・・・・・・(2)脳内ハッキング
暗がりで、何かがひらめく。
わずかな光を反射して、闇に浮き上がる白さ。
人の顔だ。
白目の部分と、薄笑いを浮かべた口元から、こぼれる白い歯。
ぬっと手が伸びて、あたしの肩をつかむ。
シュッ。
銀色の光が、あたしの視界を裂く。
思わず顔面を手で覆う。
手から血が噴き出してくる。
ナイフが指の間から侵入してくる。
眼球に突き込まれる。
やめて!やめて!
視界が真っ赤になる。
ミヤハシ父があたしを後ろから羽交い絞めにしている。
あたしの目から流れる血を、棒のような舌でなめ回す。
「姿勢をよくするには、こいつを入れるといいんだよ」
登山ナイフをあたしの股間に、一気に突きこむ。
ああ、床が血の海だ。
真っ赤だ。真っ赤に流れていく。
自分のうめき声で目が覚めた。
心臓の音で頭ががんがんする。
呼吸は荒くふいごのようだ。
布団に染み込むほどの、大量の汗。
もう3日もこうして夜中に目が覚める。
そうなるともう朝まで眠れない。
次の日、あたしは予備校をさぼって部屋で機能停止していた。
母は心配し、仕事を休むと言ったが、大丈夫よと送り出した。
そのまま寝たり起きたりして、夕方になった。
薄暗い部屋で、突然恐怖にとらわれた。
逃走したままの、大田原の顔が浮かんでくる。
あの男が戻って来たらどうなるだろう。
うちに火でもつけかねない男だった。
たまらず家を出て、「ウィザード」に向かった。
熱もないのに足がもつれる。
そういえば、朝から何も食べてなかった。
「大丈夫か?そっちへ足を伸ばせ。
頭、ちょっと低くだ。ようし」
店の扉を開けると、威勢のいい声が響いていた。
奥のほうでバタバタと数人が動き回っている。
「何かあったの?」と、喜和子ママに声をかけた。
「美久ちゃん!あなたの方は大丈夫なの?
こっちは貧血おこしたのよ!」
「えっ?‥‥ウィズ!?」
ソファに横たえられているウィズに駆け寄る。
ポロシャツ姿の中年男が、甲斐甲斐しく世話をしていると思ったら。
「あ。ベレッタ刑事!」
「刑事と呼ぶな!今日は非番で来とるんだ」と刑事。
ふつう、ベレッタのほうを嫌がりそうなもんだ。
「お前さんのトカレフは、病弱なのか?病院行くなら車を出すぜ」
「‥‥いや、ただの寝不足ですから」と、ウィズ。
顔色が悪いし、ぐったりしている。
なのにあたしの顔を見ると、くすくす笑い出した。
「やだなあ。なんで美久ちゃんの方が元気なんだろ?」
「え?」
あたし、あっと叫んでウィズに詰め寄った。
「またやったわね?今度ひとの夢に勝手に入ったら、絶交だって言わなかった?」
「ごめん‥‥わざとじゃないんだよ」
魔術師が謝った。
「通りかかったら、引きずり込まれるほど強烈なやつ見てるんだもの。
夕べなんか美久ちゃん、体が半分になってたよ?」
「フツーの人は、他人の夢を通りかかったりしません!」
「ふうん、そうなんだ」
「感心すなッ!!」
「おい、おい。どういうことなんだ?」
ベレッタ刑事が不思議がった。
「彼、のぞき魔なんです、刑事さん!
無断で人の頭の中を読むのって犯罪ですよね?」
「うーん。見えもしないものを見えると偽って商売したら犯罪だがなあ」
「他人のプライバシーをのぞくんですよ?」
「そう思わせるのが、霊媒師の仕事でもあるからなあ」
「僕は霊媒師なんかじゃありませんよ」と、ウィズ。
ベレッタ刑事、ため息をひとつ。
「悪いが、俺は現実主義者でな。
霊媒でも易者でもかまわんが、未来がわかるとか心が読めるとかいう話は信じられん。
まあ、夢を売る商売と思えば、犯罪とは言えんだろう」
ウィズが何か反論するかと思ったが、彼は黙っていた。
あ。でもこの沈黙は‥‥まずいかも。
ウィズはゆっくりと起き上がり、刑事に言った。
「もしも、僕があなたの頭の中を読むことが出来たら、どうなります?」
あああ‥‥やっぱり。
「こら。まだ横になってなさい」
喜和子ママがウィズを寝かそうとしたが、押しのけられた。
刑事は苦笑した。
「どうなるって‥‥。どうにもならんよ。
どこから情報を仕入れたんだろうと、疑問には思うだろうがね」
「オスカの話でもですか?」
「‥‥なんだと?」
「オレンジ・スカッシュですよ」
刑事の顔が、硬直した。
「‥‥また、えらいもんを出して来やがったな!」
「刑事さんは、初めて来た店で、必ずメニューにオスカがないか、探してますよね。
でも店員に尋ねたりはなさらない。
めったに置いてないことを知ってるからです。
うちにもレモンスカッシュはあるけど、オスカは置いてない。」
「誰から聞きやがった‥‥?」
「へえ。ラムレーズンなんか入れるんですか、オスカに?」
「なんでそんなことを知ってる!」
「今現在、あなたの頭に浮かんでいるからです」と、ウィズ。
「チェリーのかわりにレーズンが入ってます。
僕は甘いのが苦手なんでパスですが、これはどこの店のものですか?」
刑事は乱暴にテーブルを叩いた。
「学生時代、バイト先で俺が作ったんだよ!
甘党で悪かったな!!」
店内が静まり返った。
ウィズはゆっくり目を閉じて、再び横になった。
「‥‥とんだハッキング野郎だな」
刑事は弾んだ息を整えながら、向かい側のソファに座り込んだ。
「普段はアンテナをたたんでますからご心配なく」ウィズが言った。
「友達いねえだろ、お前さん」
ウィズは即答しなかった。
ドキリとするほど長い沈黙のあと、
「おっしゃるとおりです」と答えた。
さすがに気がとがめたらしい。
ベレッタ刑事、何度か咳払いをし、頭をボリボリかいた。
「お前さんみたいなのが千人もいれば、全国の警察官の3割がたは失業だ。
おれみたいなロートルは、一番に首チョン組に入っちまう。
まあ、凡人のひがみなんてその程度のもんさ。
実際には、お前さんは警官でもないし、餅は餅屋なだけなんだがね」
ウィズの唇に笑みが戻ってきた。
「すみません」
「‥‥なんで謝る?」
「喧嘩を売ったのはこっちなのに、気を遣っていただきました」
「気にすんな、こっちが先に失敬したんだ。
大体、おれのほうがいい大人なんだ。分別の持ち合わせも多いさ」
ウィズはソファに体を起こし、カウンターに声をかけた。
「ねえ喜和子ママ、頼みがあるんだけど」
「オスカでしょ?今作ってみてるとこよ!」
喜和子ママ、得意そうに答える。
「あそこにも千里眼がいるぞ!驚いたな!」
刑事が目を見張った。
あたしはいつものように、ウィズの隣に腰をおろした。
そうか。
ウィズが、虐待を乗り越えてまっすぐに育って来れたのって、この並外れた勘の良さのおかげなのだ。
彼は自分に本心から好意を寄せてくれる人を、正確に見分けて心を開く。
なんでもお見通しの彼が、人に信頼を寄せるとしたら、それって普通以上に価値があるものかもしれない。
あたしにも、そのプレミアをもらう資格があるだろうか?
ウィズの、イヤミなくらい整った横顔のラインを視線でなぞるうち、あたしはふと涙が出そうになった。
好き。
ただそれだけのことなのに、自覚するたびに動揺する。
大好き。
その言葉の中に、悲しみも、喜びも、痛みも罪も混じっている。
あふれ出す感情の濃さが、涙の味にとても近い。
「そうだ。こいつをお嬢に渡しとこう」
ベレッタ刑事は札入れの中から、カードを一枚取り出した。
なにやら細かい文字がびっしり印刷されている。
「事故や犯罪に巻き込まれた人たちの、心のケアをしてくれるクリニックの一覧だ。
サイコセラピストがていねいに対応してくれるぞ。
紹介者んとこがおれのサインになってるから、優遇してくれるはずだ」
へえ。ベレッタ刑事、所沢さんていうんだ。
所沢 直純さん。
クリニックの細かいアドレスを読んでいるうちに、見覚えのある名前を見つけた。
朝香レイミ。
「朝香センセって、精神科の女医さんだったんだあ」
「ああ、あれはいい女だな。
小股の切れ上がった、っていうのは、ああいうタイプを言うんだぜ」
所沢刑事が古風な表現を持ち出した。
行ってみようかな、と思った。
どうせ性的トラウマに触れずに治療を受けるのは無理なのだ。
なら、女の先生の方が話がしやすいに決まってる。
「行くのはいいが、お前さんあんまりひとりで行動するなよ。
大田原 恒彦がまだ逃走中なんだ。
当分、誰かと一緒に行動するようにしろよ」
「ええ?まだつかまってないんですか?」ウィズが驚いた。
「警察はなにやってるんですか?刑事はこんなとこで遊んでるし」
「そいつは一課に言ってくれ」と、所沢刑事。
「捕まえたら尋問の時に呼んでやるよ。
あんたがいると、吐かせる手間がはぶけて楽そうだ」
「やですよ、殺人鬼の頭の中読むなんて」
ウィズが肩をそびやかした。
ベレッタ刑事、チョイ役の予定だったのになんとなく筆者が気に入って使い回ししてます。吹雪君はひそかにファザコンなので、刑事さんには素直です。