表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

12の花の話

7月 ヒメユリ

作者: livre

12の花の話。7月。

 小さい頃、僕は死のうとしたことがある。

何か大いに悩んでいたわけでも、将来を悲観したわけでも、憎い誰かへのあてつけでもない。

ただただ、「お前なんか死んでしまえ」と言われたからだ。

そもそも当時僕はまだ幼稚園児か小学校の低学年か、とにかくそれほど幼い子供だった。悩みを持つまでもなく、物事を深く考えたことさえもない年の頃。

 ああ…そうだ。あれは確か学校の塀だった。

ならば、小学生の時の話だ。

 僕は同級生と喧嘩をした。原因は覚えていない。

恐らく記憶にも残らないくらいにくだらない、子供らしい幼稚な理由でだ。

相手は同じクラスの男子生徒だった。

たとえ相応の事情があったとしても、性質上、僕がわざわざ誰かを罵倒するとは思えない。だから、もしかすると一方的に責められていたのかもしれない。

とにかく彼は勢い余ってこう言ったのだ。

「お前なんか死んじゃえ!」と。

そして僕は飛んだ。木伝いによじ登った塀の上から。

死ねと言われたから死のうとした。それだけ。

けれどやっぱり子供は浅はかだ。大した高さのない塀の上から飛んだとて、そう簡単に人は死ねない。いくら弱い子供でも。

喧嘩相手の少年が「──くんが死んじゃう!」と泣き叫び、喚き立て、駆けつけた教師たちによって早急に病院へ運ばれた。死のうとした少年はたった一晩の入院で家に戻った。大きな怪我はなかった。

ちなみに僕はこの後、「死ねなくてごめん。」と彼に謝罪し、彼を泣かせている。

 この一件で分かったことがある。

人間はたとえ本気でなくとも、誰かに対して死んでしまえと願い、そう口にすることもあるのだということ。

僕はそんなことを言われた時、何も考えずにそれを実行できるということ。

そしてそれそのものが、普通はしないおかしな行動らしいということ。

 連絡を受けて慌てて病院へやってきた母は泣いていた。

「貴方までいなくなったらどうしたらいいの?」

と縋り付いて泣いていた。

 あの涙が本当に僕を想ってのものだったのかどうか、僕には分からない。

これが、僕の子供時代。


 僕と母はふたりだった。この家に父親はいない。

理由は知らない。尋ねてみたことはないし、疑問に思ったことも興味を持ったこともない。

僕がただ生きていくのに、そんなことはどうでもいい。


 中学生か高校生かはっきりとした記憶はないけれど、10代の頃。同じ学校の一つ後輩である少女から告白を受けた。

「好きです。付き合ってください。」と言われたから付き合った。

彼女は僕の“人当たりが良くて優しいところ”が好きだと言った。

人当たりが良くて優しい。

誰にも歯向かわない。何も言わない。そういう僕を、周囲はそのように見ているらしいと知った。

それからの僕は“人当たりが良くて優しい人”になった。

 彼女とは四季をめぐらずに別れた。

僕は彼女の行きたいところへ行き、彼女の食べたいものを食べ、彼女のしたいようにした。

そうして半年ほどが過ぎた頃に、貴方の気持ちが見えないと彼女は泣いた。

 “貴方の気持ち”などなかった。僕は彼女に対して、好きも嫌いも、どちらの感情も持っていなかったから。

付き合ってくれと言われたから付き合って、別れたいと言われたから別れた。そう話したら、彼女は更に泣いた。

気持ちが見えないのは当然だろう。

ないものを見ることなど、誰にもできるはずはない。


 学生の時分、僕にはそれなりに友人が…友人と呼べるような人間が、何人かいた。

学校内で親しく話すようになると必ず彼らを自宅に招いた。

それには目的があった。母に会わせるためだ。

母は僕の交友関係の全てを把握したがっていた。だから、僕はその希望に応えるために動いたまでだ。

友人たちが帰ると始まるのは批評で、

「あの子は少しガサツなところがあるわ。貴方とは合わないと思う。」

「彼は賢い子なのね。貴方の成績ももっともっと良くなるかもしれない。」

「彼女は家庭が貧しいと聞くし、貴方にも悪い影響があるかもしれないわね。」

母のお墨付きを得た人間とは引き続き親しくし、少しでも否定的な評価だった人間とは徹底的に交流を絶った。

僕はこれといって友人を求めていたわけではなかったけれど、「お友達はいた方が楽しいでしょう?」という母の言葉に従っていた。

 母が“きちんと友達のいる息子”を望んでいた。それを叶えることに、何の疑問もなかった。

これが、僕の10代。


 社会に出てから数年が経ち、20代の後半で結婚をした。

母が不意に「貴方は結婚はしないの?」と言ったからだ。

それを聞いて当時付き合っていた同僚の女性とすぐに籍を入れた。

彼女は喜んでいたし、あの子はいい子だと思う、と母も嬉しそうだった。

当然僕は家を出て、実家から2つ3つ離れた街に居を移した。

 そうして母は1人になった。

それから1年もしないうち、狂った。

「ねぇ…お義母さん、少しおかしいと思うの。」

その頃、妻がそう言い出した。

何がおかしいのか訊けば、毎日電話がかかってくるのだ、と言う。

それは1日にだいたい3回から5回。多い時には10回近くになる。

妻は専業主婦で大抵家にいた為、その電話のほとんど全てを取っていたらしい。

内容は毎回、概ね同じだった。

「あの子は子供の時からとても優秀でね」「あの子はすごく母親思いで」「私はあの子とふたりきりで生きてきたから」「あの子は私を取り残したりしないわ」「あの子だけが頼りよ」「あの子はいい人間だって貴女もそう思うでしょう」「私にはあの子しか」「あの子にもきっと私が」

そんなことをひたすら聞かされ続けるのだと言った。

 少し話してみてくれないかと妻が訴えるので、数日後、1人で実家に帰った。

久しぶりとも言えない程のわずかなうちに、母はひどく老け込んだようだった。

家中の至る所で母の好きな花が枯れていた。名前は覚えていないが、“誇り”という花言葉があるのだとよく話していた。

妻から聞いた話をし、すぐに僕は問うた。

「僕はどうしたらいい?」と。

床に枯れ落ちた花を拾いながら、母は笑顔で、即座に答えた。

「ここへ帰ってきて。」


 だから僕は妻と別れ、家へ戻った。

母は「帰ってきてほしい」と言い、僕から話を聞いた妻は「もう別れたい」と言ったからだ。

幸い僕達の間に子供はいなかったし、僕はすんなり彼女から離れ、再び母に寄り添った。

 怒りも寂しさも何もない。取るべき行動を取っただけだ。


 たとえば今日までの僕の半生、思考回路、行動原理を知ることになる人間がいたならば、「この男は異常なマザコンだ」と思うかもしれない。

もしくは母親に対しておかしな愛情を持った息子。倒錯した、頭のおかしい人間。

マザー・コンプレックス?エディプス・コンプレックス?

とんでもない。

もちろん僕とて気付いていないわけではない。

母が僕に抱く執着心の異様な強さ。殆ど自我もなくただ従うだけの、言いなりの僕。

 そういえば学生時代に付き合った少女はこう言っていた。「貴方は人形みたい」。

そう。僕は何もない人形だ。そこには誇りも、矜持も、信念も意思もない。

母はそういう僕を愛している。自分の思い通り、言った通りに動く息子を愛している。けれども僕は母を愛していないし、愛されたいから従っているわけでもない。

世界は母と僕のふたりきりだったのだ。疑問を抱く余地すらないほど完膚無きまでに、完璧なふたりきりだった。

 昔から、考えることが嫌だった。思い煩うことが嫌だった。だから誰かに、何かに従いたかった。誰だってよかった。

そして身近に母がいた。住む場所を与え、食事を与え、幼い僕を育て、安全を保障してくれる。圧倒的な庇護者である母が。それだけだったのだ。

僕は母の元で自分を捨てることに成功した。

自分の意思を持たなければ悩むことなどない。誇りも矜持も、生きていくのには邪魔なだけ。

 いつから“こう”だったのかは分からない。分からないけれど記憶の限りの僕はずっとこうだった。

 誰だって、楽に生きていきたいと思うだろう?

僕は楽に生きようとしているだけにすぎない。

 たとえばそれに犠牲が伴うとしても、多少は仕方のないことだ。


 この人が死んだら、次は誰に…。

そう考えている視線の先で、笑顔の母が繰り返す。

これまで何年も聞かされ続け、これから何年も聞かされ続けるであろう、誉れ高きその言葉。

「貴方は私の誇りそのもの。」

「大切な大切な、私だけの可愛い子。」

ヒメユリ 花言葉「誇り」

(http://hananokotoba.com/himeyuri/ より引用)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ