栞はそっと宵空を見る
「はい、ご苦労様」
これで提出は完了したと、本から手を離して司書は微笑んだ。
「ありがとう、ヴェルダ」
「どういたしまして。これが仕事だから礼を言われることじゃないわ」
礼儀正しいなと微笑ましくなるだけだ。それにむしろ、礼を言わなければならないのはこちらのほうだ。
すべての記録と記憶を集積する図書館というものを維持、更新するためにはこうして探索者の情報の提出が必要になってくる。それは探索者が見聞きした光景を記憶として抽出し、理解した物事を記録として引き出さなければならない。こうして頭の中の情報の複製と保存を許可してくれければ図書館は成り立たないのだ。
たかがひとりの探索者で見聞きする情報には限界がある。だから図書館を作った。すべての情報を、すべての知識を、すべての歴史を、すべての軌跡を後世に残すために。誰かが記録しなければ、それは失われてしまうから。
「それじゃぁ、良い探索を」
「ありがとう」
すでに他の仲間たちの情報の提出は終わった。よっこいしょと立ち上がり、彼は部屋を出ていく。
その背中を見送り、ふぅ、と息を吐く。
楔を打ったひとつの運命が大きく曲がりそうだ。レールを外れて走り出そうとしている。
喜ばしいとも忌々しいとも思わない。ただ静かにその顛末を記録していくだけだ。どうなろうとも、その結末を見送ろう。
「このモノガタリはどうなるのかしらね……」
ハッピーエンドかバッドエンドか。果たして。
どんな結末でもきちんと完結すればよい。願うのはそれくらいだ。
「それにしたって、この先の展開はちょっと卑怯じゃなくて?」
「アラ! 文句ヲ言ウノ、リグラヴェーダ?」
窓からこっそり入ってきていた金の光に問いかけると、精霊は驚いたように声をあげた。
真実を司る氷の神の信徒だからこそ、リグラヴェーダの一族はすべてを知る。世界の筋書きを瞬時に読み取れる。
その力でもって精霊の筋書きの変更を知る。その変更点はあまりにも酷じゃないか。
「フフ、イイノヨ。ダッテ、世界ナンテソンナモノダモノ」
この世界なんてそんなものだ。精霊の気まぐれで弄ばれるもの。駒は遊ばれるもの。だからいいのだ。
悪びれなく言う精霊に、ヴェルダはそっと肩を竦める。なんてやつだ。批判を口にするには今更だが。
「ルッカが町に帰ってきたそうね?」
「エェ」
この『週』ではまだ誰も到達していない36階以上を目指して旅立った頂上候補だ。パーティのリーダーを務める男の名前は真鉄といったか。
可哀想なことだ。彼に課される運命を思って、ヴェルダの胸に憐憫の情が湧く。
「アナタノトコロニ来ルト思ウワ」
ただし用事は情報の提出ではなく、また調べ物のための情報閲覧でもない。
彼が図書館に訪れる用事は別のところだ。ヴェルダとの会話でもない。
「それはどういう意味……あら」
それはいったいどういう意味だと問いかけた矢先、控えめなノックの音がする。
司書室に来たのは受付嬢の職員だ。図書館の窓口で来訪者を受けつけ、用件に応じて案内をする部屋を振り分ける仕事をさせている。
情報の提出か情報閲覧か司書との対話か、そのどれかに応じた部屋を用意するだけのことしかしていない。仕事内容はマニュアル化されていて、いちいちどうするかを上司に聞く必要はない。
だというのに司書室に来るということは、マニュアル外のことが受付で起きたのだ。
「どうしたの?」
「失礼します。……あの、図書館にいる人間に用があるという人が来ていて……でも、来訪中の利用者のリストになくて……」
情報の提出か情報閲覧かヴェルダとの対話か、そのどれでもない。
会いたい人物が図書館にいるから会わせてくれという頼みだった。それならまだマニュアルにあるので、利用者のリストから使用中の部屋を探して案内すればいい。
だがその会いたい人物とやらは、利用者のリストに載っていなかった。ということは窓口を介さず内部に入ってきたということだ。そしてそんな風に入ってくる人間など、ヴェルダが裏口からこっそり招いた人間くらいしかない。
「コウヤという人らしいんですが……」
「あぁ。彼ね」
別の者が転移魔法で送ってきたのでヴェルダが裏口から入れたわけではないが、まぁそこは些細な違いだ。訂正したところで用件そのものには関係ない。
コウヤという人物なら、応接室のひとつを使っている最中だ。その中で何を話しているかはヴェルダにはわからない。予想はつくが。
「来訪者を応接室に通したほうがいい? それとも応接室にいる人間を窓口の方に出したほうがいいかしら?」
「後者がいいそうです。……勝手に人を裏口から入れないでくださいよ……」
「はいはい。じゃぁ、彼は5階の南の部屋にいるから呼び出しておいてくれる?」
「わかりました。それでは」
図書館の部屋が使用中かどうかの管理ができなくなるではないか。帳簿と合わなくなるのでやめてほしい。図書館の司書だからといってやりたい放題では困る。
釘を差しながら、ぺこりと頭を下げて受付嬢が立ち去っていく。それを見送って、やれやれと肩を竦める。
まったく、部下に叱られるとは司書の威厳も台無しだ。窓辺の精霊もくすくすと笑っている。
「はぁ……。本当に、ブーイングが起きても知らないわよ?」
「イイノヨ、ワタシタチガ満足デキレバイインダカラ」
その満足のための礎になればいいのだ。それくらいの価値しかないのだから。




