7月 ヒメユリ
12の花の話。7月。
小さい頃、僕は死のうとしたことがある。
何か大いに悩んでいたわけでも、将来を悲観したわけでも、憎い誰かへのあてつけでもない。
ただただ、「お前なんか死んでしまえ」と言われたからだ。
そもそも当時僕はまだ幼稚園児か小学校の低学年か、とにかくそれほど幼い子供だった。悩みを持つまでもなく、物事を深く考えたことさえもない年の頃。
ああ…そうだ。あれは確か学校の塀だった。
ならば、小学生の時の話だ。
僕は同級生と喧嘩をした。原因は覚えていない。
恐らく記憶にも残らないくらいにくだらない、子供らしい幼稚な理由でだ。
相手は同じクラスの男子生徒だった。
たとえ相応の事情があったとしても、性質上、僕がわざわざ誰かを罵倒するとは思えない。だから、もしかすると一方的に責められていたのかもしれない。
とにかく彼は勢い余ってこう言ったのだ。
「お前なんか死んじゃえ!」と。
そして僕は飛んだ。木伝いによじ登った塀の上から。
死ねと言われたから死のうとした。それだけ。
けれどやっぱり子供は浅はかだ。大した高さのない塀の上から飛んだとて、そう簡単に人は死ねない。いくら弱い子供でも。
喧嘩相手の少年が「──くんが死んじゃう!」と泣き叫び、喚き立て、駆けつけた教師たちによって早急に病院へ運ばれた。死のうとした少年はたった一晩の入院で家に戻った。大きな怪我はなかった。
ちなみに僕はこの後、「死ねなくてごめん。」と彼に謝罪し、彼を泣かせている。
この一件で分かったことがある。
人間はたとえ本気でなくとも、誰かに対して死んでしまえと願い、そう口にすることもあるのだということ。
僕はそんなことを言われた時、何も考えずにそれを実行できるということ。
そしてそれそのものが、普通はしないおかしな行動らしいということ。
連絡を受けて慌てて病院へやってきた母は泣いていた。
「貴方までいなくなったらどうしたらいいの?」
と縋り付いて泣いていた。
あの涙が本当に僕を想ってのものだったのかどうか、僕には分からない。
これが、僕の子供時代。
僕と母はふたりだった。この家に父親はいない。
理由は知らない。尋ねてみたことはないし、疑問に思ったことも興味を持ったこともない。
僕がただ生きていくのに、そんなことはどうでもいい。
中学生か高校生かはっきりとした記憶はないけれど、10代の頃。同じ学校の一つ後輩である少女から告白を受けた。
「好きです。付き合ってください。」と言われたから付き合った。
彼女は僕の“人当たりが良くて優しいところ”が好きだと言った。
人当たりが良くて優しい。
誰にも歯向かわない。何も言わない。そういう僕を、周囲はそのように見ているらしいと知った。
それからの僕は“人当たりが良くて優しい人”になった。
彼女とは四季をめぐらずに別れた。
僕は彼女の行きたいところへ行き、彼女の食べたいものを食べ、彼女のしたいようにした。
そうして半年ほどが過ぎた頃に、貴方の気持ちが見えないと彼女は泣いた。
“貴方の気持ち”などなかった。僕は彼女に対して、好きも嫌いも、どちらの感情も持っていなかったから。
付き合ってくれと言われたから付き合って、別れたいと言われたから別れた。そう話したら、彼女は更に泣いた。
気持ちが見えないのは当然だろう。
ないものを見ることなど、誰にもできるはずはない。
学生の時分、僕にはそれなりに友人が…友人と呼べるような人間が、何人かいた。
学校内で親しく話すようになると必ず彼らを自宅に招いた。
それには目的があった。母に会わせるためだ。
母は僕の交友関係の全てを把握したがっていた。だから、僕はその希望に応えるために動いたまでだ。
友人たちが帰ると始まるのは批評で、
「あの子は少しガサツなところがあるわ。貴方とは合わないと思う。」
「彼は賢い子なのね。貴方の成績ももっともっと良くなるかもしれない。」
「彼女は家庭が貧しいと聞くし、貴方にも悪い影響があるかもしれないわね。」
母のお墨付きを得た人間とは引き続き親しくし、少しでも否定的な評価だった人間とは徹底的に交流を絶った。
僕はこれといって友人を求めていたわけではなかったけれど、「お友達はいた方が楽しいでしょう?」という母の言葉に従っていた。
母が“きちんと友達のいる息子”を望んでいた。それを叶えることに、何の疑問もなかった。
これが、僕の10代。
社会に出てから数年が経ち、20代の後半で結婚をした。
母が不意に「貴方は結婚はしないの?」と言ったからだ。
それを聞いて当時付き合っていた同僚の女性とすぐに籍を入れた。
彼女は喜んでいたし、あの子はいい子だと思う、と母も嬉しそうだった。
当然僕は家を出て、実家から2つ3つ離れた街に居を移した。
そうして母は1人になった。
それから1年もしないうち、狂った。
「ねぇ…お義母さん、少しおかしいと思うの。」
その頃、妻がそう言い出した。
何がおかしいのか訊けば、毎日電話がかかってくるのだ、と言う。
それは1日にだいたい3回から5回。多い時には10回近くになる。
妻は専業主婦で大抵家にいた為、その電話のほとんど全てを取っていたらしい。
内容は毎回、概ね同じだった。
「あの子は子供の時からとても優秀でね」「あの子はすごく母親思いで」「私はあの子とふたりきりで生きてきたから」「あの子は私を取り残したりしないわ」「あの子だけが頼りよ」「あの子はいい人間だって貴女もそう思うでしょう」「私にはあの子しか」「あの子にもきっと私が」
そんなことをひたすら聞かされ続けるのだと言った。
少し話してみてくれないかと妻が訴えるので、数日後、1人で実家に帰った。
久しぶりとも言えない程のわずかなうちに、母はひどく老け込んだようだった。
家中の至る所で母の好きな花が枯れていた。名前は覚えていないが、“誇り”という花言葉があるのだとよく話していた。
妻から聞いた話をし、すぐに僕は問うた。
「僕はどうしたらいい?」と。
床に枯れ落ちた花を拾いながら、母は笑顔で、即座に答えた。
「ここへ帰ってきて。」
だから僕は妻と別れ、家へ戻った。
母は「帰ってきてほしい」と言い、僕から話を聞いた妻は「もう別れたい」と言ったからだ。
幸い僕達の間に子供はいなかったし、僕はすんなり彼女から離れ、再び母に寄り添った。
怒りも寂しさも何もない。取るべき行動を取っただけだ。
たとえば今日までの僕の半生、思考回路、行動原理を知ることになる人間がいたならば、「この男は異常なマザコンだ」と思うかもしれない。
もしくは母親に対しておかしな愛情を持った息子。倒錯した、頭のおかしい人間。
マザー・コンプレックス?エディプス・コンプレックス?
とんでもない。
もちろん僕とて気付いていないわけではない。
母が僕に抱く執着心の異様な強さ。殆ど自我もなくただ従うだけの、言いなりの僕。
そういえば学生時代に付き合った少女はこう言っていた。「貴方は人形みたい」。
そう。僕は何もない人形だ。そこには誇りも、矜持も、信念も意思もない。
母はそういう僕を愛している。自分の思い通り、言った通りに動く息子を愛している。けれども僕は母を愛していないし、愛されたいから従っているわけでもない。
世界は母と僕のふたりきりだったのだ。疑問を抱く余地すらないほど完膚無きまでに、完璧なふたりきりだった。
昔から、考えることが嫌だった。思い煩うことが嫌だった。だから誰かに、何かに従いたかった。誰だってよかった。
そして身近に母がいた。住む場所を与え、食事を与え、幼い僕を育て、安全を保障してくれる。圧倒的な庇護者である母が。それだけだったのだ。
僕は母の元で自分を捨てることに成功した。
自分の意思を持たなければ悩むことなどない。誇りも矜持も、生きていくのには邪魔なだけ。
いつから“こう”だったのかは分からない。分からないけれど記憶の限りの僕はずっとこうだった。
誰だって、楽に生きていきたいと思うだろう?
僕は楽に生きようとしているだけにすぎない。
たとえばそれに犠牲が伴うとしても、多少は仕方のないことだ。
この人が死んだら、次は誰に…。
そう考えている視線の先で、笑顔の母が繰り返す。
これまで何年も聞かされ続け、これから何年も聞かされ続けるであろう、誉れ高きその言葉。
「貴方は私の誇りそのもの。」
「大切な大切な、私だけの可愛い子。」
ヒメユリ 花言葉「誇り」
(http://hananokotoba.com/himeyuri/ より引用)