・・・・・・(19)覚醒の呪文
「ああ、やっぱりきみか!」
久保医師は、親しげな笑顔でウィズを歓迎した。
洋画みたいなオーバーアクションは、あたしにはちょっと鼻についた。
「犬小屋の王子様が、ずいぶん美しい青年になったものだ。
もっともセックス産業じゃ、成人男性の美形はそれほど重宝しないんだがね」
「つまんない話はやめましょうよ。
かなちゃんを妊娠させたのって、先生ですよね?」
ウィズが無造作に切り込んだ。
「どうしてそう思う?」
久保医師の答えは慎重だ。
「かなちゃんの場合、僕と違って最近のことなのに、全く覚えてないっておかしいじゃないですか。記憶の消去なんて、誰にでも出来ることじゃない」と、ウィズ。
「甘い推理だ。
私が誰かに頼まれて、その人の記憶を消してやっただけかもしれない。
私本人がやったという論拠にはならんよ」
「例えば政治家とかそういう輩にですか?
相当報酬がいいんでしょうねえ」
ウィズが探りを入れると、久保医師が笑い飛ばした。
「だめだめ。誘導して私の頭の中のイメージを読もうとしても、引っかからないよ。
私も精神医学のプロだからね。
やすやすと心を読まれるようなヘマはしないよ」
「あなたはね」と、ウィズはにっこり微笑んだ。
「でも、あなたの道具たちは実に雄弁に語ってくれましたよ。
残留思念ってものがありましてね。実を言うと、僕はそっちのが専門なんです。
人の心は移ろいやすいが、モノは滅多に裏切りませんから」
ウィズは足元に隠してあった紙袋から、数本のビデオカセットを出して、マジシャンのように扇形に広げて見せた。
「ご自分の診察室でなく、朝香先生の診察室に隠し扉があるっていうのが、姑息なとこですよね」
「それは患者の診察記録だ!」
久保医師は激昂して、カセットを取り上げようとした。
「きみは患者のプライバシーを侵害しているぞ!」
「治療に関係ないものだけ選んで来たんですよ」と、医師の手を潜り抜けながらウィズが言った。
「デッキがなくてもビデオが見れるのが、僕の自慢でね。
音が拾えないのが難点なんですが」
ウィズはカセットの中から一本を選び出し、手のひらで表面をなでた。
「これがかなちゃんのカセット。
この部屋って、自動的に録画のスイッチが入るんで、不埒を働くと映像が残っちゃうんですね。
ただカメラの位置が最悪で、あなたのお尻ばかり見るはめになるんで、誰も見たがらないでしょう。
それでも消去してないのは、やっぱりヘンな趣味からなんでしょうか?」
あたしはウィズに協力して、紙袋を久保医師から遠ざけた。
「久保先生は、ビデオ関係のサークルで、2年間だけ大田原と一緒だったそうですね。
今回それがきっかけで、交流関係が洗い出されたようですよ。
芸は身を助くけれど、趣味は身を滅ぼしますね」
久保医師は息をはずませて、攻撃をあきらめた。
どうやら開き直ったらしく、悪党らしい笑い顔になって、言った。
「ふん。おみごと、と言っとくかな。
健闘のご褒美に、こちらの手の内もひとつ披露して見せようか」
「おや、奥の手がありましたか」
ウィズがからかいの表情を浮かべたとたん。
大声で、久保医師が叫んだ。
「さあ!あやめちゃん!遊ぼう!!」
ウィズは目を見開いた。
呼吸が止まり、口をぽかんと開けた。
その手の中から、カセットがガラガラと落ちて床に散らばった。
それきり、ウィズは動かなくなった。
「はははははは!
まだ効果が続いていたとは、大したものだ!
お帰り、あやめちゃん!」
久保医師の高笑いが、診察室に響き渡った。
「ウィズ?ウィズどうしちゃったの!ねえ?」
あたしはウィズに駆け寄って声を掛けた。体を揺さぶった。
ほっぺをペシペシ叩いた。
反応がない!
いやにゆっくりしたまばたきを繰り返しながら、無表情に立っている。
「ウィズ!聞こえないの!?」
「お嬢さん、彼は今、きみの魔術師ではないんだよ。
私が作った第二人格と交代したんだ。
この人格が、彼の記憶の一部を取り込んで、識域下まで沈んでいたんだ」
久保医師がウィズに近づいて、その頭をなでた。
「この子が、私の“あやめちゃん”だ、よろしく」
「第二人格?ウィズが、多重人格だっていうこと?」
あたしのつぶやきに、怜が駆け寄ってきて説明した。
「美久ちゃん、これはオレやレミのような分裂人格と違うんだよ。
都合が悪い記憶を、パソコンのゴミ箱みたいに整理しようとして、おっさんが作ったんだ!」
「それはあんまり人聞きが悪いじゃないかね」
久保医師が顔をしかめた。
「もともと、あやめモデルの恰好をしている時に起きたトラブルを処理するために取った方針なんだ。
あやめという別人格で、あやめモデルをさせれば、別の場面で秘密をバラす危険がない。
日常生活に支障をきたすことなく、仕事ができる。
理想的なケースとして、これを私の研究テーマにしたんだ」
「ご都合主義なのには変わりないじゃんかよ!」
怜があきれて叫んだ。
「そうは言うがね。なかなか興味深い話なんだよ、これが。
だいたいにおいて解離性同一性障害、俗に言う多重人格なるものは、圧倒的に被虐待者に多い病気なんだ。
日常的につらい目に会っている子供が、つらさを忘れて明日は何事もなかったように生きていこうとして発動する、自動忘却システムなんだね。
つまり、今日のつらい体験は、自分でない他人の身に起こったことであるとして、記憶を分解してしまう。
分解した記憶を、ひとりの担当者に持たせて、普段は元通りの生活をする。
もう一度、同様なつらいシーンを迎えると、前回の担当者が現れて、自分の代わりに苛められてくれる。
自分はその記憶を持たずに生活できる。そういうシステムなんだ。
だから、多重人格者は、相互の人格の記憶は、ふつうやりとりしない。
怜とレミの場合は、自身で症状を研究した経緯があるから、お互いの記憶に多少の行き来があるがね。
ところが、虐待された子供が全員、多重人格者になってしまうのかというとそうじゃない。
人格が解離するには、いくつもの条件が必要なんだ。
まず、発症時期が早く、幼児期に自我が確立する前におこっていること。
次に、子供の性格が、積極的でポジティブであること。
頭のいい子供であること。
想像力豊かな子供であること。
こういった条件が満たされず、多重人格になる代わりに自傷癖が出たり、他人を傷つけたり、その他各種の障害を経験する者も多いわけだ。
その原因はつまり、忘れたいけど忘れられない記憶、もしくは忘れてしまったからこそ、克服できない記憶のせい。全ての鍵は、記憶なんだ。
そういう者に、仮の人格を与えてやるとどうなるか?」
あたしと怜は、ウィズの顔を見た。
「この子がここに連れてこられた時、軽度の記憶障害を起こしていた。
でも、もう自我がしっかりしているからね。
記憶を捨てても、それを引き受けてくれる人格はいない。
そこで彼に、あやめちゃんという引受人を与えてみたんだよ。
それがこの子なんだ」
あたしは、身じろぎもしなくなったウィズを見上げた。
「あやめちゃん、あなたが3人目のあやめちゃんなのね?」
全く無反応に見えた彼が、実は発言する人を目で追ったり、激しく動くものに自然と視線を移すことに気づいたのは、この時だった。
「もしかして、口がきけなくしたのもあなたなの?」久保医師に質問すると、
「当然だ。余計なことを喋られたら困るじゃないかね」
さも当たり前のように言われて、ぶち殴りたくなった。
なんてことだ。
3人目のあやめちゃんは、ウィズ自身の中にいた!
「それじゃ、彼はあやめモデルの仕事をしたことがあるのね?
なのになぜ、警察の押収品の中にその写真やビデオがないの?」
あたしの問いかけに、久保医師は複雑な表情を見せた。
「あやめちゃん。
落ちたカセットを拾って、私のところに持って来なさい。
ああ、紙袋ももらっておいで」
ウィズは静かにひざまづいて、カセットを拾い集めた。
物音をたてないおっとりした所作が、普段の彼のものとは違っていた。
久保医師はカセットを受け取ると、中から黒いケースの一本を選び出した。
「あやめちゃん、そこのデッキで、それを再生しなさい。
皆さんにきみの仕事ぶりを見て頂こうね」
ウィズはカセットを壁際のデッキに入れ、少々迷いながらも巻き戻しを始めた。
「待って!やめて、そんなもの見れないわ!」
あたしはウィズを止めようとした。
ウィズが虐待されるシーンなんか見たくない。
1階では、シスターとかなこちゃんだって、モニターを見ているのだ。
「あやめちゃん、再生しないで!」
その時、あたしの携帯が鳴った。
ベレッタ刑事からだ。
「出ないで下さいね、お嬢さん」と、久保医師が牽制した。
「いらぬことを喋られては困ります」
「出なかったら、ここに来ることになりますよ」と、あたし。
「なら、出なさい。出て、ここに来ないように言うことです」
「イヤです」
「ふうん。彼、このまま元に戻らなくてもいいんですかね?」
久保医師はあごでウィズのほうを指した。
そうこうしているいちに、呼び出し音は途切れてしまった。
10秒しか鳴らさない約束なのだ。
あと5分でベレッタ刑事が入ってくる。
表向きは、シスターたちのお迎えと言う名目で。
診療時間内だから、受付から堂々と通れる。
一階にいるシスターと合流して上がって来てくれと言ってある。
「私に不利なことは、警察に喋らない約束にしてもらいましょうか。
この証拠品も、見なかったことにして貰います。
協力してくれたら、容疑が晴れて戻ってきた後、彼を診察して元に戻しましょうね」
あの、いやったらしいうすら笑いを浮かべて、久保医師があたしと怜を見比べた。
その時、ドアの開く音がした。
全員がハッとしたが、それはビデオの中の音だった。
再生が始まってしまったのだ。
ビデオ画面には、ビジネスホテルらしい部屋の、入り口のドアが映っていた。
ドアを開けたのは、鶏のトサカのような派手な赤い髪の女だった。
「見てよ!ちょっと凄いんだよ」
彼女は子供の手を引っ張って、後ろからドアの中に引き込んだ。
「ビデオ回ってる?」カメラを見て、女が言う。
「撮ってるよ」至近距離で男の声。撮影者の声だ。
その子は顔を伏せて入って来た。
セミロングの黒髪をソバージュに巻いて、下着にも見えるような、黒いドレスを着ていた。
「いい?驚かないでよ!」
トサカ女が、自慢げな顔でその子の顎を持ち上げ、正面を向かせた。
「すっ‥‥げ‥‥」
怜が声を上げた。
画面から、スタッフのざわめきが聞こえて来る。
黒いまつ毛に縁取られた、強烈に底光りする両眼が現れた。
真っ白い肌に真っ赤な口紅。
性別は不明。
妖艶な中に、凛とした気品があって。
アブナイのか、ストイックなのかわかんないこの感じは、スーツを着たウィズを見たときと同じ印象だ。
子供とは思えない凄みのある顔に、体格の方は華奢な子供のものだから、何か人間離れしたモノにも見える。
妖怪とか。
妖精とか。
魔物とか。
「こりゃすげえ」
「男の子なんか被写体になるかって、勝田さん言ってましたよね?」
「こりゃ前言撤回だなあ。
おい大田原、お前スチール撮っとけよ。ビデオだけじゃあもったいねえぞ」
アングルの外で、監督らしい男の声が指示した。
「おい、大田原?早く支度しろよ!」
「おっ‥‥おかしいよ、そいつ。
なんか、何がヘンなんだろう」
大田原の声がした。
裏返ったような、妙な声だった。
「そうだ。おかしいのは匂いだ。
なんか、そいつヘンな匂いがしねえか?
気が狂いそうな匂いがする、そうだ、匂いだよ」
大田原は画面の中に入って来て、子供に鼻を近づけた。
まだ学生の体形の大田原は、ひどく怯えてビクビクしていた。
「あんたおかしいんじゃないの?
何も匂わないわよ、お風呂に入れて連れてきたんだからね!」
トサカ女が噛み付いた。
「おかしいのはあんただ!
これに、これに気づかないのか?
こんなこんな魔物みたいな悪魔みたいな匂い!」
大田原はテーブルに走り寄った。
ホテルの何の愛想もないテーブルだったが、撮影のための演出らしく、ピンクの布を掛け、化粧品とスタンドミラーと、ぬいぐるみがひとつ置いてあった。
大田原は香水のボトルを取り上げ、中身を子供に噴射した。
何度も何度もしつこく。
子供が大声で泣いて暴れ始めた。
「おい、押さえろそっち」
「馬鹿、大田原だっ、大田原押さえろ」
そこから先は、狭い床に人が殺到していて、現場が見えない。
「やめろ!手を離せ!首から手を離せ、死んじまうぞ!」
「わあああああッ!」
大声で叫んでいるのは、大田原だ。
暴れる大田原を、スタッフが数人で画面の外に引きずり出す。
「おい、やばいぞ。誰か人工呼吸の出来るやつ‥‥」
そこでビデオは唐突に終わっていた。
あたしも怜も息を飲んで、消えてしまった画面をいつまでも見ていた。
「‥‥幻のスチール撮影の顛末だ」
久保医師が、沈黙をやぶった。
彼は床にかがみこんで、ウィズの体を床から引き起こしていた。
「あっ。ウィズ?どうしたの?」
ウィズはいつのまにか気を失って床に倒れていたのだ。
「ビデオがショックだったんだろう。
心配はいらん。許容量を超えるとスイッチを切るよう躾けてあるんだ」
久保医師はウィズの体を壁に持たせかけて安定させた。
「この子は言葉や行動で抵抗できないからね。
防御システムを持たせないと、ストレスで異常を起すんだよ」
「ロボットじゃないのよ?」
あたしは久保をにらみつけた。
「第一、香水のトラウマは回避できてないじゃないの。
そのせいでウィズ人ごみにも出られないのよ。
“ウィザード”の店がなかったら、就職もできずに引きこもりになってるとこだわ」
「それが私のせいかね?助けてやったのにあんまりな言われようじゃないかね?
ショックで抜け殻になってしまった子供を、親になりすましたスタッフがこっそり連れて来て、開業したばかりの私が診たのさ。
封印の方法もその時開発した。
その後のモデルにも使えて便利な方法だった。
それがこの子のためになってないなんて、私は思わないけどねえ?」
「大田原は何を考えてあんなことをしたの?」とあたし。
「太田原恒彦もまた被虐待児童だったんだよ」
久保医師が説明を始めた。
「彼は裕福な家のひとり息子だったが、母親が家に収まらない女性でね。
子供の養育は、住み込みの家政婦まかせだったらしい。
誰も居ない家では、この家政婦とその家族が王様だった。
家政婦には三人の娘があり、この娘達に、太田原は相当ひどいいじめを受けて育ったと言うことだ」
彼が童女を傷つけるのは、じつは怖がっているからなんだよ」
そう、虐待は連鎖する。
親から子へ、人から人へ。
なんだか無性に腹が立った。
さてここは美久ちゃんにふんばってほしいところです。次回お楽しみに!