・・・・・・(13)フェロモン・スーツの効用
次の日は、クリニックの診察日だった。
母の車で駐車場に乗り入れると、ウィズがすでに来ていて驚いた。
「神父様が、かなちゃんの赤ちゃんのために祈ってくださるというから、7時からのミサに出てきたんだよ」
きのうは、神様なんていないと言ったくせに。
ウィズも、いろいろ複雑だ。
そういうわけで、今日のウィズはスーツで正装だ。
これがものすごく似合っていて、もう今年の目の保養は使い果たしてもいいかってくらい。
でもはっきり言って、ちょっと相当イケナイ方向に似合ってると思う。
母がこっそり囁いた。
「吹雪さんってイイ男だけど、なんかアブナくない?
なんて言うんだっけ、こういうの。‥‥セバスチャン?」
コスプレじゃないんですけど。
しかも、微妙に正解に近い気もするし!
これは絶対、朝香センセが大はしゃぎだろうなあ‥‥。
ウィズを待合室に残して、診察室に入る。
あたし、思いっきり覚悟して来た。こないだの晩、ウィズとどうなったのか、洗いざらいしゃべらないと、センセは許さないだろうなって。
別にいやだとは思わないけど。
あの晩、朝香センセがウィズとの間に入ってくれなかったら、いまだに口もきけずにいたかもしれない。
だから、事後報告くらいはちゃんとしたいし、センセに話を聞いてもらうと、とってもスッキリする。
プロだからというだけでなく、お人柄もあるんだろう。
ところが。
この日の朝香センセは、なんだか最初から「らしく」なかった。
「どう?その後、悪い夢は見る?」
口調はいつものセンセなんだけど。
「あれから見ません。センセ荒療治がきいたんでしょうか?」
エヘヘとふざけて言ってみたけど、センセは乗ってこない。
あたしを机に呼んで、簡単なロールシャッハや選択心理テストをした。
「特に問題はないわね、美久ちゃん」
さっさと診断して切り上げてしまった。
下手するとこのまま終わってしまいそうなので、あたしはあわてた。
「センセ、あたしセンセの言われたようにしてみたんです」
しょうがないので、自首して出ることにした。
「あら。吹雪クンにおねだりしたの?」
「う。‥‥はい」
「聞くわ。横におなんなさい」
「‥‥はい」
この時、あたしの背筋を、ぞくりと悪寒が走り抜けた。
なんだろう。
なんだか、この人の前で横になるのはイヤ。
ウィズほどじゃないにしろ、あたしにだって直感ってものはある。
前回感じなかったものを感じる。
恐怖感だ。
センセがオトコだって知ったからだろうか?
でもあの晩、免許証を見てしまったあと、センセとふたりでエレベーターに乗って、7階のウィズの部屋まで上がった。
あたしはベソをかいたままだったから、センセの肩にすがっていた。
少しも怖くはなかった。
生物学上どうであれ、あたしにはセンセは女の人でしか在り得ない。
それがなんで、今になって怖いのか?
「どうかした?美久ちゃん」
シートに腰掛けたあたしがいつまでも横にならないので、朝香センセが声をかけた。
「あの‥‥このままじゃいけませんか?」
言いながらセンセの顔を見て、あたしはドキリとした。
ふわりと泳いだセンセの視線は、あたしにはお馴染みのものだった。
「お前、胸が垢抜けたな」
そう言って覗き込んだ、野村と辻本の目。
「背筋を伸ばしなさい」
と、胸元に手を入れて来たミヤハシの父の目。
性的概念ズレまくりのウィズでさえ、視線だけは時々、峠のあたりで迷子になる。
見てた。センセも。
あたしは思わず、左手で胸を隠そうとした。
「そうやって誘惑するのか‥‥」
ポツリという、声。
朝香センセの声?‥‥今のが?
「世も末だな。オトコを知らないうちに、オトコを誘う女がいる」
朝香センセの顔が変わっていた。
同じ顔なのに、明らかに印象が違う。
顔の筋肉の使いようが違うからだ。
可愛らしくつぼまった感じだったあの唇から、ぞろりと歯並びが見える。
白目が目立つ両眼も、さっきと違う。
肩をいからせた姿勢のせいで、体はいつもよりずっと大きく見えた。
これは悪い夢なんだろうか?
「そんなに怖がらなくていい。
オレは、美久ちゃんのことは気に入ってるんだ。なんにもしやしないよ」
朝香センセは、男の仕草で椅子に座りなおし、怯えてシートの端まで移動したあたしに笑いかけた。
笑顔の印象も、まるで違う!
「美久ちゃんは、素直で可愛くてオレ好みだったのに、レミが余計な入れ知恵するから、ちょっと悪いコになっちゃんたんだな。
まっ、バージンじゃなくてもオレは気になんないけど?」
「朝香センセじゃないんですか?あなた、誰なんですか?
…もしかしたら、『怜』さん?」
ただのジョークよと言われることを期待しながら、聞くしかなかった。
「へえ、よく知ってんな。おっしゃるとおり、オレは怜だ。
朝香レイミの本体なんだよ」
「あなたが本体?朝香センセは?」
「レミの人格は、『アトノセ』なんだ」
「後乗せ?」
「そっ、生きる方便として出てきた人格ってこと」
「多重人格?」
「そういう下世話な総括のしかたって、嫌いだな。
まあいい、オレは忙しいんだ。この体が使える時間は限られてる。
そこで、美久ちゃんに頼みがあるんだ」
「…え?」
「オレはちょっと用事で外に出る。
美久ちゃんには、これから診療プログラムで自由画を描いてもらうことになってる。
それを一人で描いていてほしいんだ。
次の患者が来る10時まで、オレがここに居たことにしてくれないか?」
「朝香センセ、何をするつもりですか?」
「君たちも賛成してくれるようなことさ。
大田原の居場所、君たちも知りたいんだろ?」
「それを調べに行くんですか?」
「そっ。久保先生って2階のタヌキおやじが全部仕切ってんのさ。
オレが大田原を殺したがってるもんで、警察よりもオレの方を警戒してる。
今なら久保のやつ診療中だから、自宅に入りこめると思うんだ。」
「あたしはごまかせても、ウィズにはバレますよ?」
「コロ助だって、大田原を殺したがってるさ!
協力させりゃいいんだ」
コロ助……。
「やっぱり、昔のウィズの知り合いなんですね。
あやめちゃんのことシスターに尋ねたのも、あなたなんでしょう?
教えて下さい。あやめちゃんって誰なんですか?」
オトコの朝香センセは、肩をすくめた。
「あやめはタイトルの名前だ。キディ・ポルノって知ってるかい?
そういう冊子があるのさ。
それに使ったモデルの子供をあやめちゃんと呼んでたんだ。
詳しくは、ヤクザの専門家のベレッタさんに聞いてみな」
早口で言ってから、朝香センセは立ち上がり、廊下と反対側のドアを開けようとした。
その時、廊下側の入り口をノックする音がした。
「失礼」
「ウィズ!」
ウィズはするりと部屋に滑り込んできた。
「美久ちゃん、大丈夫?」
さすが探知機。あたしの動揺が伝わったらしい。
「ウィズ、朝香センセが……」
ウィズも朝香センセの表情を見るなり、異変に気付いた。
「あれ誰だ?」
朝香センセは、裏口のドアを開きかけたまま、固まっていた。
そしてそのままずるずると、床に座り込んでしまった。
「センセ?」
きょとんとした顔でまばたきを繰り返す朝香センセ。
ウィズの姿を見て、気がぬけたようにへラッと笑った。
「吹雪クンたら、まあ、なんてカッコ……」
座り込んだままクスクス笑う。
あ。女の人になってる。
「すっごくステキ。アキバ歩いたらスカウトが来そうね」
あたしとウィズは顔を見合わせた。
どうやらウィズのスーツ姿を見たショックで、女性に戻ったらしい。
喪服を着るとものすごく雰囲気が変わる人ってたまにいますよね。吹雪君は普段は家にいて服装もカジュアルです。スーツ着るときは改めて髪型なんかも変えるので、そういうことも影響してると思われます。