狭間の領域、伝播する温和
「……おや」
何かの気配を悟り、不意にネツァーラグが足を止めた。
ここは階段の途中だ。何かが起きることはない。たとえるなら、ダンジョンからダンジョンへと遷移する間のロード画面のようなもの。そこでイベントが起きることはありえない。
樹の領域からもだいぶ遠くなった。だというのに立ち止まるとは。何だろうと思ってコウヤもつられて足を止める。
どうしたんだと問う前に、頬に衝撃。影がひらめいたのが見えた。
「いっ……!!」
もんどりうってひっくり返る。勢い余って何段か滑り落ちた。腰と尻をしこたま打った。
何が起きたと顔を上げれば、とてもよく見慣れた影がそこにいた。
「り、リーゼロッテ……」
「おう。ふざけたこと言ってたから追いかけてきてやったぞ」
目の前のものを手当り次第ぶち壊したくなるくらいの破壊衝動に染まっていたが、ある名前で冷静になった。
無事に理性を取り戻したし、精霊たちは緊急会議を開いて話し合っていて隙だらけだったのでこうして追いかけてきた。帰還者の能力で影から影へと渡って一気に距離を詰め、そしてぶん殴った。以上状況説明終わり。
「テメェ、さっきのもう一回言ってみろ」
「ひぇ……」
サイハの情を利用してリーゼロッテと対峙させる。コウヤはそんなふざけたことを言っていた。
絶対にそれは許さない。大事な仲間を利用することは許さない。それが破壊者としての願いの根本なのだから。願いの根源を揺り動かされたおかげで急速に理性が戻った。
「悪かった。ごめんなさい。すみませんでした……」
「次同じこと言ったら殺すぞ」
「はい……」
ごめんなさい。ここが階段の途中でなかったら土下座する勢いで平謝りする。
その姿に多少は溜飲が下がったようで、長めに溜息を吐いてそれで許すことにした。申し訳ないという感情が伝染して怒る気になれない。
「んでアンタはついてくるのかよ」
「まぁ、来てしまったしね」
特にやることもないのでこのまま同行するよとネツァーラグは答える。
リーゼロッテよりも古い完全帰還者だ。リーゼロッテが知らないことも知っている。その知識はこれから触れる物事の解説役となれるだろう。
「愕然とするコイツが見たいだけだろ」
「それが何か?」
しれっと答え、ぐるりとネツァーラグは首を巡らせる。
まだ書架は遠いようだ。まったく、真実とやらはこんな冗長な前置きが必要なほど大層なものでもないというのに。部屋の隅に落ちている埃のほうがよっぽど価値がある。
こんな長々とした道中など無駄の極みだ。即座に書架に行ければよいのだが、それはできないのだから歯がゆい。既踏階への転移は許されていても未踏階への転移は認められていない。そのルールさえなければ、自分が即座に書架まで転移させてやったというのに。まぁいい。強制転移の権限はいずれ使う時があるだろう。
それよりも、だ。
さっきから伝染してくる感情はひどく穏やかだ。一緒にいて気分が悪くなることがない。コウヤの魂が歪んでいないいい証拠だ。何事にも真摯だからこその清らかさだろう。純白とか潔癖という類の清らかさではなく、胸がすくような清涼感の方だ。居心地がいい。
煮詰まって塞がったものに風穴を開けるような。そんな気分の良さを感じる。平たく言えば人の良さが直接的に伝わってくる。
「破壊者の手綱が取れるのも納得というか……」
「何の話だ?」
「君はなんだかんだ善良な人間ということさ」
ファウンデーションとしてではなく、生来の人柄として。
人に好かれる性格だからこそ、あらぬ疑いで悪い噂が立った時に迫害されることがなかったのだろう。
根っから人が悪ければ町にいられないほど迫害されていたに違いない。そうならなかったのは、単独で中層を踏破した確かな実力と人柄によるところが大きいだろう。
まぁとにかく、歪むことなく真っ直ぐ育っていいことだ。
「育ててくれた人間がいいのだろうね」
皮肉げに言い、肩を竦める。嫌味の切れ味が悪いのもコウヤからの伝染のせいか。
いっそ言語崩壊を起こして書架まで沈黙せざるをえなくなれば、切れ味の悪い皮肉を言い続ける無様も晒さずに済んだろうに。ちなみに、最初から黙っているという選択肢はネツァーラグにはない。
「いやぁ……いい人でもないよ、師匠は」
なにせ『人が足りない』店の人員調達をコウヤにやらせていたくらいだ。コウヤもコウヤで、気付いているのに知らないふりをして加担していた。
コウヤが気付いていて、それでいて知らないふりをしていることすら織り込み済みで彼女は事業を続けた。最後には立つ鳥跡を濁さずとばかりに痕跡を綺麗に消してから自殺した。
コウヤが一人前に自立できるまで育てるという役目を果たしたので舞台から退場するかというように。
そんな人物を善人とは呼ばないだろう。悪人というのも少し違うが。
彼女をどういう人物か判じ、表現できるほどコウヤは彼女を知らない。自分の素性について彼女は何一つ教えてくれなかった。
どうして赤子のコウヤを引き取り育てたのか。なぜコウヤのことをファムファタールという不思議な呼び方をしていたのだろうか。鐘の音が妙にうるさい晩に死んだのはなぜだったのか。物心ついた頃から死の晩まで一切容姿が老けなかったのはどうしてだったのか。入れば最後、出てくることがなかった『人が足りない』店は何をしていたのだろうか。
コウヤが知っていたのは、リグラヴェーダという名前くらいだ。それ以外の情報を彼女は一切秘していたし、コウヤが何度聞いても答えてはくれなかった。
「リグラヴェーダ……ねぇ」
「ネツァーラグ、知っているのか?」
「彼女と面識があるわけじゃないよ。でも、リグラヴェーダというモノについては知っているよ」
ネツァーラグにとってはすべてが既知で未知はない。だから知っている。
それは氷の神をいただく信徒であり、あらゆる世界にばらまかれた楔だ。この世界に召喚されるにふさわしい者のそばにいて、その存在をマーキングする役目を持つ。これは駒として使える魂だとこの世界に知らせるための予約札だ。その予約札の共通名をリグラヴェーダという。
遠くから見守る者もいれば、コウヤのように間近で接する者もいる。本人が知らなくても、そこにはリグラヴェーダの印が刻まれる。
無数にいる『リグラヴェーダ』の中には、そうして弄ばれる魂を哀れみ、この世界に召喚されぬように願いを断つ者もいたが、彼女は刈り取られて消えてしまった。
「詳しくは司書に聞くといいよ。あの魔女も『リグラヴェーダ』だ」
その話は肝要ではない端話なので省略する。興味があれば司書ヴェルダに訊ねるといい。
そう締めくくってネツァーラグは頭上を見上げる。書架への入り口が数十段ほど先に見えていた。




