40万夜の憎悪の果てに
「しかし本当に圧倒的だな……」
ジャル・ヘディとの遭遇から後、何体もの魔物に出くわした。だがリーゼロッテは一撃のもとにそれらを倒したのだ。
長く翻る髪を払うよりも少ない労力で、道端の小石を蹴るくらいの造作もなく。
コウヤなど背後で自分の身を守るので精一杯だ。果たして自分の存在は要るのだろうかとさえ思ってしまう。
だからせめて戦闘以外のところは役に立とうとマッピングなどを担当しているのだが、すると小間使い感がより増してしまう。
ぼやいた愚痴を聞いたリーゼロッテは、あぁ、とその不安を否定する。
「あぁ、いいんだよ。むしろアンタがいないと困る」
「……というと?」
「アタシはどこまで行っても帰還者だからな、引っ張られるんだ」
濃い魔力は声や光景をその場に焼き付けるという特性がある。
それにより、何度も焼き付けられた情動が塗り重ねられて形を持ったものが帰還者だ。
それゆえに、強い思いを抱いているものに惹かれやすい。そちらに引っ張られてしまう。
完全帰還者として自我を持っているとはいえ、リーゼロッテの中心は世界を壊すという情動だ。
それは油断すれば自我と衝動の均衡を崩す。破壊の衝動を抑えてヒトらしく振る舞う理性を超えてしまう。
今だって、衝動のままにコウヤを手にかけてしまいたいとさえ思う。
だからコウヤという『まとも』な人間がそばにあることは、リーゼロッテの理性を保つ。
コウヤの情動がリーゼロッテの破壊衝動を宥める。
「アタシが人間らしくあれるのはアンタのおかげってこと。……お、レストエリアじゃん」
歩きづめで疲れたろう。まだ33階への階段は見つからないのだし、ひとつ休憩していこう。
そう言って、さもここに座ってくださいと言わんばかりに置いてある石材に腰掛ける。コウヤもそれにならって石材に腰を下ろした。
レストエリアは絶対安全圏だ。無害なものに擬態した魔物はいない。神経を張り詰めなければいけない迷宮内で無警戒でいられる唯一の安息の場所だ。
「言ったろ、アタシは武器だって」
コウヤが持つ武器だ。それをどう使うかはコウヤ次第。
コウヤが何かに憎しみを持てば、それはリーゼロッテに伝染し、衝動が理性を超えて破壊を撒き散らす。
「そういうことさ、ファウンデーション」
いくら強力な武器だろうと、使い手がいなければ意味がない。そういう意味でも『あなたありき』なのだ。
皮肉げに笑い、それからリーゼロッテは話を変えた。
「精霊のやつが静かだ」
「精霊?」
「アタシが完全帰還者になって、それでファウンデーションに協力している。『世界の運営』から見れば結構な事態のはずだ」
世界の維持を担う精霊はそれを脅かすものを許さない。敷いたレールから外れ、役割を逸れる駒の存在を許さない。
そんな駒を見つければ即座に修正しようとしてくるはずだ。だが何も動きがない。
だとするとこれは『正しい』のか。精霊の筋書きの上なのだろうか。
『正しい』とするならそれは何だろう。
コウヤが真実に触れることか。その筋書きが必要だから見送る。だから手を出さない。
これが『正しくない』なら、修正が必要になる。結構な事態なのだから修正も大幅なものになるだろう。
大規模修正のための準備をしているから今は中途半端に手が出せない。
精霊が今静かなのはそういう解釈もできる。
「どっちでもやることに変わりはないんだろ?」
「まぁな」
精霊がどうしようと、コウヤを書架に連れて行くのは変わらない。
緩く足を組み、リーゼロッテは天井を仰ぎ見た。十分な高さはあるが、石の天井は重苦しい印象を与える。それはまるでこの世界の閉塞感を象徴しているようだった。
「リーゼロッテはさぁ」
「うん?」
「探索者だった思い出とか、元の世界の記憶とか……ある?」
「あるぜ」
ただしそれは、はるか過去に置き去りにしてきたせいで境界が曖昧になってしまった。
もはや元の世界の記憶だったのか、それとも探索者だった時の思い出だったのか区別がつかないほどに。
そのくせ世界への憎悪だけは鮮やかに君臨している。確固としてそこにある。
「……そんなに長い時間?」
「そうだな。えぇと……『今』ってホロロギウム歴は生きてんのか?」
「うん」
「何年?」
「8873年」
ホロロギウム歴とはこの世界の暦だ。町と迷宮で時間の流れが違うので、この世界においては日付などほとんど意味をなさないのだが。
さまざまな世界から召喚されてきた探索者が時間や日付の概念で混乱しないよう、この世界の統一時間を作ろうということでホロロギウムという研究者が作った。
ホロロギウムという男は実際に存在していて、1階の町の時計塔でひたすらに時間を計測し続けている。箱庭と駒という視点で見れば、彼は司書ヴェルダのように『毎週』配置されている固定駒のひとつだろう。
「ホロロギウム歴は『全消去』されて再構成されても継続なんだと」
だからリーゼロッテが探索者であった時のホロロギウム年と比べれば、リーゼロッテが語る『長い時間』が実際に何年かわかる。
さてそのリーゼロッテが探索者だった頃の年月はというと。
「8705年だから……160年ちょいか」
ホロロギウム歴は1日を軸として数えられる暦だ。
1日を7回。風火水樹雷土氷の各属性を当てはめて1周期とする。
この1周期を4回繰り返した28日を1ヶ月とし、100ヶ月で1年とする。つまり2800日で1年だ。
『今』は8873年。リーゼロッテが探索者だった時は8705年。168年。1年が2800日だから40万400日。
コウヤがいた元の世界では1年365日だった。リーゼロッテのいう『長い時間』を想像するために換算してみると、1288年と少々だ。
1300年足らず。そんなにも長い時間。気が遠くなってきた。めまいを覚えてコウヤは思わずこめかみを押さえた。
それほどの時間で世界を憎悪していれば、確かに憎しみ以外の感情は色あせて帰還者に成り果てるのも納得できる。
逆にいえば、1000年以上も続く憎悪を感じるような最悪の真実が世界にはあるということだ。
怒り、憎しみ続けるというのはなかなか難しい。ひとつの感情を人間は長く抱き続けられない。時間とともに薄れていってしまうものだ。
だがリーゼロッテの憎悪は時間では薄れなかったのだ。
「そんなに……」
「そんなに、だよ。……そろそろ行くか」
休憩はもういいだろう。立ち上がったリーゼロッテにならってコウヤも腰を上げる。
まだ32階の北は探索し終えていない。33階への階段があるならそこだろう。目星をつけて歩き出した。




