・・・・・・(3)魔術師との出会い
体に叩きつけるような、土砂降りの雨だった。
路上に座り込んだあたしの目の前は、雨のしぶきで白く煙っていた。
手の中にあるのは、ズタズタに切られた学校指定カバン。
切り刻まれたノートと教科書が、一面に飛び散っていた。
走り去る友人3人の足音が途絶えてからずいぶんになるのに、あたしは動けなかった。
いじめが始まったのは、昨日今日のことじゃない。
その日が一番ひどかったわけでもない。
でも、あたしの絶望は前日までの比ではなかった。
カバンの破損は、母にバレる。
きっと理由を問い詰められる。
そして、話しても話さなくても、担任に相談されるだろう。
加害者の追求という歯車が回り始める。
そういうものは回り出すと決して止まらず、何もかもを巻き込んで明るみにさらけ出すだろう。
当然、あの写真のことも。
ミヤハシ先生とのことも。
死にたいとは思わなかった。
でも、気がついたら何もかもが終っていたらいいという願いがあった。
その願いを叶える手段として、死は適当な選択だった。
車の音がした。
滅多に車両が進入して来ない路地なのに、こちらへ走って来る。
あたしは目をつぶった。
そうしているうちに、車があたしの上を通り過ぎてしまえばいいと思った。
けれど車はあたしの目の前で止まり、中から降りて来た人は、小豆色の傘をあたしにさしかけた。
「車に乗ってくれない?」
40代後半に見える、ショートボブの女性だった。
「あとで家まで送るけど、とりあえずは体を乾かして、荷物をどうするか考えましょ」
おかしな口調だった。
普通はまず家へ帰そうとするものじゃないだろうか。
あたしが家へ帰りたくない理由がわかっているかのようだった。
ぼんやりとその人の顔を見上げて、あたしは思考停止していた。
「お願い。 あなたを連れて帰らないと、息子に叱られてしまうわ」
女の人はそう言って、半ば強引にあたしを立たせ、荷物の残骸をかき集めた。
車の中で、女の人は事情を尋ねる言葉をひとことも発さなかった。
どこの学校のカバンなのかを尋ねられただけだった。
ふたつ向こうの町まで連れて行かれた。
あたしはおとなしく成り行きに身を任せた。
(この女の人が誘拐犯の仲間で、これから監禁されるのだったら、カバンのことがばれなくて丁度いいのに)
とんでもないことを望んでいた。
頭の中で、現実逃避のために作ったドラマが一人歩きしているのは、当時のあたしの日常だった。
そしてきわめつけのドラマは、それから行く場所で待っていた。
そこは魔術師の住み家だったのだ。
車が着いたのは、繁華街に近いマンションビルの前だった。
1階がテナントになった作りで、その一番はしっこにあるのが彼女の店だった。
「ウィザード」と書かれた重厚な木の看板が下がっていた。
重い木のドアが大時代的すぎて、そこがスナック喫茶だということにすぐには気がつかなかった。
2階にある彼女の住居でシャワーを借り、洋服を一式借りた。
「ココアを入れたから、飲んで待っていてね」
そう言うと、彼女はあたしの脱いだ服を何処かに持って行ってしまった。
ひとりでリビングへ出て行くと、そこに人が立っていたので飛び上がった。
あたしと同年代、つまり中学生の男の子だった。
詰襟を着て、学生カバンをかついで、こちらを真っ直ぐ見ていた。
あたし、その顔を見て眼を疑った。
まるで誰かが描き直して整えたんじゃないかと思うような、完璧な美形なのだ。
彼は無表情にあたしを見ながら、カバンをテーブルに放り出した。
その動作に違和感があった。 おっとりした動きなのに、小さい子が動くような唐突さがある。
どこがとは言えないけど、なんだか普通の人と違う少年だった。
「きみピアノ弾く?」
これまた唐突に、彼が話しかけてきた。
「は? ピアノ?」
「ピアノの蓋を開けたり、鍵盤を触ったり、そういうことを普段する人?」
「? いいえぇ?」
「じゃ、運ぶ時気をつけてね」
「え?」
「きみがピアノにひかれないようにね」
何のことかサッパリわからないので聞き返そうとしたら、もう相手はこっちを見ていない。
会話を成立させる気があるのかどうかも怪しい態度で、ホワイトボードのメモを見ている。
気をつけるも何も、そもそも我が家にはピアノがないのだ。
(ヘンなヤツ‥‥)
さらにそいつは奇行を続けた。
「血の匂いがする」
急につぶやいたかと思うと、あたしの腕をつかむや、首筋に鼻先を近づけた。
「いや! 何するのっ」
あたしは悲鳴を上げて彼を突き放した。
相手はつかんでいた手を離して目をしばたたかせた。
どうやら驚いているようだ。
この時気付いたのだが、彼はじつに表情に乏しい男なのだ。
そしてこの時、実はあたしも相当驚いていた。
(……かゆくならない!)
あたしの体は、あの事件を境に男性を受け付けなくなっていて、触られたところが痒くてしかたなくなるのだ。
ところがこの時、彼がつかんだはずの腕からは不快な痒みが上ってこなかった。
「どこを怪我したのか、言ってくれたら触らない」と、彼。
「う、腕…」
彼の言う通り、あたしは軽く怪我をしていた。
カッターでカバンに切りつけられた時、抵抗しようとしてニの腕をかすられたのだ。
何故そんなかすり傷が彼にわかるのか、不思議だった。
「喜和子ママに消毒してもらって」
彼が指差したドアがすぐに開いて、さっきの女の人が現れた。
「ビンゴ! 柴田さん、ほんとに娘さんが卒業生だったって」
彼女が高々と掲げたのは、あたしの物と同じ学校カバンだった。
彼はカバンをあたしにくれながら、
「常連さんが譲ってくれたんだ、使って。教科書は僕のをあげる」
と言った。
「あらあら、いくら1年生の時のでも、受験生なのにあなたはいいの?」
喜和子ママと呼ばれた女性がさすがに異論を唱えたが、
「離れてても読めるからいいんだ」
息子はそっけなく受け流した。
「そうだ、ねえ、何か言ってよ。 赤い方が似合うって言ったから、着てみたのよ」
喜和子ママが自分のTシャツの生地を引っ張って息子に見せた。
仕事用らしく、胸に「WIZARD」とロゴの入ったTシャツだ。
「うん。 そのほうがいいよ」
「ウィズのほうのTシャツは何処に行ったの?」
「今着てるよ」
「学ランの下に?」
「そう」
「止めて頂戴、下着代わりにするのは。
せっかくのペアルックなのにもったいないわ」
この他愛ないやりとりを聞きながら、あたしは1つの思い込みをしてしまった。
ウィズというのが、この少年の呼び名と思ってしまったのだ。
この風変わりな男の子は魔法使いで、何でも知ってる。
だからウィザードのウィズなのだ、と。
実際には、ウィズと言うのはこの時彼が着ていたTシャツのことだった。
ロゴのWIZの3文字だけが大きいデザインだったらしいのだが、この時点であたしに判る筈はなかった。
2時間ほど後。
洗ってちょっと型が崩れたけどとてもきれいになった制服と一緒に、彼のお下がりの教科書をもらった。
「あの……ウィズ」
お礼を言おうとして、迷いながら呼んでみた。
「なに」
当たり前のように返事が返った。
彼にとって言葉なんかなんの意味もないのだった。
自分が呼ばれたと判れば、それで問題はなかったのだ。
次の日、あたしは彼が本物のウィザードであったことを思い知らされた。
体育館の掃除をしていてステージの上にいた時、後ろから押されて落ちたのだ。
調律をするためにステージ中央に押し出されるピアノに、だ。
足を軽く捻挫した。
「美久はピアノに轢かれた」
「美久はピアノに撥ねられた」
そうみんなにからかわれた。
あの喫茶店がスナックとしてよりも、占い館として有名であると言うことを知ったのは、それからしばらくしてからだった。
のちに百発百中の占い師として有名になる、ウィズこと如月 吹雪との出会いは、こんなふうだった。
彼は見たり触れたりする物の中から、あたしたちには見えない沢山の事柄を読み取って暮らしていた。
その分、言葉に対する情熱は薄かった。
「ねえ、どうして僕のことをウィズって呼ぶの」
彼がそう尋ねて来たのは、なんと出会ってから1年以上も経ってからだった。
そのころにはもう、このおっとりした仙人のような美形が傍にいることが当たり前の生活になってしまっていた。