氷の領域、たどり着いた書架
静かな空間だった。壁一面、床から天井までびっしりと本棚だ。
迷宮の壁をすべて本棚に入れ替え、そしてその本棚に本を詰めたような。
「……あれって」
硬い声でコウヤが指差す。指差した先には帰還者らしきものの姿があった。
帰還者が本を手に取り、読んでいる。こちらには見向きもしない。
よくよく見てみれば本を立ち読みしている格好で止まっている。ページをめくらず、ただ本を開いて文面を見つめているだけだ。
「あれは無害なものだよ。放っておいていい」
仮に有害であれば司書が排除しているはずだ。放置されているということはいても問題がないということだ。
あれは帰還者ではない。帰還者よりも存在が希薄なものだ。濃い魔力によりこの場に焼き付いてしまった幻影。コウヤと同じく、書架にたどり着いたいつかの日の誰かの影だ。
それよりも、だ。ネツァーラグは無数の本棚を指す。
ここが書架である。すべての記録と記憶の集積場所。
人の人生とは物語のようなものである、というのは司書がよく言う言葉であるが、その人生がすべてここにおさめられている。
この『週』だけではない。それよりも以前のものも。この無限輪廻の箱庭というシステムが完成してから今日に至るまで、すべての記録と記憶が保存されている。
ここでは何でも知ることができる。客観的な事実から、主観的な光景まで。ひとつの物事を知るために、簡潔な文章での説明でも当事者の視点で解き明かすこともできる。
コウヤの『仲間殺し』についての真実を知りたいと思えば、たった数行の文章で知ることもできるし、コウヤの視点で追体験もできるのだ。
「さぁて、読んでごらんよ」
図書館での調べ物と同じだ。知りたいことを思い浮かべながら本を開けば、そこに知りたい情報が載っている。実物の本のように、知りたい情報を求めて本を1つ1つ検分する必要はない。
その上で噛み砕いて説明がほしければ解説してやろう。ネツァーラグはコウヤを促す。
「読めよ。それこそがアタシがアンタに教えたかったことだからさ」
この世界がいかにろくでもないか、それを教えるために書架まで連れてきたのだ。
本を手に取り、開くがいい。そこにリーゼロッテが教えたいすべてが載っている。
「……うぅ……」
恐ろしい。だが、知らねばならない。ファウンデーションとして。何より、この世界が良きものであるかどうかを知るために。
生唾を飲みながら本棚から本を取り出す。タイトルはなく、革張りの分厚い表紙には複雑な魔法陣のような模様が箔押しされている。図書館で調べ物をする時に手にする本と同じものだ。
2度、3度深呼吸をしてから本を開いた。
***
昔々。世界は一冊の本でした。ひと繋がりに紡がれた歴史でした。
しかし、本は壊れて、ページがばらけてしまいました。
ひと繋がりだった歴史はほどけて途切れてしまいました。
飛び散った世界は砕け散ることなく、並列に存在し始めました。
自立し始めた歴史を紡ぎ直そうと、神は世界を構築しようとしました。
途切れたページを繋ぎ直そうとしたのです。
しかし、元通りにひと繋ぎにするには部品が足りませんでした。
繋げるには欠けた部分が多すぎたのです。なので、部品を作る必要がありました。
世界という土台を作る神がいる一方で、土台の上にいるものを再構築しようとした神もいました。
神は、穴だらけになってしまった盤面からこぼれ落ちた駒を掬おうとしました。
こぼれ落ちてしまった駒を拾って、未練のある魂を救済しようと思いました。
そうして、死者の魂の未練を消化しつつ世界を組み立てる部品を作る箱庭が完成したのです。
***
童話調で語られるこれは、世界の真実とやらだ。
コウヤがいた世界、リーゼロッテがいた世界。サイハがいた世界。ルイスたちがいた世界。セレットとエメット、ジョラス、ネキアがいた世界。黒衣がいた世界。
そういうふうにさまざまな世界が存在する理由は、もともと一つだったものが分岐したからだという。
神々は分岐してしまった世界をまた繋ぎ直そうとした。しかし各自が独自進化しすぎて既存を使い回すことはできなかった。
だから新しく世界を作った。そして、その新しい世界に置く魂を選別したのだ。分岐した世界を旧世界、新生する世界を新世界として、旧世界から新世界に移し替えてもいい魂を分別した。
その分別のうち、未練をもって死んだ魂を選別するのに特化したものがこの塔の世界である。
――だからリーゼロッテはこの世界を敗者復活戦と呼んだのか。
それぞれの世界で、それぞれの運命を経て、苦難と悲嘆と未練と心残りを残して死んだ魂だけが塔の世界に招かれたから。
頂上に至った魂は優秀な魂として、新世界に送り出される。まるで収穫された後に色形を選別されて出荷される野菜のように。
「……成程、なぁ…………」
要約すると、この世界は死後の世界だ。
探索者たちは、自分たちのことについてそれぞれの異世界から召喚されたと認識しているが、そうではない。『リグラヴェーダ』のマーキングのもとに死後の世界からまとめて引っ張ってきたのだ。
頂上に至れば願いを叶えるという餌で死者の未練を消化しつつ、新世界に送り出す魂の選別を行う。
それがこの世界の存在する意味だ。選別の基準にブレがあってはいけない。だから世界のシステムについてこれほどまでに厳しいのだ。少しでもルールに反すれば矯正されるか排除される。その最たる例が前任の巫女とやらなのだろう。
とんでもない。そして、ろくでもない。
確かにこれは、リーゼロッテが口で語っても信じられることではなかっただろう。こうして書架に連れ出されて、本を手にして初めて理解できることだ。『本は偽らない』という絶対のルールにより、ほんの情報は絶対的で確定的な証拠になる。
図書館では知ることのできない情報だ。この真実はこうして書架に隔離しなければならないものである。その意味がよくわかる。知ってしまったら正気でいられない。
「俺の意味、は……」
愕然とするとか、恐怖におののくとか、怒るとか、悲しむとか、そういったものを置き去りにしたような声でコウヤが呟く。
師匠が言っていた。すべての物事には意味があると。ではコウヤの意味はなんだろう。
魔力の暴発による煌夜の災害。それがなければどう平和に生きられただろうという願い。それらを察知して予約札がつけられ、そして適当に生かした後にこの世界に召喚された。
代理の代理の代理で67代目のファウンデーションに指名されるために。精霊の筋書きをなぞるために。
たったそれだけのために、コウヤは今までの経歴を経てここにいるのだ。
すべてはそのため。それだけの意味。駒として弄ぶために養殖されていた。
――おもちゃに存在理由なんて、あるわけないでしょう?




