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星を待つ丘  作者: 安里優
第∞星:修羅の星
30/31

5-6 魔女

 戴冠の儀は、ほぼクライマックスを迎えていた。

 太陽が南中するまであと少し。参列する貴族たちの興奮も絶頂に近い。

 たぶん、この大広間で退屈しているのは、俺くらいのものだろう。


 いや、そうでもないか……。


 両脇に立つ黒ずくめの姿を、ちらと見やる。

 頭から足元まですっぽりと黒の布で覆った姿は、我が親族ながら不気味だ。

 左に立つ母のほうは、退屈しないまでも特に感動もないだろう。

 親父といっしょに何度も何度もこの儀式を見ているはずなのだし。


「集中なさい」


 低い声が黒い布の向こうから聞こえてきた。

 久方ぶりに聞く母の声は相変わらず若々しい。こちらも表情を変えずに答えてやる。


「申し訳ありませんな。あんたの夫君のおかげで、毒にやられてますもので」


 憤慨した様な気配が伝わってくる。

 己の息子に毒を盛っておいて、そんな態度を取られても困る。


「母様、無駄よ。兄様は、堪え性がないんですもの」


 右側からも辛辣な声が降ってくる。

 何をいらだっているのだろう、こいつは。

 これから星帝になろうというのに、不機嫌もあるまいに。

 そもそも、星帝となることはこの妹の悲願だったはずなのだ。


「昔から、儀式ごとには、私を身代わりにたてて、自分は遊び呆けていた様な人なんですから。いまさらどうしようも」

「そこらへんは、あの人譲りねえ……」


 母娘二人して俺のことを嘆いている。あきれ果てる光景だ。

 毒と人質で縛りつけておいてこういうことができてしまうのが、王族というものなのだろうか。

 俺は、広間で繰り広げられる光景のほうに目をやった。

 六人の大公がそれぞれに剣を持ち、人々の輪が形作る闘技場の中に進み出てきたところだった。


「で、腹はお決めになったのですか、兄様」

「しつこいぞ、お前」


 六つの剣が謁見の間の中央で高く掲げられ、その刃が交わった。

 澄んだ音が響き、刃の上に白銀の炎が走る。


「しつこくもなります。兄様は、帝位継承権第一の方ですから」

「たまたまだろ」


 六つの剣はからみあったまま、ゆっくりと回転する。

 大公たちが動くのではなく、剣そのものが生を得た様に。

 剣の檻が開き、再び打ち鳴らされた。


「たまたまではありません」


 母――竜鱗の女皇帝と呼ばれるおそろしい女が、厳然と言い放った。

 黒いケープの中で爪が伸びたような音がしたが、あれは錯覚だろうか。

 昔はよく刃の様にとがった爪で稽古をつけられたものだが。


「戦術ではジュベジュダラにはかないませんし、学問ではディークフォスに太刀打ちできません。政治手腕では、ほら、そこの妹君には到底対抗できやしませんからね。まあ、武術くらいは自慢してもいいかもしれませんが」

「我々は、個々の能力を評価しているわけではありませんよ」


 駄々っ子をあやすように、彼女は言う。

 実際のところ、母にとっては俺はいつまでたっても手のかかる幼子にすぎないのだろう。


「……にしても、やる気はその評価には含まれていない様な気がしますが」

「あなたは立派な為政者になれますよ。我が夫と同じくね」


 ベールの向こうで、母が微笑んでるのがなんとなく気配でわかった。

 妹がびくりと体を震わせる。なんともいたたまれない。


「ですから、何度も申した通り……」

「兄様」


 剣の花が開いた。六つの剣が花弁のように周囲の群衆に向けられる。

 スーラの六つの刃。六つの花弁。

 かつて八つあり、ひとつは永遠に失われ、ひとつは仲間から離反した。

 俺の言葉を鋭く遮って、妹が冷たい声を発する。冷たいくせに焼け火箸のように熱い。

 こういう声をだす時のこいつは、地雷のように危ない。

 背筋を冷たいものが走り抜けた。


「兄様はいい加減で、甘っちょろくて、女たらしでスーラの道の理のなにも身につけていないろくでなしです」

「ひどい言われ様だ」

「でも……」


 妹は言いよどんだ。六本の剣がささげられて、ゆらゆらと黒い頭が揺れた。


「でも、兄様はすごい。自分でもわかっていないくせに、才能だけは持っている。父様が期待するのは当然です」


 何を言っているのだろうか。また罵倒するための前フリかもしれない。

 俺よりも何倍も頑張り、何十倍も実績を積み重ねてきた妹だ。少しくらいの暴言は許すしかない。

 なにより俺は、こいつが親族のなかでもかなりお気に入りだった。良く喧嘩はするが。


「だから、ちゃんと務めを果たすべきです。己に課せられたものを」

「わかってるって。親父の身代わりはきちんとやるよ。心配するな」


 妹の顔が、とんでもない勢いでこちらを向いた。

 次いで怒った様にぷいとそっぽを向くその顔を、はらはらしながら見守るしかない。

 大公たちの中で、どれだけの人間が気づいてしまったろうか。


 六本の剣が再びばらばらになっていた。

 それぞれに独特の舞を踊る大公たちの動きにあわせて、それぞれの色の刃をきらめかせ空間を切り裂いていく。

 六人の大公、そして、その下に所属する何百もの王家。何千もの貴族。妹にかかれば、それらも掌で踊らされる。

 それは見ていて小気味いいほどに。


 軍務の面でも俺などよりよほど立派な戦果をあげているし、星帝となれば、よりその能力は発揮されるだろう。

 人々にとってすばらしい治世を彼女は作り上げてくれることだろう。

 その全てが、彼女自身の努力によることを、俺はよく知っている。

 兄弟のなかで珍しく年の近い俺たちは、二人で支え合う様にして育ってきたが、考えてみれば、いつも俺は面倒をかける側だった。

 遊び回り、酔っぱらって帰って来た朝にも、こいつは勉強し陰謀を操っていたのだから。


 努力が全て報われることなどありはしない。

 それは当然のことだ。

 けれど、こいつががんばったことの見返りくらいはあってもいい気がする。

 俺は、星帝などなるつもりはないし、継承権を放棄するだけでこいつが悲願を達成するというなら、いくらでも放棄しよう。

 そう思っていた。


「ところで、エイダは無事か?」

「さっき、あの人と接触したそうよ」

「そうですか。よかった」


 ほっと息をつく。妹を星帝にしてエイダを救う。

 俺にとっては全く選び間違いようのない選択だ。親父もなんでこんな条件を思いついたのやら。

 あとは解毒剤をどう手に入れるか、それだけだ。

 それさえ俺自身がクリアーできれば、エイダは取引になどのる必要もなくなる。


「あの女が兄様を選ばなかったら、どうなさるおつもり?」


 剣がひらめく。六人の大公がそれぞれに、他の五人を攻撃し始めたのだ。

 舞から攻撃への動きはごくごく自然で、いまだにみなは舞い踊っている様にも見える。

 しかし、その刃は膚のごく近くに達し、それを避ける大公たちの顔は真剣そのものだ。


「ん?……そうだなあ、それは考えてみたこともなかったな」


 唐突に尋ねられたせいで、つい本音をだしてしまう。

 しまったと思うが、もう遅い。


「あら、自信がおありってわけ。よほどたらしこんだのね」


 からかう様な声に、俺はいっそ不思議そうな視線を妹に向ける。

 真剣に言葉を選び、一つ一つ口にした。


「いや……。そういう問題じゃないよ。うん、違う。そうじゃないんだ」


 ふん、と鼻で笑われた。ふと、彼女の手があがり、その指に黒い瓶が現れた。


「解毒剤です」

「計都(けいと)。それはまだ出すときじゃないでしょう」


 母のたしなめるような声に、ひさしぶりに緊張の色をみた。

 となるとこれは本物だろう。俺は、大公たちのほうを眺めやるふりをするのも忘れて、玉座の固い肘あてを握った。


「父様には、あの女が兄様を選ぶ選ばないに関わらず、渡すよう命ぜられました」

「計都」

「ありゃ、親父も甘い」


 俺の呟きと、母の叱咤が重なる。

 あまりの声に驚いた様に側衆がざわつくが、それも大公たちの剣戟の響きに吸収されていく。


「甘すぎます」


 解毒剤の瓶が、黒い布の向こうに消えた。

 計都がこちらをくるりと向いた。


「あの女が兄様を選ぼうが選ぶまいが、私は兄様にこれを渡すつもりはありません」

「計都?」


 母の疑念に構わず、彼女は俺に向けて言葉の刃をふらせる。


「兄様、星帝におなりなさい。そうしないのなら、私はこの瓶を破棄します」

「何ふざけてんだ、お前」


 妹は、歌う様に言葉をつむぐ。


「解毒剤のデータは、全て改竄してあります。製造工場は部下が押さえました。学者は抱き込みましたし、無理なものには監視をつけて、私が指一本動かせば全員暗殺されます。兄様には残された道はありません」


 こいつがないと断言するのだったら、解毒剤は本当にもうどこにもないのだろう。

 親父がデータを持っているとは思うが、エイダに奪取されても困らない様、時限式かなにかにしているはずだ。

 そうなると、生のデータはもちろん、解毒剤そのものもどこにもありはしないということだ。この女が持つそれ以外。


「冗談がきついな。お前が星帝になろうとするときに」

「いいえ、私は一度も星帝の玉座など望んだことはありません。ええ、もちろん、想像を弄んだことはありますが、それは本気とは言いませんよね。私の望みはただ一つ。兄様が、輝く冠を抱き、この銀河を統治なさること!」


 計都の言葉は段々と熱を帯び、ついにベールを自らはぎとった。

 隠されていた美貌が露わになる。ハシバミ色の瞳が、強く俺を貫いた。


「馬鹿を……言うな」


 俺の反論も頼りない。妹が本気で言っているのだと、どこかでわかっていた。

 母ももはや言葉もなく、狂喜の表情を浮かべる娘を見つめている。


「いいえ、いいえ。兄様こそ、この宇宙を統べるにふさわしい人物。いえ、兄様以外に誰も、この宇宙を統べることなど許されませぬ。兄様は父様より、母様より、そして、なにより私をはじめとする皇族全てより能力がおありだ。能力も、才能も、その気力さえも!

 ええ。兄様こそ、あなたこそ、帝王にふさわしい。銀河連邦なんぞという成り上がりの賤民どものつくった幻の秩序を打ち砕き、汚らわしいデストルドーを焼き滅ぼし、全スーラを糾合して、この銀河を手に入れるのです。

 マゼラン大銀河に旅立った『さまよえるユダヤ人』すら観測できるほどの大船団をあなたのためにしたてあげましょう。あらゆる宇宙に、あらゆる銀河に、あなたの威光をとどろかせましょう。

 父様も、母様も追い落とし、あらゆる権力と暴力の王として、エロスとタナトスの主として、君臨しましょうぞ。

 さあ、兄様ご決断を。

 私はあらゆるものを兄様にささげます。兄様を補佐し、兄様を支え、兄様を教え、兄様を導き、兄様を愛するため、そのために私はいるのです。存在できるのです。

 私と共に、この全銀河を手中に!」


 その時の俺の顔は、さぞ間抜けだったことだろう。

 計都はゆっくりとベールを下ろし、再び俺の脇に収まった。先程のセリフが嘘のように、三人の間に沈黙が落ちた。

 けれど。


 けれど、確かに、そこには先程までとは決定的に違う緊張感が漂っていた。もはや母は攻撃態勢を隠そうともしていない。

 彼女が俺の解毒剤を持ってさえいなければ、一刀の下に切り捨てていただろう。

 おそろしいことに、この女は生身ですらそれだけの攻撃力を秘めているのだ。


 剣舞は最後の詰めに入っている。勝ち残ったのは二人の大公。

 ヤクシャとガンダルの両大公が、他の四人がつくった刃の檻の中で華麗に舞っている。

 いや、あれはもはや舞ではない。二人の剣は生き物のようにからみあい、お互いの血を吸い、おたがいの肉を断ち切ろうとしている。

 彼らを囲む他の四人の姿を見れば、衣服ははぎとられ、各所から血を流し、立つのもやっとのものもいる。

 彼らは、国の威信をかけて戦い、そして敗れたいま、勝者を讃えているのだ。


 剣がひらめく。ぶつかりあう刃が火花をちらす。

 二つの刀身は、濡れ光り、体自体が刃と化したかのように、彼らは闘う。


 シュ……ア……。


 なにかが聞こえた。

 けれど、あまりに小さなその声を、俺は妄想だと思った。

 白刃が打ち合わされ、湾曲した刃が直刀を受け止める。ねばるように動いた刃でからめとられようとした直刀が、手首の動きで戻される。

 はねあがった刀が、四つの刃でつくられた檻にぶつかって、甲高い音をたてた。


 シュア……。


 確かに聞こえた。頬がひきつる。俺は、ぎゅっと拳をにぎりしめた。


 ……シュア……。


 エイダの存在を強く感じる。

 彼女の意識が、どこからか俺に接触してきている。


 そう……わた……エイ……。


 刃がはねた。一方の刀が、他方をはじきとばしたのだ。

 ぽーんと空中高くあがった刃は、床に落ちると一度だけ跳ね、からんからんと音をたてた。


 シュ……わた……大丈夫……あな……たを……。


 識空間を通じたアクセスとは微妙に異なるそれを、俺はいとおしむ様に感じる。

 エイダ。待っていてくれ。すぐにいく。

 心の中でそう呼びかけた。はたしてそれが伝わっているのかどうかはわからない。けれど、もはやどうあろうと、俺の心は決まっていた。


 計都の望みが戴冠でないのなら、何を遠慮することもない。

 妹の望みをけしてかなえてやれぬのは悔しくもあるが、あんな馬鹿なことに同調するつもりはさらさらなかった。

 しずしずと、勝者であるヤクシャの大公が剣を掲げ持って近づいてきた。

 両手で支えられ頭上高く持ち上げられた直刀は、血も拭き取られ、青い鋼の輝きを宿している。


「大儀」


 俺の前に来たところで膝を落とし、剣を差し出した大公に一声かける。

 ぐっと柄を握ると、彼は優雅な動作で後退した。

 傷が痛むのか、左足をひきずっているものの、それは文句のつけようのないきれいな所作だった。

 俺は剣を上に掲げた。刃がきらきらと天井の明かりを反射する。

 そして、自分に納得させるように一つ頷いた。


 妹がゆっくりと俺の前に進み出る。

 大公たちの勝者の剣で聖別されることが、星帝の戴冠にとっては最も重要な儀礼だ。

 それは、星帝こそがスーラのすべての力を握ることのあからさまな象徴だった。

 ひざまずいた妹の肩に、ゆっくりとその刀を押し当てる。

 彼女にだけ聞こえる声で、小さく囁く。


「おい、薬みせろ」

「兄様、それでは」

「とにかく、見せろ」


 渋々と、彼女がすそから薬をとりだす。右手の上にのった薬瓶が、黒く目を射た。


「ごめんな、計都」


 腕を素直に落とすだけの何気ない動作で、俺は彼女の右腕を切りおとしていた。

 すとんと落ちる右腕を床に落ちる寸前で受け止め、胸に抱き寄せる。


「羅喉(らごう)!」

「母上っ、妹よ! 俺は、俺でいかせてもらうっ」


 妹の右腕をしっかり握りしめ、大声で叫んでから、死者の座の上に飛び上がった。呆然とする何千もの黒ずくめどもを見はるかし、嘲弄する様に叫ぶ。


「わりぃ。文句は親父とここにいる計都によろしく。俺はふけさせてもらうわ」


 ひらりと舞い降りて、脱兎の勢いで駆け出す。

 刃を振り回す俺の姿に、誰もが我先に逃げていく。

 海を割るいにしえの伝説の人物のごとく人の波を割り裂きながら、俺は逃げた。ただ、なにもかもから逃げた。

 後ろから、声だけが追いかけてきた。


「兄様! 兄様! かえってきて、私の兄様! 私の! 私のおおおお」


 ちくりと胸がいたんだ気がしたが、足を止めるほどではなかった。



          †



 私は……誰?

 わたしは、わたし、おれ、あたし、ぼく……いえ……いえ……。

 電撃が流れたようなショックで私は覚醒した。いや、正確には、その姿が改めてその空間に現出したと言ったほうがいいだろう。

 先程まで座っていた通りの場所にしっかり腰かけ、肩にはもう一人の私の右腕が労るようにのせられていた。


 ぱらぱらと体表が崩れていきそうになるのを、意識をひきしめて食い止める。

 優しく肩にのった手をギュッとにぎりしめた。凍結図書館に溶け込むような事態はもうごめんだ。

 はぁはぁと荒い息をつき、衣服まで再構築する。

 『自分』を形作る情報をとにかくまとめ続けることが、意識を沈める特効薬だった。

 目の前では、聖院が俯いたままで固まっている。


「君はパンドラの箱をあけたわけだ」

「ごあいにく様、私も、この私も盲目ではないの」


 苦しい息の中、言葉をつむぐ。

 私がちらりと見やった目に答えて、私が生み出した私はにこやかに笑ってくれた。

 恐怖と吐き気が渦巻く。左手の手首がひどくうずいた。


「あれは……何? デストルドー……いったい……」

「みた通りさ」

「そう、みた通りらしいわ、残念ながら」


 二人が言うのを、呆然と聞く。

 いくつもの光景が、いくつもの意識が、いくつもの声が私の中で渦巻いて、あるものは私を責め、あるものは私を包みこんでくれた。

 ただ、どの自我の残響も、私という自己を浸食することはもはやできなかった。


「公表しないつもりなのね」


 ふんと鼻で笑われた。

 鵲は疲れたように足を投げ出していた。こんなに冷静さを失った聖院を見た者も少ないだろう。


「君なら公表するかね、エイダ・リィプル君」


 私は答えられなかった。

 もう一人の私が、気持ちを代弁するかのように呟いた。


「無理だけど、しなきゃいけないこともあるわ」

「死ぬために存在するやつらだぞ? わかりあうことも、和解も、棲み分けもできやしない」


 異質すぎるのはわかっている。

 ただ、放っておくことはできないのだろうか。なにも、隠してまで戦い続けることはない。

 それに、隠し続けることが、闘い続けることが、解決になるわけがないではないか。


「二千年、か」


 彼が独り言のように呟いた。


「二千年前の人類が君らのようなひとたちばかりなら、もっと違ったろう」


 二千年?

 私は驚きにつつまれた。


「デストルドーのために星国を崩壊させたって言うの!」


 彼は答えない。

 しかし、核心に切り込んでいることは明らかだった。


「人はね」


 不意に、もう一人の私が、私の腰から二つの銃を抜き取った。片手でやるとは器用なことだ。

 聖院は、どこかあらぬほうを向いている。きっと気づいていないだろう。

 何をするつもり?

 声に出さずに、右手を握る力で伝えたつもりだが、彼女はなにも言ってくれない。


「人は、広がらなければならない。多様性こそが、人の生き抜く力なのだから。広がらなければ、収束してしまう。そして、どこにも行き場のない人々は生み出され続ける。人は、いかなる政体にも、いかなる思想にも、いかなる民族にも、いかなる宗教にも統一されてはならないんだ」

「ずいぶんと……アナーキーな理想主義ね」


 彼は、ふと私のほうをむいた。その顔に浮かんだ寂しげな笑みが、私の心を突き刺す。


「約束、だから」


 その言葉を最後に、沈黙が支配した。

 じりじりと時間が過ぎ、もう一人の私が、護る様に鵲と私の間に体をねじりこんだ。


「残念だ。残念だよ、エイダ君」


 その言葉が何を意味するか、私にはよく分かっていた。

 だから……。


「そうはいかない」


 彼女がそう呟いた瞬間、私は逃げ出した。

 何もかも捨て、何もかも振り払いながら、意識を回収しようとする。

 追いかけようとする聖院に論理爆弾をつきつけるもう一人の私の姿だけが、意識に残った。


「さようなら……わたし……」


 どこかで、そんな声が聞こえた気がした。



          †



「無駄だ。本体も逃げられはしないよ」


 エイダが逃げ出すのを背中に感じながら、私は銃を彼につきつける。


「さようなら」


 口の中で呟いた声は、誰かに届いたろうか。


「無駄だと言ってるだろう」


 鬱陶しげに銃を押しやりながら、彼が言う。

 けれど、私は改めてその額に銃をつきつけた。


「そうかしら?」


 言った途端、ぐらりと空間が揺れた。完全無欠の情報空間が。

 ありえるはずのない揺れだった。ここが揺れるということは、凍結図書館そのものが破壊されているということだ。


「なんだっ?」


 慌てる聖院に、私は笑みを贈った。

 きっと、短い生涯で最高の笑みだったろう。


「わからない? 分身は私一人ではなかったのよ」


 人の身に分裂した神の魂は、集い、合一して、再び神となる。

 神ならざる身には全ての合一は叶わずとも、我ら、再び集いて、神への階梯を踏み出さん。

 一人を戻せればいいのだ。

 たった一人。

 真実を知り、シュアを思う女を一人。


「……魔女めっ」

「サイレンを鳴らすのは、いつも魔女よ」


 私は言って、引き金を絞った。

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