火の領域、立ち塞がらぬ灼熱
36階へと続く階段を登る。
しかし本当に階段が長い。合間にレストエリアでの休憩を挟んでいるとはいえ、1階層を登るのも一苦労だ。
疲労を感じてきて、コウヤは石の壁に手をついた。ひやりとした石の壁、否、触るとほのかに温かい。石自体が発熱しているのではなく、どこからか熱が伝わっている。
と、いうことは。先を行くリーゼロッテを見上げれば、彼女もまた壁の温度に気がついたようだった。
「次は火か」
次は火の領域。火神の眷属がいるということだ。
リーゼロッテが探索者であった頃と変わらないのであれば、火神の眷属は比較的温厚な方だ。
火神の眷属は火そのものだ。火と熱を凝縮して形作られている。炎という形のないものであるがゆえに姿は不定で、不定であるためにどんななりにもなれる。火の鳥になることもあれば四足の獣になることもヒトの形をとることも可能だ。
火神の眷属はこの世界に遣わされた時、自らの主である火神から2つの使命を与えられている。
1つは火と熱をもって人間に恵みを与えること。昼夜の運行があるだけで季節などないこの塔の世界に適度な熱を与えて適切な気温を保ち、火でもって人間に文明を与えた。
そしてもう1つは、探索者の障害となること。頂上を目指す探索者の前に立ちはだかり、相応の試練を与えることだ。
火は万物を燃やし尽くす過酷な業火となることもあるが、凍える人々を温める慈愛の面も持つ。
火の属性が象徴する性質をそのまま写し取った眷属も同様だ。苛烈でもあるが温厚でもある。
風の大鳥のように問答無用で襲ってくることもなく、水の海竜のように静寂に耽溺することもない。多少は話が通じる相手だということだ。
「っしゃ、着い……」
36階に着いた、と言いかけ、そこでリーゼロッテが消えた。何かが焼けたような嫌な臭いがした。
何が起きた。聞かなくてもわかる。目の前で起きたことだ。その現象を言語化するならば、リーゼロッテが一瞬で燃え尽きた。
「なん……」
驚愕に目をみはるコウヤの眼前に、ずいと熱の塊が肉薄した。コウヤの鼻先で静止した炎は、じっとコウヤを見つめていた。
火に眼球があるわけではないのであくまでそう知覚しただけだが、確かに見つめられていた。
「…………訂正、話が通じるヤツじゃなかったな」
「リーゼロッテ! 大丈夫だったのかよ!?」
「おう、焼き殺されたけどな」
完全帰還者の不死性はこの程度では破れない。と自慢したいところだが、再生する程度に加減されていただけだ。
火神の眷属としては『コウヤを眺めるのに邪魔だから焼いた』という、そんな気軽な感覚だろう。そんな些細なことでこんな手段を取るのだから、確かに過激な火の性質を受け継いでいる。
退けと言われたら退くくらいはしてやったのに。嘆息してリーゼロッテは1歩引いて邪魔にならない位置に移動する。もしも火神の眷属がコウヤに手を出すつもりならその瞬間に反撃に移るつもりで。
「あの……?」
じぃっと見つめたまま、火神の眷属は動かない。火神の眷属は階段を登りきった目の前にいるので、それ以上進むこともできない。行く道が炎と熱で塞がれている状態だ。
何のつもりだろう。ここは通さないという意思表示だろうか。それならこの位置は最高の障害だ。
だが火神の眷属にそれをする理由がない。資格がない者は通さない。しかしコウヤはファウンデーションだ。通れる理由も資格もある。コウヤを阻む意味がない。
それとも、試練とでもいうつもりなのだろうか。この灼熱を越えて書架に行けと。
コウヤは意図を掴みそこねて困惑する。それともコウヤの出方を待っているのだろうか。
――通れ。
困惑しているうちに、火神の眷属が身を引いた。灼熱がコウヤの鼻先から離れていく。
熱はぐるぐると室内を渦巻き、凝縮されて鳥の形になる。かと思えば頭と胴が変形し、背中から翼を生やしたヒトの形に変わる。
ヒトの形となった炎の塊は、座るようにして空中にとどまる。ほら通れと言いたげに道を譲る。
「試練じゃないのか?」
リーゼロッテはそう言っていたのに。ヒトの形になったから、てっきり戦闘でもするのではないかと身構えていたというのに。
拍子抜けだ。瞬きを繰り返すコウヤに、火神の眷属は首を振る。
――我の役割は頂上を目指す者の前に立ちはだかること。真実を求める者の前に立ち塞がることではない。
声帯を使った発声ではない『声』で火神の眷属はコウヤの緊張を否定する。
真実を求めて書架を目指す者の前に立ち塞がることは与えられた役割ではない。試練の対象となるのは、頂上を目指す者だ。試練の対象でないのなら、立ちはだかる必要も義務もない。役割の範疇でないのだから好きに通るがいい。
――誰彼構わず襲う狂鳥や思い通りになるように束縛する樹とは違うのだ……。
呟いた言葉は愚痴めいていて、何となく苦労がうかがえた。
眷属同士で色々とあるのだなと気苦労を察しつつ、コウヤはその好意に甘えることにした。相手は神の眷属だ。世界最強の完全帰還者がついているとはいえ、戦いを避けられるならそれにこしたことはない。
属性に当てはめているのだから、神の領域は7階層、あるいは9階層ある。そのうちの3階層目を何事もなく通過できるのなら僥倖だ。
――氷の領域に着いた後、また戻ってくることになるだろう。我の出番はその時よ。
どうせいったん町に戻ることになる。そうすれば、また32階からここまで登ってこなければならない。
書架で真実を知った後に登るということは、それは頂上を目指す時だ。その時こそ、火神の眷属が試練となって立ちはだかる時。
「その余裕はアタシらが町に戻る前提だろうが」
余裕ぶって素通りさせて、それでいいのか。
この先の書架からそのまま頂上を目指すかもしれないのに。町に戻って、登り直すことなどないかもしれない。そうしたらその余裕はまったくの無駄だったということになる。
リーゼロッテの至極真っ当な問いに、あぁ、と火神の眷属は足を組み替えてリーゼロッテを見下ろす。
あれはいつか、ヒトとして頂上を目指した者だ。記憶と記録にある昔日を思い返す。彼女の憎悪はまるで焼印のように世界に刻まれた。
――問題ない。『そう』なっている。……汝も『そう』だったろう?
「……そうだったけどよ」
『そう』だというのなら『そう』なのだ。そう言われては理屈も理由も要らなくなる。
事実リーゼロッテがそうだった。真実を知り、そしてそのまま進む心の余裕などなく、一度落ち着いて気持ちと頭の整理をするために町へと戻った。突きつけられたろくでもない運命から少しでも逃げるかのように。決定している結末を先延ばしにしようとするかのように。
だからここでファウンデーションを見送ることは問題ないのだ。火の粉が爆ぜる音を暇潰しに鳴らして、火神の眷属は2人を見下ろして、見下す。
――お好きにどうぞ。
答えを教えるなら、次は土の領域でその次が樹の領域だ。その上に氷の領域がある。最後に雷の領域があるが、今はそこまで登らないので関係ない話だ。
好きに進むがいい。火神の眷属は目を閉じる。世界はファウンデーションが滞りなく進むために整えられる。障害などなく、困難などなく、目的はすぐ達成できるように、欲しいものはすぐ手に入るように。
コウヤはファウンデーションだ。だから世界はコウヤに味方するだろう。
今のところは。




