・・・・・・(20)怜
「あの‥‥すみません。 所沢さんがお見えになりました」
シスター松岡が、インターホンで声を掛けてきた。
「2階の診察室に上がって頂いて下さい」
久保医師が答えた。
「さあ、約束だよ、お嬢さん。
滅多なことは刑事さんに言わないことだ。
あやめちゃんを解除する方法は、私しか知らない。
彼を戻したかったら、私が無罪放免になるよう手をつくすことだね。
さしあたっては私が封印し損ねたこの怜を、何とか説得して協力させないとね。
キスでも何でもして、その気にさせてやってくださいよ、はははは」
久保医師は勝ち誇ったような笑いを残して、紙袋を持って裏口から出て行った。
あたしと怜の視線がぶつかった。
「怜さん‥‥。 お願い」
「おい! 美久ちゃんまであいつの言いなりか? ざけんなよ!」
怜はあたしに詰め寄った。
「警察の前でレミのふりして、ウソ八百並べてあいつを庇えって言うのか?」
「そうじゃない、そうじゃなくて‥‥。
お願い、怜さん。朝香センセと交代して欲しいの」
「なっ‥‥おっ‥‥」
怜は酸欠の金魚みたいに、口をパクパクさせた。
「勝手なこと言ってるのはわかってるわ。
でもあたし達が思ってるよりも、警察の捜査は進んでるはずよ。関係者が相当数、逮捕されているんだから。
きっとあたし達が何かしようがすまいが、久保先生が無傷って事にはならない。
刑罰を受けるかはともかく、元通り開業ができる見込みは薄いと思うわ。
ウィズは診て貰えない、これは確かだと思うの。
朝香センセは、ウィズのトラウマを取る為にいろいろ調べて下さったんでしょう? だったら、これまでのあやめちゃんたちのビデオだって見てるはずよ。
きっと何か方法を見つけて下さるわ」
「美久ちゃんは、オレを馬鹿に‥‥」
「してないわ。 こっちの都合で振り回して、ほんとに悪いと思ってるわ。
でもお願い、お願い!
ちょっとでいいから、レミ先生にウィズを診てもらいたいの!」
怜は息を荒くして、あたしをにらみつけた。
「おいっ! こいつはどうしたんだ?」
戸口に現れたベレッタ刑事が、倒れているウィズを見てあわてて駆け寄った。
「あ‥‥の、ウィズやっぱり、疲れが出たみたいで‥‥」
「そら見ろ、俺が心配した通りじゃねえか。
しょうがない、俺の車で連れて帰ってやるが、こいつの車は残っちまうぞ」
「それはあたしが後でお届けしますわ」
朝香センセの声がしたので驚いて顔を見たが、どうやら怜が演技に入っているようだ。
「そりゃどうも、先生にまでお世話おかけします。
で? どうなんだ、お嬢。 話はできたのか?
危ない目には会わなかったのか?」
「はい。 知りたいことはわかったわ。
でも、今その話は‥‥」
「わかっとる、あとで店で聞こう」
朝香センセに成りすました怜が手を貸して、ウィズを所沢刑事に背負わせ、車まで運んだ。
「申し訳ないんですけど刑事さん、あたしと美久ちゃん、あとから店に行きますから、先に出ていただけます?」
怜が言ったので、あたしは内心ドキリとした。
「少し相談したいことがあって‥‥。 ねえ美久ちゃん、時間取れるわね?」
「‥‥はい‥‥」
弱みがある分、あたしに拒否権はない。
所沢刑事の車がウィズを乗せて行ってしまうと、怜はあたしの腕を引っ張った。
「車に乗れよ。何でも言うこときくんだろ?」
「朝香センセと交代してくれるの?」
「9時まで付き合ってくれたら、考えてやるよ」
時計を見ると、まだ6時にもなってない。
不安がよぎったが、今さら後には引けない。
「いいわ。どこ行くの?」
ウィズの車のドアを開けながら聞いた。
「ラブホ」と、怜。
「‥‥陳腐すぎない?」
内心の動揺を隠して、皮肉を言う。
「この、あいつの車の中で抱いちゃうってのも、鬼畜でイイなと思ったんだけどさ」
「‥‥悪趣味ね」
怜は鼻で笑って、車をスタートさせた。
「イヤだって騒ぐかと思ったら、冷静なのな」
怜は横目であたしの様子を観察する。
「心臓バクバクしてるわよ」と、あたし。
「へへえ、美久ちゃん優しいよなあ。
言えばいいじゃんかさ。かえって傷つくぜ。
言っちゃえよ、『ラブホ行ったって、あんたに何か出来るの?』って」
「え?」
「いいよ、とぼけてくれなくたって。
オレが不能ってちゃんと聞いたろ? 美久ちゃん、あの時いたもんな」
「聞いたけど」
あたしは表現に困って、窓の外を流れる町並みに目をやった。
「あたしってラブホの入り口までは場慣れしまくりだけど、そのあとは初心者だからよくわかんないの。
男の人って、そういうことがそんなに重要なの?」
「どういう意味だよ?」
「結婚して子供つくるなら重要かもしれないけど、今からたった3時間ほどの間にそんなことがそんなに問題になるようなどんな抱き方があるのかって」
「うわあ。美久ちゃん、意外に平気で言うね」
「平気って」
「ナマナマしいこと言ってるじゃん」
「そうなの?」
なんか、ウィズと会話してると、表現への感受性が麻痺しちゃうのかも。
おまけに、気持ちも変に冷静。
心がついて行ってない。
あたしの心は、ウィズと一緒に所沢刑事の車に乗ってってしまったのかもしれない。
まるであたし自身が、別人格に分裂したみたい。
このままホテルへ行って怜と何をしても、全部忘れてウィズの元へ飛んで行ける気がする。
それが裏切りだとは、今は少しも思えない。 もしもウィズがあのまま元に戻らなかったら、あたしの心もどこかに凍結されてしまうと思うから。
「あのね、怜さん」
あたし、すっごく年取ったような気持ちになって、怜に話しかけてる。
「あたしとウィズ、まだ最後まで行ってないの」
「ああ? マジで?」
「うん」
「なんだよ。 おねだりしたのにそのまんまか?」
「まあ、いろいろあってそうなったんだけど。
それでも、あたしはもうウィズのものになったと思ってるし、3時間あれば、そんなことしなくたって何回だって幸せになれるのよ」
怜は黙ってひとつ静かに息を吐いた。
「美久ちゃんは、あれで終わりだと思ってんだろうけど、あやめちゃんの運命にはあの後があるんだぜ」
「あの後って、ビデオ撮影のあと?」
「撮影が失敗したあとさ。
コロ助はあの撮影失敗の後、パニックを起こしたんで久保があやめちゃんを植えつけて、とりあえず撮影の記憶を消した。
でも、次の撮影には使えなかった。 化粧をするとまたパニックになるからさ。
記憶は消えたが、トラウマは強化されて残っちまったんだ。
そういう『撮影に向かない子』は、どう扱われるんだったっけ?」
あたしは息を飲み、怜の横顔を見直した。
「そ、俺とおんなじだ。 接客に回されるのさ」
15分ほど走ったあと、怜は車を止めた。
そこはラブホではなく、ごく普通のマンションの駐車場だった。
怜は車を降りると、あたしの手を引っ張ってエレベーターに乗った。
「ここは?」
「オレのマンション。
美久ちゃん見てると、ラブホなんかじゃ可哀想でさ」
「可哀想?」
別にどこだって同じだ。
そんなことが優しさだなんて思えない。
吹雪くんの車はごく一般的な黒のレヴィンあたりを想定してます。そういうことには凝らない人ですので、あまり手入れはよくないと思われます。車内の掃除は美久ちゃんがしてます(自分でしろよ)




