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ブルーグレーの雨の中2

彼女は巨大なポリカーボネート製のスーツケースを足元に置いて俯いていた。

傘を差し掛けると驚いたように顔を上げる。

大きな瞳の印象深い、目鼻立ちの整った綺麗な顔立ちをした女の子だった。雨粒が細い顎先を伝ってスカートに覆われた膝に落ちる。

彼女の胸にはタオルで包んだ仔猫。茶の斑模様がもぞもぞとうごめいていた。

ぎゅっと眉間に皺を寄せるとすかさず彼女は言った。

「家出じゃありません」

今朝見かけた女性で間違いなさそうだった。少女、と言える年頃だろうか。暗がりの中でも白い肌が浮かび上がるようで、その頬はしとどに濡れていた。当然だ。一日雨が降っていたのだから。朝からずっとここにいたのだろうか。

家出ではない、と頑なに言い募るけれど、それはどう見ても納得しえない事実だった。スーツケースを持って雨の公園で夜を過ごすなんてそれ以外に考えられない。

セイジは少し思案して、携帯を取り出した。

「だから、家出じゃないってば!」

少女は荒っぽくセイジの携帯を操作する手を掴んだ。

触れた華奢な指先は随分と冷たくて、振りほどくのは簡単そうだった。少女の剣幕はむしろ手負いの獣染みていて、セイジは少し、仔猫に情けをかける気分になる。

嘆息するとセイジは少女の手をそっと外し、スーツケースの収納された持ち手を引き出した。

「女の子がこんな時間に外にいるものじゃない。温かいものを出してあげるから、少し休んだら帰りなさい」

知らずに師の口調になる。有無を言わせぬように歩き出すと、少しあとから彼女は大人しくついてきた。

彼女の抱えた仔猫がにゃあ、と鳴く。

公園内の遊歩道を抜けるとマンションの出入り口のすぐ正面に出る。無言のままエレベータに乗り込むまで二分とかからない距離だ。

部屋の前まで来ると、セイジはちょっと待って、と少女を玄関前に残して一人部屋に消えた。

表札に書かれた名称を少女はぽつりとつぶやく。

水分を吸った前髪からぼたぼたと雨粒が仔猫の額に降り落ちると、仔猫は腕の中でふるふると頭を振り雨粒が少女の顔にかかる。

泣いているみたいに。

「どうぞ、入って」

すぐに戻ってきたセイジの手元にはバスタオルが握られていた。

仔猫を受け取るとバスタオルを少女に渡す。靴の中までぐっしょりと濡れている証拠に、彼女が品の良いパンプスを脱いだ時、ぷしゅぷしゅと気の抜ける音がした。

ヒールの低いグレージュのパンプスは雨に濡れて色を濃くしている。

そのままバスルームへと案内して、ビニール袋とグレーのTシャツ、学生時代に運動着にしていた鮮やかなグリーンのジャージを手渡した。

「濡れた服はこれに入れて、着替えは、僕のもので悪いけれど、これを。乾燥機は自由に使ってもらって構わないから。あ、あと新しいバスタオルはここ」

てきぱきと指示をしてバスルームの扉を閉めかけてから、セイジは振り返った。

「携帯、持ってるよね?」

彼女はぎこちなく首を縦に振った。

「そう。それじゃあ、ごゆっくり」

彼女を案内する間ずっと抱いたままだった仔猫を、キッチンの流しに風呂桶を用意してそっと洗う。

目は開いているけれど、ぐったりしていて弱っているように見えた。動物を飼ったことがないからこういう場合どうしたらいいのか分からないし、動物に与えられるようなものはこの家にはなかった。

全身をタオルで柔らかく拭い、洗濯物を入れる籠にタオルを敷いて仔猫を寝かせる。

手を離すと心細いのかみーみーと鳴き声を上げていたが、すぐにおとなしくなったようだった。

セイジは財布を片手に部屋を出た。

徒歩二分ほどのコンビニエンスストアで猫の餌をじっくり眺める。

どれも成猫用で、仔猫に与えていいものはなさそうだった。

仕方なく牛乳とストローを購入し部屋に戻ると、籠の中の仔猫は静かに眠っている様子で、バスルームからはまだシャワーの音がしていた。

キッチンでミルク1カップを湯煎で温め、卵黄と砂糖を溶かす。

ネットとにらめっこしながら、ミルクが沸騰しないように気を付ける。

人間の飲むミルクを温めるだけでも、平皿に用意するだけでもいけないことを知って少々げんなりしながら、眠る仔猫を覗き見る。

随分冷えているけれど、あの女の子が拾ったのだろうか?元々飼っていたのだろうか。

グラスに三分の一ほどミルクを注いで冷ますとソファに移動する。

仔猫を抱きかかえて冷えた体をさすってやると、やはり鳴き声はか細い。

「お腹すいてる?ミルク、飲むかな?」

独り言のように話しかけると、ストローで仔猫の口元にミルクを垂らす。

クリーム色がかったとろりとした液が触れると、仔猫は舌でぺろりと舐めとった。

セイジはほっとする。

仔猫の口に無事合ったらしい、僅かに前後する前脚がもっと、とねだっているようだ。

しばらくかかりきりになって仔猫にミルクをあげながら、目は開いているので少なくとも産まれて二週間くらいは経っているのだろうか、と考えている背後で扉が開く音がした。

少女がこちらをじっと覗き見ている。

今更警戒されても家に上げてしまった以上、後の祭りである。

手招きをして仔猫を預けると、先程仔猫にあげたミルクの残りにはちみつをたっぷり溶かしてマグカップに注ぎ、少女に差し出す。

彼女はじっと何を考えているのか分からない瞳で部屋の中を注意深く見渡して、そしてセイジを見上げた。

大きな瞳はヘーゼルに近い薄いブラウンで透き通るように蛍光灯を反射する。

セイジを見るその様は懐かしいものでも見ているようだったし、奇怪なものを見るようなそんな雰囲気もあってそっと居住まいを正した。

印象的だなと思うのは、マグカップが口元を覆っているから余計になのかも知れない。

セイジは仔猫の背を撫でる。

茶の斑かと思ったら、グレーっぽい色にも見える不思議な毛色。

仔猫と同じように、少女もミルクはお気に召したようだ。

「きみの猫?」

少女はマグを膝に下ろすと首を横に振った。

セイジはそう、と呟いた。

少女はこの部屋に入ってから一度も口を開かない。

スーツケースは玄関先に置いたまま。水滴はふき取っておいたけれど。

明日は晴れるといい、とセイジは他人事のように思う。

スーツケースを引いて歩くのに、雨天は向かないので。

少女は何か言いたげにじっとセイジを見つめて、セイジもじっと見つめ返す。

自分の心は読ませないのに、相手の心はなんでも読み取ってしまいそうな視線。

随分と勝ち気だ。見つめ合うというよりは睨みあう状態が続いた。

しばらくして、やっと口を開いたのは彼女の方だった。

視線を外さないまま、セイジに向かって言う。

「あなたはいい人に見える」

唐突でセイジは思わず視線を逸らした。ふっと笑みがこぼれる。このタイミングでそんなことを。

けれど少女は大真面目で、セイジをさらに追い詰めるように見上げる。

「ここに置いてほしいの」

少女の申し出に、視線を合わせたら呑まれてしまうことを自覚して、逃げるようにとっくりと少女の膝の上の仔猫を眺めた。

少しでも彼女の瞳を見たら迫力に気圧されてしまう気がする。押しの強いこの感覚をセイジは知っていた。

少女は続ける。

「わたし、人を見る目はあると思うの」

「・・・家出じゃないんじゃなかった?」

少女は黙り込んだ。

「それに人は見かけによらない。悪い人は大体善人を装うものだよ」

「あなたは違う」

「違う、って。分からないよ。もし僕が悪い人だったら、僕が何もしなくてもお金持ちのおじさんとかを連れてきてきみを引き渡すかもしれないよ」

「わたしをお金で売るってこと?無駄よ。大した金額にはならない」

「随分と過小評価してる。僕がもしお金持ちのおじさんだったら、大枚はたいてでもきみを買うよ」

「あなたがもしお金持ちのおじさんなら、こっちからわたしを買ってってお願いするわ」

「おじさん、でも?」

「おじさんでも」

会ったばかりの人間に自信に満ち溢れた様子で言ってのける彼女は相当大物で、驚く程変わっている。

「お願い。帰りたくないの」

彼女の口調は臆するところのない堂々たるものであるし、まるで人を使い慣れているような威厳さえ感じさせていて、お願いだなんてなんだか彼女にはとても似合わない言葉のようにセイジには感じた。

仔猫はよく眠る子で、それは弱っているからなのか睡眠が好きだからかは分からなかったけれど、ネットの情報に忠実に二時間置きにミルクをあげた。

少女はリビングのソファでこんこんと眠っている。

よく初めて来た見知らぬ男の部屋でこれだけ熟睡できるなとセイジは感心し通しだった。

他人の匂いのしないこの部屋に他の誰かがいる、というだけでセイジの方が眠ることもできず、また、彼女から目を離して一人寝室に戻ることもできず、占領されたソファをダイニングの椅子から眺めることしかできないまま窓の外がうすぼんやりと白んでいくのを眺めていた。

これまで彼女を「少女」と形容していたけれど、目を醒ました彼女と話をすると、それは相応しくない呼称であったことが発覚するのだった。



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