伝わったのね。 こわかったでしょう」
「……痛くて。 水で痛いってことは、僕は本当の悪魔なんだと思った」
そうか。
感応者であるウィズは、相手の殺意をもろに浴びて汚染されてしまったのだ。
「それから?」
「それから首を。首を‥‥」
あやめちゃんはあえいだ。 呼吸困難を起して、しばらく声が途切れる。
「大丈夫よ。 誰も首には触らないわ。
少し、大きい息をしてごらんなさい。
大きく息をすると、気持ちがゆっくりして来ます。
もう少しも怖いことは起こらないから、力を抜いて……そう。…いい子ねえ」
朝香センセの誘導で、ウィズの中のあやめちゃんは静かな深い呼吸を繰り返した。
「そのまま聞いてね。
その日、お兄ちゃんがあなたの首を絞めたので、撮影は中止になったわね。
うん。 それじゃ、その後お兄ちゃんと会うのは怖かったんじゃないの?」
「こわかった」
「なのに、どうしてふたりだけで作業小屋に行ったの?」
しばらく戸惑うような沈黙を置いた後、あやめちゃんが話し始めた。
「夜になって、雪が降った日だった。
洋服が全部濡れて凍ってて、寒くて、でも夜だから家には入れなくて、教会に行こうとしてたらお兄ちゃんに会った」
「うん。何か言って来た?」
「あったかくしてやろうかって」
「あなたはなんて答えたの」
「うんって」
「怖かったのについて行ったの?」
「うん」
「寒くて我慢できなかったから?」
あやめちゃんは首を振って否定した。
「だったらなぜ?」
何故かとても長い間、あやめちゃんは言い淀んで荒い呼吸を繰り返した。
それからまた決心したように口を開いた。
「学校の友達が言ってた。
怜は誰か悪い人にアソコを切られて、女になったんだって」
あたしも朝香センセも呼吸が止まりかけた。
何故ここで怜の話が出るのかわからなかった。
「目をつぶって考えたら、犯人が誰だかわかった。
大田原のお兄ちゃんが、怜のアソコを切ったんだって」
「そ、そう。 でもそれじゃあますます怖いでしょう?」
「怖いけど、怜はいつも女になりたがってたから、よかったなと思った。
それで、ついて行ったら僕も女にしてもらえると思った」
「どうして?」
朝香センセの声が、動揺のために震えている。
「あなたも女の子になりたかったの?」
「なりたかった」
あやめちゃんは悲しげに言った。
「だって、女の子になれば、大きくなってもあの家を追い出されなくて済むから」
朝香センセの唇からかすかな泣き声が漏れた。
あたしも必死でこらえたけど、声が出てしまうのを抑えられなかった。
「大田原のお兄ちゃんは、いつも僕を助けてくれたから。
お願いしたら、叶えてくれるかと思った。
そうでないと、僕は悪魔だから、一人前の悪魔になったら追い出されるんだ」
なんて酷い話だろう。
小さなウィズの健気さが胸に突き刺さる。
あんなにひどい仕打ちをされてた家なのに、彼はそこにしか帰れなかった。
大田原の狂った行為が、未来を手に入れるためのチケットに思えるなんて。
そう。 ウィズの見た「ひとりめのあやめちゃん」は、大田原にいたずらされた怜だった。
でも小さなウィズにとっては、その行為は“手術”だったのだ。
朝香センセの治療シーンもうしばらく続きます。吹雪くんにはもう少し眠ってて頂きましょう。