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泣き止んで、世界が滅んでもいいから 03

 アリスは涙を零しながら顔を手で覆い、狂ったように身を捩らせていた。体を構成する腕、足、首――ありとあらゆる筋肉、関節が暴れ回ってアリスの精神を苛んでいく。

どうして自分はこうなのだ。アリスは自己嫌悪に心を押しつぶされながら、背を千切れそうなほど弓なりに反らせる。喉から潰れた蛙のような声が漏れた。

自由の効かない躰に無用な心。滂沱の涙を流しながら、アリスは自己防衛のため心を閉ざす。

守らなければいけない。誰も守ってくれないのなら、自分こそが『アリス』の存在を守らなければ。

脳に刻まれた祖字が、呻くように約束を、祈りを、望みを、アリスへと沁み込ませる。そしてそっとしゃがれ声で囁くのだ。

思い出せ。こうなるに至った原因が――『アリス』、他ならぬお前の選択にあるのだと。



「アリスー!アリスー!アリスってば!」

 溌溂とした少年の声にアリスは飛び起きた。戸の嵌っていない窓から熱い風が部屋を吹き抜け、ざらざらとした麻のシーツの上に寝転んでいたアリスの黒い髪を浮かせる。

汗ばんだ身体を起こして周りを見渡せば、そこは白く冷たい魔法金属でできた城などではなく、貧しい薬屋の中だった。

 土で作られた壁に囲まれた小さな家屋で、部屋に張られたロープから様様な草が干されている。地面には薬研(やげん)や乳鉢が所狭しと並べられており、煎じている途中の薬草の、独特の匂いが鼻をくすぐる。アリスは棒のように細い手足を思いっきり伸ばしてから戸外へと飛び出した。

「こんな時間から寝てたのか」

「うん。午前に張り切って薬を煎じてたら少し疲れちゃって」

 初めて出会ってから四年。二人は九歳になっていた。

レオとアリスは、レオの兄弟達と共に、寄り添うように生きていた。

 いや、環境がそうさせたというのか。

 干からび草一本無い荒野。カルマの世界に雨が降らなくなって、既に二年が経っていた。

 七年前に既に神子は崩御していた。だが崩御と同日に再誕するはずの新たな神子が現れなかったのだ。前代未聞の事態に王族は神子の崩御前後に産まれたカルマを国を挙げて探し回った。しかし見つかったどの赤子も瞳に瞬膜を張った普通の子であり、神子は二年たった今でも未だに生きている気配すらない。神がカルマを見放したのではという失望感が世間を包み、国は荒廃の一途を辿っていた。

その二年の間にアリスは母を失い、レオは両親を亡くしていた。正しく言えばそれ以外にも国中に死が溢れ、村でも多くの死人が出ていたが、彼らの狭い世界にはその三人がいなくなったという事実だけで十分だった。

「少しでも素材が見つかればいいんだけど……」

 アリスは母から薬事の手ほどきを受けていた。歳が歳なだけに頼ってくるものも少なかったが、アリスが村で唯一の薬師だったので日銭ぐらいは稼ぐことができた。

 薬を作るには当然薬草がいる。知識は有るが、ほとんど引きこもりきりでいたアリスには薬草を探すだけの土地勘が無く、そこで兄弟の居るレオが、みんなで手分けして乾燥に強い薬草を探し回る役割を引き受けていた。ほかにもレオは弟妹達と水分を多く含んだ仙人掌(サボテン)を獲りに行ったり、どこか遠くへと出て行っては、割の悪い仕事をこなし僅かな硬貨を得て、子供だけながらも、ぎりぎりの生活を維持していたのだ。

「トゲトゲトゲトゲ〜〜」

 二人は炎症を起こすことも日焼けすることも無い白い肌を晒して走り回る。今日は少し遠出して、痛み止めになる仙人掌(サボテン)の棘を採集しに行くつもりだった。

「トゲトゲトゲ~」

 謎の言葉を発しながら、村から離れた荒野へと腕を振りながら突き進むレオ。まだ外に慣れないアリスはきょろきょろと辺りを見渡しながらレオの背中に張り付いている。

「トゲトゲトゲ~ってアリスも声出せよ。砂蛇とか岩トカゲとかは音で逃げるんだからさ」

「うん……トゲトゲトゲ……」

 蚊の鳴くような声に呆れながらレオは声を重ねる。二つの高い声が重なり摩訶不思議なな響きが無意味な音に織り込まれ風に乗って空に広がっていく。

村から離れることは子供ならず大人にとっても危険なことだ。だが雨が降らなくなってからは生き延びるために食料や価値のある鉱石を探して、誰もが無謀な外出を余儀なくされており、結果、たくさんの村人が帰らぬ人となっていた。

 そんな状態であっても、大人ほどの力仕事ができないアリスとレオに選択肢など無く、こうして無邪気に命賭けの外出を試みているしかない。

「あーあ。やっぱり新しい棘はあんま生えてないなー」

 以前見つけた仙人掌(サボテン)には小さな棘が数本生えているだけだった。抜いてから日が経っていないこともあるが、如何に乾燥に強い仙人掌(サボテン)にも二年の水不足には再生力に限界が近づいているのかもしれなかった。

「ねえ……どうしようレオ」

 アリスは不安そうに水銀の瞳を揺らしてレオを伺い見る。頼まれている薬を作るためにはなんとしてもこの棘がいるのだ。それがなければ、正直今日の晩御飯にもありつけるか分からなかった。

「しょうがねえ、もっと奥行くか」

 淡々とレオは呟く。弟や妹達が待っているレオは手ぶらで帰るわけにはいかないのだ。巨大な筍型の岩が群生しているこの地区では、熱い風が岩々の間に流れを作って渦巻いている。それに負けまいと風に逆らい小さな歩を進め、二人はより人の寄り付かない所へと向かっていった。

「危ないよ。大人だってこんなとこ来ないのに」

「だからこそまだ薬草や食べ物が残ってるかもしれねぇだろ」

 怯えたアリスがレオの砂まみれになった服の裾を引くがもう止まらない。

 その時、甲高い鳴き声が空を裂いて響いた。

 金属製の笛から放たれたような、鼓膜を切り刻む甲高い音。途端、まるでそれに合わせるかのように風がぴたりと止んだ。

「なんだ!?」

「レオ!上だよ!」

 仰げは高さ10メーターほどの巨岩の上から、長い首を伸ばして二人を見下ろす黒い影があった。鋭角のシルエットで二人はその正体をすぐに悟る。

「さ……砂竜(さりゅう)……!」

 首をもたげ、紙飛行機のような三角形の翼を広げているからすぐに竜だとわかったが、その体を岩に似た分厚い鱗で隙間も無く覆っているので、鳴声をあげるまでその存在に二人は全く気付かなかった。

「まずい…」

 そこまで大きい個体ではなかったが、子供など一噛みで食われてしまうだろう。レオは息をするのも忘れて竜を見つめる。自分と同じ瞬膜に覆われた、爬虫類特有の縦に細く伸びた虹彩は自分達を完全に餌として捉えている。

 逃げなければ。だがアリスは真っ白な顔をしてカタカタと震えるだけだった。同じくレオもだ。

 レオはアリスの手を握った。気付けば出会った頃の柔らかさはその手のひらから失われ、自分と同じがさがさとした硬い皮膚へと変質していた。

「レオ……?」

「逃げるぞ。風の止んだ今がチャンスだ」

 砂竜は羽ばたくことはできない。グライダーのような翼でもって、風に乗って滑空を行い獲物を攫う。一見地を這う生き物達には逃げ場など無さそうに思えるがそうではない。

 まず飛ぶためには自分達の巨大な体を預けるための風が必要だ。そして彼らは滑空(とぶ)ことと引き換えに地を駆ける能力を失っていた。岩肌に掴まるための鉤爪型の足は、地に足を着けることを許さない。凪いでいるうちに砂漠まで戻れば留まる場所の無い砂竜は追ってくることができないのだ。

 二人は全速力で走り出した。再び「キシャァァァァァァァっ」と威嚇をこめた鳴声が二人の背中を震わせるが今は振り返る時間も惜しい。転がるように走る二人。

 走る。走る。走る。

 だんだんと生える岩が疎らになり象牙色の砂漠に近づいていく。

 もう少し……、二人の心に僅かに希望の炎が灯ったとき、

 ひゅっ――

 一陣の風がその希望を消し飛ばした。ごうっと音を立てて岩の間を熱い風が吹き抜ける。

 よりにもよって、二人の背を押す追い風として。

「くそっ!」

 咄嗟の判断だった。レオは繋いでいた手を力任せに引きアリスを一旦引き寄せた後、両手で思いっきり突き飛ばす。固い土の上を激しく転がる小さな体。天地の感覚すら失いながらも、アリスは確かに大きな質量を持ったものが、自分のすぐ傍を通り過ぎていくのを感じた。

「何……??」

 烈風が過ぎ去り、やっとアリスはぐらぐらする体を何とか腕で支えて起き上がった。

視界にのた打ち回る蛇のような赤い線が映る。

「えっ……?」

 視線が赤を辿っていく。

その先には襤褸切れのように転がる友達の姿があった。アリスの瞳が硝子玉のように色を薄める。きゅっと縮まった瞳孔がぶるぶると震えた。

「レ……オ…………?」

 周りの砂竜の姿はない。だが反響して低く轟く呻り声が、まだその存在を誇示している。再び風が吹く前に逃げなくては。アリスはレオに駆け寄る。

「レオ!レオ!レオッ……!」

 酷い状態だった。深く切り裂かれた左腕から、小さな体からこんなに流れるのかと疑ってしまうほどの血が出ている。

「アリ……ス……、早く……走……れ……」

 小さく発せられた声はレオの心からの願いだった。自分の我侭で危険な場所へ踏み入らせた友達を、せめて安全な場所へと逃がそうとする彼の必死な思い。

 痛いほどその想いはアリスへと伝わり、そしてそれが彼を決して見捨ててはいけないという選択へと誘う。

「大丈夫……絶対に助けるから!」

 アリスの脳裏に母の言葉が過ぎったが、それは瞬時に霧散した。

 アリスはいつも必死で押し留めていた。

 心にあるダムが決壊しないように。

 生活の中で起こる大小の感情の波を調整する方法を、幼い頃から執拗なまでに母に教え込まれていた。その特技を会得した後も、極寒の夜に同じ布団に包まってまどろむ時に、母は毎日アリスに同じことを言い聞かせ続けていた。

まじないのように、魔法のように、願いのように、誓いのように、そしてまるで呪いのように。

 ――心を溢れさせてはいけないのよ。

 思い出の中の若く美しい母親は、その時どんな表情をしていたのだろう。アリスにはどうしても思い出せない。

違う、思い出したくないのだ。誓いを破る、後ろめたさのせいで。

「レオ……」

 心の箍を外すのは、存外に簡単だった。たった二文字が今のアリスの全てだった。彼を失うことは、今の自分の全てを失うのと同じことだった。

「レオ!レオ!死なないでぇ!」

 目の奥が引き絞られるようにつんと痛くなる。

 抜けるような青空に、何の前触れもなく暗雲が立ち込めた。

 視界が霞み、瞳が熱を持って潤む。

 空気に湿気が混じる。得体のしれない、だが致命的な何かの訪れに、砂竜の声が怯えたものに変わっていく。

 カルマでたった一人瞬膜を持たない瞳は、集まる水分に湛え切れずあっけなく外界へとその一滴を落とした。

 世界へと、雨粒が落ちる。

枯れた荒野に吸い込まれて消える。次から次へと――それはすぐに豪雨に変わった。

 砂竜の声が悲鳴へと変わる。体の大部分を砂岩で構成された砂竜は、雨など浴びることを前提として進化していない。体に吸い込まれていく水分を体外に排出する術など無く、急激に増加した自重で翼は折れ、重みに耐えきれなかった体は地に落ちた。

 砂竜の断末魔がレオの意識を微かに揺り起こしたが、それはほんの少しの会話を許すのみだった。砂竜は知らぬ間に物言わぬ湿った土くれに変わり、アリスは次第に体温を失うレオの体に恐怖してさらに泣き叫んだ。

「ふえっ……うわぁあああぁぁぁん!」

 悲鳴とも取れるアリスの泣き声は、荒野に神子の産声として木霊する。

 どれくらい泣いただろう。雨も霧雨に変わった頃。レオは駆け付けた村人達に連れて行かれた。だがアリスのことはどう扱えばいいのかわからず、村人達は二年越しに現れた神子を遠巻きに取り囲むのみだった。アリスは誰にも触れられることなく涙を零し続けている。何時の間にか村人達のその目には、崇拝の意思が浮かんでいた。

 やがて、その輪を切り開いて、豪奢な服を着た一団がアリスの元へと恭しく進み出る。先頭はアリスとそう歳も変わらない、燃えるような赤い髪の少女だった。少女はアリスを穴が開きそうなほどじっと見つめた後、そっと彼の前で跪いた。

「再誕、お待ち申し上げておりました」

 そう言って持ち上げられた少女の表情のどこにも、待ちわびた様子など無かった。泣きすぎて熱に魘された頭のまま、アリスは少女が伸ばした手を取る。少女はゆっくりとアリスを抱きしめた。ふわふわしたドレスから溢れる甘い香の匂いに包まれながら、アリスはその匂いが沈静の意味を持つものだったとぼんやりと思い出していた。精神疾患者が使うほど強い鎮静剤を、なぜこんな歳も変わらない少女が使っているのだろう。

 体を離すと、相変わらず少女は表情を微塵も変えないままアリスを見つめかえす。密やかに、少女の薔薇色の唇が言葉を紡いだ。

――――さあ今日は祝祭だ。呪われた生を謳歌しろ。

 涙で腫れた目を細めてアリスは微笑んだ。たった九歳の少年がする、諦めきった、疲れきった逃亡者の表情は、とても神の子のものには見えなかった。


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