表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

ブルーグレーの雨の中

*初夏



長い冬を乗り越えた先の春だった。

それは世界的に厳冬の年で、あまり雪の降ることのない平坦な土地に佇むこの街にも足元が埋もれる程雪が降った。

肌を突き刺す寒風も、雪が降れば湿度でほの温かく感じる。

それに慣れてしまえば冷気も一瞬であれば心地よく、凛と張り詰めた清廉な空気が消え始める冬の終わりはどこか物悲しい気がした。


 なかなか春が来なかったものだから、「とうとう春がないまま夏になってしまうかも知れないね」と誰かが言っていた。

暦上は春なのだから、春がなくなるというのは体感の意味なのだろう。

それは深い眠りから覚めた花や薄い空、風が和らいだときの甘い匂いも白い木漏れ日も、そういうことを感じることなく夏がやってくるという意味だった。

ほんとうに?

目を開けたその日、唐突にそれまでの空気とは明らかに違う風が吹いた。

窓の外には花のつぼみや赤い木の芽や、透き通った空の色。

紅梅がうぐいすを誘い始めるころ、杏が花弁を開き桜が綻び、淡く木蓮が薫る。

一斉に息を吹き返す世界の色は鮮やかで力強く、「春の喪失」による悲壮感は瞬く間にまだ見ぬ未来への期待感にとって代わる。誰しも。

それが目に見える春の訪れで、そんな風に時間の流れを掌に乗せていた。

幾度となく廻る、春。

少しやって来るのは遅かったけれど、桜が咲き、めじろが愛らしく木の芽をつつき、うぐいすが上手く鳴くのに一週間強を要した。

その間に微かに残った冬の気配は東風に浚われ、瑞々しい草花の匂いが都会の端にさえほのかに漂った。

瞼には幼い紫や白の野草が思い出され、それを探して一日の空いた時間を自然と散歩に費やしていた。

空気に混じるその匂いは年々薄くなっていくように思うけれど、決して消えてしまったわけではない。

そうして過ごしやすい日々はほんのわずかでも確かにあり、そのすぐ次にはじめじめとした梅雨が来たのだった。その年の五月の末のこと。

気象観測が始まってから二番目か三番目かに早い梅雨入りを果たした翌日は朝からやはり艶やかな雨が降っていた。


彼は天窓を叩く柔らかい雨音で目を覚ました。

部屋のどこか遠く携帯電話のアラームが聞こえ、起きなければと音源に手を伸ばす。

簡単な操作で目覚まし音を止めて、固く瞼を閉じ数秒。眠気と戦ってからやっとあきらめて、体を起こす。

部屋の外は雨音以外何の音もしない。

分厚い灰色の乱層雲から滴り落ちる雨粒がこの街の音という音を吸い込んでいるようだった。

時折、濡れた地面を滑る車の音がするけれど、それだけ。

天窓をしっとりと濡らす柔らかな雨。風はない。

薄暗い室内には無機質なステンレス天板のキャビネットとシンプルなベッドが置いてあるだけだった。

広くはないが、天井が高く開放感がある。

七畳程度の寝室はまるで断捨離を拗らせた人間の住処のようだったけれど、その方がなんとなく休まる気がしたのだ。

顔を洗ってホットコーヒーを飲み、軽く外出の準備を済ませるとモスグリーンの雨傘を片手に建石セイジは自宅を出た。

表札には”建石ピアノ教室“と書かれている。

十四階建てのファミリー層向けマンションの十一階にこの教室はあった。

広く作られたリビングと続きになっているダイニングキッチン、特別に防音加工を施したレッスン室、ルーフバルコニー、そして寝室。

ここが彼の職場であり自宅だった。

 午前中のレッスンがないこの日、彼は電車で三十分ほど行った街の楽器店へ向かう予定だ。

取り寄せてもらっていた楽譜を引取りついでに大型店舗の本屋に立ち寄り、この近所では手に入らない本や資料を物色してこようと目論んでいる。

昼過ぎからのレッスンに間に合うよう戻ってこなければ。

エレベーターで一階まで降りる。

冷たい大理石のエントランスを通り抜け、集合ポストの中をチェックする。

メンズスーツショップからのダイレクトメールと水道メーターの測定結果、新築物件の広告。

それらに埋もれていたらしい、絵葉書が一枚手から零れ落ちた。

セイジは足元にひらりと着地したその絵葉書を一瞬時間が止まったように括目し、そして人差し指と親指でそっと拾い上げた。

煉瓦色の家々が並び、中世の趣が残るゴシック様式の尖塔、時が止まったままの時計塔が映る外国の風景写真だった。

彼は絵葉書以外の郵便物をすべてポストに戻して表に出た。

傘を開いて肌寒い雨の中を駅まで歩き出す。

通勤ラッシュの終わった時間とは言え、上り電車の座席は埋まっていた。

扉に背を預けると手にしていた絵葉書を改めて見直した。

消印はドイツ、ドレスデン。

お手本のような筆記体を眺めては束の間、ここがどこであるかを忘れる。

梅雨など無縁のあの土地での生活。

丁寧に綴られた自分の名前と、差出人の名前を交互に見つめ、セイジは微かに首を振った。

元気にしていますか?また手紙をください。

簡単なメッセージを指先でなぞっても体温は感じられず、それは当然だったけれどどこかで期待を裏切られたような落胆があった。

短く吸い込んだ空気は生温く澱んでいて、不快感が募るばかりだった。


***


引き取った楽譜を手に戻ってきたセイジは駅前のスーパーで軽く買い物をすませてから家路を辿った。

ミネラルウォーターときゅうり、トマト、四分の一にカットされたキャベツ。

ノンオイルの青紫蘇ドレッシングと乾燥パスタ、詰め替え用ボディソープ。

スーパー内に併設されているパン屋で食パンを買うと片手で持つには結構な重量になり、雨の日の買い物を少々後悔しながら前々から検討していた浄水器の設置を思い切ろうか、と思案する。

 マンションの前には針葉樹に囲まれた住宅街の中にあるには比較的広い公園がある。

楕円に芝生の刈り取られたグラウンド、それに沿って敷き詰められたタイルの散歩コース。

その外側の広場にはブランコや滑り台等の遊具が設置され、生物を観察するための浅い池があった。

新興住宅街であるこの近辺は小さな子供連れの一家が多く住んでいることもあり、晴れた土日はいつも賑わっている。

それに加え、背凭れ付きの木製ベンチが数多く設置されていて平日の昼間は老君の交流の場となっていた。

セイジもよくここでお年寄りに混じって本を読むなど息抜きに利用していた。

公園の南側を楕円のカーブに沿って歩いていく。

往路と同じように緩くカーブを描く公園に沿ってマンションへ帰る途中、どこかでか細い猫の鳴き声がした。

この辺りは野良猫も飼い猫も多い、どこにいるのだろうかと見回しても姿は見えなかった。

マンションは駅から徒歩五分の好立地。雨の平日、公園にはさすがに誰もいないけれど、公園に沿った遊歩道は駅や駅前のショッピングモールに向かう人が多い。

芝は雨に濡れ青々として、彩度の抑えられた景色の中で輝く。そこだけが鮮やかだ。

白のカーディガンを羽織る後姿を見つけるまで、彼はそう思っていた。

芝生に浮かぶ無垢な白。それは華奢な女性の背中だった。

彼女は傘も差さずにじっと背凭れのない石造りのベンチに座っていた。

肩甲骨まで伸びた亜麻色の髪。

ここからは俯き丸まった背中しか見えないけれど年若い女性なのは姿かたちで想像がついた。こんな雨の中に。

分厚く薄暗い灰色の曇天の下、鮮やかな色の傘と幾度かすれ違ったけれど、その誰も彼女を目に留めていないようだった。セイジにしか見えていないみたいに。

マンションの前で一度立ち止まって振り返り、そしてモスグリーンの傘を閉じた。

午後から立て続けにレッスンが入っている。

事前のレッスン内容を前回の記録を基に確認する。

誰がどの曲をレッスンしていて、どんな癖があってどこが苦手で、と大体は把握しているものの、個々人に出した課題や目標など、すべてを覚えきることはできない。

つまり、建石ピアノ教室はその程度には繁盛していた。

シリーズものの音楽映画が空前のクラシックブームを巻き起こしてはや数年が経っているはずなのに、今も入学希望者は後を絶たない。

現時点では休みと決めている日曜と、木曜の午前以外はほとんどレッスンで埋まってしまっているため、新しい生徒の募集はしていない。

そもそも、セイジは大々的に生徒を募集していない。

音大時代のツテやの生徒さん同士の繋がり、ご近所さんの縁しかりで、いつの間にか範囲が拡がっていた。

年齢層にも幅があり、英才教育に熱心な親御さんに連れてこられる三才児から、定年退職後の趣味にピアノを始めようと興味を持った団塊世代まで、まさに老若男女問わず。

一人当たりの練習時間は一時間半程だけれど、今日夕方レッスン予定である小学生の生徒さんは近く地域のコンクールを控えているため、少し多めに見ようか、と思案しているところにインターホンが鳴った。

壁にかかった時計は十四時五十分を指し、モニタはショートカットを上品に整えた女性が映していた。

いつもの通り、インターホン越しにどうぞ、と伝えてオートロックを解除する。

ウーロン茶を二人分サイドテーブルに用意していると玄関側のインターホンが鳴り、十五時からの生徒である青木さんがこんにちは、今日もよろしくお願いします、と丁寧に頭を下げた。

リビングルームを通り、その奥にある防音の整った練習室は中央にグランドピアノ、最も奥側の壁一面は本棚になっており、楽譜や楽典、教材等が並び、グランドピアノの鍵盤側の壁には二人掛けの白いソファが置かれている(大体そこは生徒の荷物置きとなっている)。

青木さんがウーロン茶を差しながら「いただいてもいいですか」と訊ね、セイジは頷いて自身もグラスを手にした。

「雨、止みませんね」

「ええ。お洗濯物がなかなか済まなくて、そろそろ晴れてほしいですね。ピアノにも悪いですし」

「除湿機が欠かせませんね」

先日購入したばかりの静音機能が売りになっている除湿機が部屋の端に鎮座している。

排水タンクも割合大きく、長時間つけていても対応できるところが気に入って購入したものだった。

「さて、早速ですが始めましょうか」

グラスを置くと、椅子の高さを合わせるところからレッスンは始まった。

レッスンを終えても雨は降り続いていて、止む気配はないまま。

防音を施したレッスンルームに雨音は聞こえない。二重窓を開け放つと冷たい空気に僅かに肌が粟立った。

この先にあの公園が見えている。

蕭条たる雲は遥か遠くの空まで拡がり、風がないせいで雨は矢のように真直ぐ地上へ降りていく。

あらゆる音を吸い込んでただただ雨が地面を叩く音だけが耳朶を震わせる。

黙ったまま雨に濡れる深い緑を眺めていると、微かに猫のような、赤ん坊のような鳴き声が聞こえた。

ふと下を覗き込むと、針葉樹の間に白い人影が見えた気がした。

昼間の女性を思い出す。間もなく時計は十七時を指し示すところだった。

夕方の生徒は小学四年生の男の子だった。

そう高い位置にあるわけでもないオートロックのカメラに向かってぴょこぴょこ跳ねては母親に諌められている。今日はいつに増して元気なようである。

「こんにちは、順也くん」

十歳の誕生日を迎えたばかりの少年は靴を脱ぎ捨てると早速リビングへ向かおうとするのだが、首根っこを母親に掴まえられてようやく静かになった。

「こら、順。先生にこんにちは、でしょう」

母に促され、はにかみながら小声でこんにちはと応えると、服の襟首が伸びてしまいそうなほどに逃げ出そうとするので彼女は仕方なくそっと手を離した。

順也はちらりと振り返るものの、すぐさま部屋の奥へと走って行ってしまった。

「すみません、先生。お行儀が良くなくて」

「いいんですよ、高橋さん。今日はいつも以上に元気がいいですね」

「学校で何かあったみたいなんです。でも、ママには教えないって」

「男の子ですね」

肩を竦めて笑い合うと、少々レッスンが伸びるかも知れないことを伝えた。

順也の後を追いレッスンルームに入ると課題にしていた楽譜を用意し、椅子に座ってわざと浮かせた足をぶらぶらさせていた。

椅子に深く腰を掛けてももう両足のつま先が床に着くようになったのはいつ頃だったか。最初に会った時には全く届かなかったのに、子供の成長は光の速さである。

セイジを見上げると順也は頬を紅潮させて言った。

「あのね、先生。オレ、秋の発表会で伴奏をやるんだ」

順也の隣に椅子を並べて腰掛けると、セイジは目線の高さを合わせる。

「秋の発表会?」

「うん。あのね、地域のお仕事をしている人にインタビューして、それを発表する会なんだけど、それで、最後に合唱するんだ。その伴奏」

小学校とは縁のないセイジには順也の言う「発表会」の詳細は分からなかったけれど、学校行事の一環でピアノの腕前を披露する場ができたことを理解した。

来月のコンクールにはあまり乗り気でない順也だったが、観客が友達やその親御さんであれば楽しみになるらしい。

セイジは順也のご機嫌の理由に納得した。

「ママにはナイショにしてね。驚かせたいんだ」

「うん、分かった。じゃあこれからは、その発表会の曲も少し練習しようか。楽譜はある?」

すでに準備された楽譜の裏側に自慢げにセイジに見せる。

やる気は十分なようだ。

何が理由であれ、このタイミングでモチベーションが上がることは良いことなので、このままコンクールにも前向きになってくれることを密かに祈った。

「それじゃ、今日はここから」


***


予定通りに1時間と五十分程でレッスンを終え、迎えに来た母親に純也を引き渡すと早々にシャワーを浴び、リビングのオーディオにCDをセットした。

ラフマニノフのピアノコンチェルト。テーブルに座って今日のレッスンの記録を手早くまとめる。

翌日は午前中からお昼を除いては全てのレッスン時間が埋まっているのだ。

その為の予習として生徒とレッスンの進捗も同時に確認していく。

ふとCDが一瞬間を空けて第一楽章から第二楽章へ移行する。耳がそちらに傾き、資料をめくる手を止めた。

オーボエ、クラリネットの印象的な導入を引き継ぐ形でピアノソロが始まる。情緒的で労りを感じさせるソフトな音色。

セイジは思い出したように、今朝届いていた絵葉書を取り出した。

引き取ってきた楽譜と一緒に楽器店の袋の中に入れていたそれをオーディオの隣に飾ってある写真立ての中身を抜き取り、受け取ったばかりの絵葉書を入れる。

抜き取った写真立ての中身も同じような外国の風景写真の絵葉書で、セイジはそれを楽譜やCDを収納しているラックに立て掛けてあるアルバムに収めた。


***


どこかでショパンが聞こえる。

練習曲作品10第3番。所謂「別れの曲」。

あまりにも有名なこの曲は母の好きな曲だった。透明で繊細な印象の音。イメージしたままの音を出すことに難儀して何度も何度も鍵盤を叩くけれど、納得のいく音は今もまだ出せない。

正確には、出せなくなってしまった。

これじゃない、こうじゃない。

掌に爪の痕が白くなるほどに拳を握りしめるたび、母が遠くなっていく気がしていつしか弾くのを躊躇うようになってしまった。

そう、あの日以来。


 カップの中身を揺らすように内臓が揺さぶられるのを感じ、セイジは目を醒ました。震度3くらいだろうか。耐震マンションは実際の震度よりも大げさに揺れる。

見上げる天窓は灰色だった。雨音は変わらず窓をとつとつと叩き続けていた。雨だれ。

随分長い間揺れていた。セイジは上半身を起こして正面の壁を見つめた。

どこか遠くから雨音に消え入りそうな猫の鳴き声が助けを求めるように聞こえる。

夕方、けぶる針葉樹の間から聞こえたのと同じ猫の声。捨て猫だろうか。雨に濡れなければいいけれど。ベッドを抜けてカーテンを開いて下を覗き込む。

先には中央公園があり、針葉樹に阻まれてもし猫がいたとしても見つけられるはずがなかった。

代わりに見つけたのは、セイジの寝室のちょうど真下に設置された樹木の間のベンチに座る、白いカーディガンの女の子だった。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ