花の姫と鬼の子~雪月花草子~
さる昔、花姫と名付けられた姫がいた。
名付けの当初は如何に情趣を好む貴族の娘とは言え、些か安直に過ぎはしまいかと陰口を言う者もいたが、花姫は名前が何より似合う姫に成長していった。
花姫の裳着(成人の儀式)は、花姫を溺愛する両親によって盛大に行われた。裳の腰を結ぶ役や髪を結い上げる役など、相応の相手を選び行われた。そして裳着を済ませる頃にはそれまでにも増して幾人もの求婚者が現れた。
花房のようでありながら清新な面を扇で隠し、そのどれもに、花姫は憂鬱そうに首を振った。
花姫の両親は殊の外、娘に甘く、それを咎め立てることもなかった。本音を言えば、愛娘をいつまでも掌中の珠よと慈しんでいたかったのかもしれない。
ある夏の夕暮れ。
表は朽葉、裏は青の花橘という名の襲を纏った花姫は、暑気当たりして、おつきの女房に風を送ってもらっていた。
送られる風は緩やかで、涼を得るには弱い。
何かと何かのあわいが曖昧になるような時節だった。
空気が黄金色に染まり、じりじりと花姫を焼くようだった。
花姫は金糸銀糸の綾錦を脱ぎ、白絹と袴という身軽な恰好で庭の池手前まで走り出た。当然、女房らは止めたが、聴く花姫ではない。
悠然と鯉の泳ぐ池から立ち上る水の気配、邸内では味わえぬ風と空気を感じ、目を細めた。
(いずれはわたくしもいずこかの殿方と添うのだろう。そうしてまた囲い込まれるのであろう)
花姫は己が身の恵まれていることを知っていた。知ってはいても込み上げる虚しさ、寂しさは埋めようがない。
庭には菖蒲が濃い紫の花を咲かせ、その凛然たる様が一層、花姫の気持ちを沈ませた。
(いっそ真の花であったなら。思うがままに咲いていられるであろうに)
花には花の申し分もあるだろう。しかし花姫はそのように羨んだ。
一陣の涼風に花姫が目を上げた先。
猩々(しょうじょう)(身の赤い中国の想像上の動物)のように濃き紅の水干を纏った童子がそこに立っていた。
さてこのような者がこの邸にいたであろうか。
高く髪を結い上げた童子の面は日に焼けて精悍だったが、どこか雅な面影があった。
出し抜けに童子が言った。
「返せ」
「何を」
「父の命を」
「……父御を亡くされたのか」
「お前の叔父が所業だ」
ずきりと花姫の胸が痛んだ。
花姫の叔父は検非違使庁(京都の警察、裁判を管理)長官で、先頃、鬼を討ち取った手柄を挙げていた。功名を得るに焦っていると噂の叔父ではあった。
ではこの童子は鬼なのであろうか。
薄暮の中、漆黒の髪を靡かせる童子は麗しい夕景の他に、この世ならぬ悲嘆を背負っているようであった。
吹く風を悲しいと感じた。
花姫は童子が腰に佩いた刀に手を遣っても、微動だにしなかった。
恐れゆえではなく、悲しみゆえに。
花姫は微笑んだ。
薄い唇の、紅も塗らない儚い色が半月の形を成した。
童子は目を瞠り、刀から手を離した。
「済まぬ」
「……謝って、父上が戻るものか」
道理であると花姫は柳眉を寄せた。
鬼と言っても童子の頭に角はなく、恐らくは不思議な力でもあるのだろうと花姫は思った。そして不思議な力、変わった者を人は異端視して爪弾きにする。童子の立場にあったのは、もしかすると花姫であったかもしれぬのだ。花姫は童子に不思議と共鳴するものを感じた。もっと話をしてみたいと感じた。これまで、他のどんな公達にも思わなかったことだ。
しかし身を翻し、立ち去る気配を見せた童子に花姫が問う。
「名を、教えてはくれぬか」
「……水影丸。さらばだ、花の姫」
突風が吹き、花姫が目を開けた時には、水影丸はどこにもいなかった。
最後に見せた、水影丸の、何かを惜しむような眼差しが忘れられない。そして花姫は、彼の前で綾錦を纏っていなかったことを安堵した。水影丸の前で、貴族然とした姿でいたくはなかった。
時は移ろう。
花姫に甘い両親も、流石にそろそろ縁組を纏めねばなるまいと、そう思うくらいに花姫も年を重ねた。今では妙齢の美女である。
薫香を焚かずとも、花の香が匂うような姫であると、都中の噂になっていた。
そしてついには入内話まで持ち上がる。
花の姫を、と、帝直々の求めである。断ることは許されない。
寒い冬のことであった。
夜、花姫が人知れず流す涙もすぐに冷えた雫となった。高麗端の畳は無情にしんとして、花姫の涙を解するでもない。火桶の火が仄かに熱を与えるが、花姫の慰めにはならなかった。
女人の栄耀栄華ではないか。
何を悲しむことがある。
そう、胸に言い聞かせてみたところで、己自身は誤魔化せない。
水影丸と名乗った童子が、いや、今はもう立派な青年となっているだろう彼が心に棲みついてしまった。
棲みついてしまったから。
表は白、裏は紅である雪の下という名の襲に露の涙がまたもやはらはらと散る。
露は灯台の灯りを弾き、きらきらと輝いた。
「あひ見ての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり」
知るまでは思うように浮遊していた花姫の心を、水影丸は捉えてしまった。あの、ほんの僅かな邂逅で。
逢わずにいればこれ程苦しくなかった。きっと両親の勧めに従って入内にも臨めた。
逢ってしまったからこれ程に愛しく苦しい。心がきりきりと痛みちりちりと焦がれる。
いっそあの時、水影丸に斬られていれば楽だったであろうに。
「誰と逢うのだ?」
花姫の耳に滑り込んだのは、記憶より低く、やや太くなった声。
そして何より待ち望んでいた声。
出逢った時と同じ、猩々を思わせる紅の、狩衣姿に、髪を後ろで一つに結った水影丸が立っていた。腰には煌びやかな黄金の太刀を佩いている。あの頃より姿も得物も格段に力を増して見える。これ程、圧のある存在に、御簾の内に入られるまで全く気づかなかった。
思わぬ逢瀬に心が浮き立った花姫は次に、女房に見つかりはすまいかと案じて慌ててあたりを見回した。
それを勘違いしたのか、水影丸は花姫に苛立った声を上げた。
「助けを呼んでも無駄だ。皆、眠りこけている」
「水影丸」
「何だ」
ああ、水影丸だ。媚びるところのない声、真っ直ぐに人を射抜く眼差し。
どちらも凡そ公達には見受けられない。
成程、彼は異形であろう。
――――何と愛しい異形であろうか。
先程までとは異なる涙が眦に滲む。
「息災であったか?」
水影丸がいつかと同じように目を瞠り、しばしの沈黙の後、答えた。目線を落として、花姫の紅の袴を見つめるように。
「……あんたはいつも俺が思ったのと違うことを言う」
「息災で、あったなら良かった」
「入内するのか?」
「しない」
気づけば花姫はそう答えていた。けれど口に出した途端、そうするのだともう決めた。父母は咎められるかもしれない。それならば。
「仏門に入る」
「――なにゆえ」
「さすれば帝のご勘気も幾らか和らごう。そなたの安寧も、祈ることが出来よう」
「…………」
「あ、」
水影丸が無言で、花姫の装束をむしり取り始めた。ひどく乱暴な手つきで、花姫は初めて水影丸を恐れた。鳳凰の唐衣、紅の袴までが剥ぎ取られる。何もかもを容赦なく奪い取られ、あとに残ったのは身体の線が露わに浮き出る紗ばかりである。花姫は恥じらいと寒さに震える。
「このまま力尽くであんたを俺のものにも出来る」
「そなたは左様なことはするまい?」
「小癪な姫様だ」
微笑んだ水影丸は、無残な状態の花姫を、それまでとは打って変わって優しい手つきで抱き寄せた。紅の狩衣はそれそのものにも不思議の力があるのか、花姫は春に包まれた心地になった。その温もりに陶然となる。
夢のような口づけを交わしたあと、水影丸が言った。
「花姫は花びらだけを残して跡形もなく消える。雪のように」
「今宵は月も出ておる」
「趣があるではないか」
水影丸が初めて声を立てて笑った。水影丸が笑った振動が花姫にまで伝わり、花姫はくすぐったくなった。
「贅は約束してやれぬ。だが食うに困らせぬことは約束しよう」
「左様な約束は要らぬ」
「ならば何と?」
「ただ、妻に、と」
「……花姫。俺の妻になってくれ」
花姫は花が綻ぶように笑った。
空には朧月。
ちらほらと雪が降る夜。
花の姫は鬼の子に抱かれ、都大路の上、宙を飛んでいた。
その稀なる光景を目にした者は誰もいなかった。
写真提供:空乃千尋さん