土の領域、昔日への懐古
――眠れないのかい?
「眠る必要がねぇんだよ。完全帰還者だからな」
関知しないと言って突き放した割に首を突っ込んでくるものだ。巨竜の問いにリーゼロッテはぶっきらぼうに返す。
どんなに人間に似ていてもこの体は魔力で構成されている。ヒトのように飲食や睡眠を必要としない。
そう。この体はヒトと異なっている。呼吸もしていないし、心臓は脈打っていない。触れれば柔らかく温かいのも、人体とはそういうものであるとリーゼロッテが認識しているからだ。その認識を失えば、たちまち温度も感触もないうつろな影の塊だ。
「そんで? 非干渉の不干渉はどこいったよ?」
自身の信徒の卵を保護することのみに意識を向け、それ以外を無視する怠惰の竜が何用だ。
わざわざ自分から話しかけてきたのだ。相応の用事はあるものだと信じたい。
――昔日を思い出していただけさ。
土の属性が抱く性質は怠惰と堅牢。そして地層に象徴されるように歴史をも司る。
昔日を懐古することは、土の属性への信仰にもつながってくることなのだ。
ゆるりと巨竜が目を開ける。大地と同じ色の甲殻に縁取られた黒曜石のような目がコウヤを見下ろした。
コウヤは熟睡というほどではないが眠っているようで、わずかに寝息が聞こえる。
「昔? アタシが何も知らなかった頃か?」
リーゼロッテの問いに、応、と巨竜が返した。
あの頃、リーゼロッテはまだ何も知らなかった。この先には何があるだろうかと期待と不安と興味と探究心に心動かされながら言葉を交わしていたものだ。
その輝かしく青臭い日々はもうない。絶望の縁に落ちて潰れて二度と浮き上がらない。あるのはただ、怠惰に浪費した膨大な時間だけだ。何百年とかけたのに、何も事態は進展せず解決しなかった。
自嘲するリーゼロッテへ、巨竜はわずかに目をすがめた。
ずいぶんと自分を卑下するものだ。成功しなければ何も意味がないと断ずるほどまでに成功に固執している。その執着こそが帰還者の核とはいえ。
――安心しなさい、進んでいるとも。
永遠に繰り返すことなどありえない。永久機関が存在しないように、無限輪廻も存在しない。
同じ『ような』ことは起きても、まったく同一の事象は発生しない。反復の中にいると感じているかもしれないが、それは錯覚だ。
繰り返しても、1度目と2度目では何かが違うものだ。砂粒よりもわずかな変化かもしれない。だが砂粒だって積もれば巨山になる。積もり積もった差異はいつか輪廻を打ち破るだろう。
どんなに堅牢なものでもいつかは風化するように、どんな頑強なものでもいつかは摩耗するように。
だからリーゼロッテのそれは足踏みではなく前進なのだ。変化が少なすぎるから渦中ではわからないだけ。渦中の外から見れば大いに変わっている。
――君だって、探索者となり、到達者となり、帰還者となり……今では完全帰還者だ。
変化しているではないか。本当に変わらないのであれば、まだ探索者のままだっただろう。
進んではいるのだ。問題は、その進行方向がどこだという話で。
――世界を壊すというが、わたしは、それを願うよ。
「おい、システム側だろうがテメェは」
土神の眷属じゃないか。塔を支える大地となり、分身を遣わして必要に応じて試練となる。世界を維持するシステムの一環のはずだ。
それがドラヴァキアの役目だろうに、それを壊すことを願うとは。
――判じたのさ。この世界では卵は孵らない。
信徒の復活。それはこの世界の構造と矛盾する。だから、卵は絶対に孵らない。
意味がわかるだろう、とリーゼロッテへ問う。
「あぁ」
この世界は、言ってしまえば敗者復活戦だ。敗者のみが参加権を得られる。
敗者どころかトーナメントの参加者ですらない者に参加資格はない。勝った負けたの前に試合をしていない。それどころか参加登録さえしていない。
それと同じだ。かつて書架で触れた真実を思い返し、成程と頷いた。
敗者復活戦にしか使われない会場など離れて、本戦を行っている会場へ移動したい。だが会場のスタッフなので、勝手に会場を移ることはできない。それなら会場が壊れてなくなってしまえば。
ドラヴァキアはそんな過激なことを考えているというわけだ。
――君の破壊が、わたしを揺るがしてくれることを願う。
それこそが、動くことさえ許されない底で縛り付けられている竜の願いだ。
そうして自由となった暁には、あるべき場所に移り、卵を孵す。その時が信徒の復活の時だ。いつか来る日を夢見て竜は地の底より空を思う。
――最後がハッピーエンドであれば、何度バッドエンドを積んだって構わないのさ。
恐ろしいのは、立ち止まってしまうことだ。
立ち止まってしまえば、そこから動けなくなってしまう。
そう言って、巨竜はゆっくりと目を閉じた。
堆積した岩石のように寝そべる巨竜からは、再び語り出す気配はない。怠惰の泥の中で沈黙したようだ。
コウヤも眠りこけていて目を覚ます様子もない。
静かだ。こうも静かだと沈黙に押し潰されそうになる。
静寂というものが物理的質量をもって乗ってくるようで息苦しい。
こうして野営の時に妙に静かになった時は、いつもサイハが何かの話をしたものだ。
それは旅の思い出だったり、伝え聞いた伝承だったり、路銀を稼ぐために吟遊詩人の真似事をした時に作った創話だったり、異郷の歌だったり。
「積み上げられた石の塔に意思の雨穿ち……」
即興で歌を作って披露したこともあったな。メロディも歌詞もその場ですぐ思い浮かぶものだと感心したものだ。
確かこんな歌だったと記憶を掘り返して音を舌に乗せてみるものの、記憶通りには歌えない。どうやら歌唱能力は完全帰還者の能力でもどうもできないようだ。
「お手本ねぇからなぁ」
そんな懐古など、昔日に埋もれて化石になってしまった。




