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白銀の豚姫  作者: 空暮
3/11

1-3

 前章の続きです。今回の更新はここまでとなります。

 家の後方を、三方向から一際高い木に乗って見張っている男たち。彼らは家屋の下から駆け出してきた永青に度肝を抜かれた。それは、彼の出現に驚かされたからではない。誇り高き竜人族が、口に刀を咥えて四足で疾走していたからだった。

 彼の向かう先は己たちがいる森の茂み。それが分かり、番えていた矢を神速で放つ。三人の連携は矢の行き先にまで現れており、回避した先まで予測して放たれていた。

 だが、その三本の矢は意外なもので遮られた。男の尾だ。彼は己の尻尾を矢楯にする事で己の身を守った。

 本来ならば竜人族の頑丈な鱗と筋肉の合間を縫って突き刺さるその矢も、予期せぬ尾への着弾で矢は突き抜ける事無く肉に深々と刺さり、止まった。

 追撃しようとするも、姿は既に無く。永青はまんまと森へと逃げ込んだ。男たちは互いに緊張した顔で見つめ合う。

 エルフたちは、森の中での闘いに長けている。森の中でなら一人で十人以上殺す自信がある。だが、相手は「闘う為に生まれてきた」と称される竜人族であり、近距離で相対したならばエルフと雖も危ない。

 だが。ここで彼らは更に二つのミスを犯した。一つ目は「森に居る自分たちは最も強い」と過信したこと。二つ目は相手を「たかが手負いの竜人族の男」と過小評価を下したこと。なるほど、確かに森に居て、連携が取れる彼らは強いだろう。だが、彼らが殺そうとしている竜人はただの竜人ではなかった。彼の名は守原永青。「火が吹けない」不具さえ無ければ、家督を継いでいたかもしれない益荒男。ほら、こうしている間にも―――

 「――え?」

 男が一人、木から引き摺り下ろされた。彼が最後に見たのは巨大な、己の顔をわし掴みにする手だった。

 一瞬の出来事で、残された二人は気付くのに数秒掛かった。その数秒は、永青にとって男の首をねじ切るには充分過ぎる時間だった。

 異変に気付いた二人が互いに目を合わせたまま気配を探る。お互いに存在を確認し続けなければこの森に飲まれてしまう気がしたからだ。

 耳を澄ませ、神経を研ぎ澄まし、身体全体で森を感じようとする。静かな夜、鳥すら鳴かぬ森、月に雲が掛かり、そしてまた顔を出す。そして再び照らす月明かりの下、一人は目を見開いて驚き、もう一人はその様子に訝しげな顔をした。

 驚いた男はすぐさま弓を構え、仲間に矢を向ける。矢を向けられた男はその行動をおかしなモノを見るように見つめ……やっと気付いた。木々に掛かる己の影が、異様なほどに膨らんでいる事に。

 永遠とも思われた静寂は、空を切り裂く矢音によって破られた。仲間ごと穿て、と放たれた矢は思惑通りエルフの身体を突き抜けて、背後に立つ永青にまで届いた――ように思えた。彼は矢を、刀の腹で受けていた。

 ぐらり、と胸を穿たれたエルフの死体は木から落ちていく。永青と男との距離は家屋三件分。その距離に安心感を覚えたのか、男は次の矢を筒から引き抜き、永青を射ろうとしたが……時既に遅し。永青は鞘から抜いた真剣を、身を捻って振り被っていた。

 あそこで剣を振って何の意味が、エルフの男はそう鼻で笑った。だが、永青の目はエルフだけを見据えていた。ゾクリ、と魂を射抜く金色の瞳。それを男は、見てしまった。

 はち切れそうに膨らんでいた力は、ついに決壊した。竜人族の並外れた膂力によって引き絞られた刀は、雄叫びを上げて闇を切り裂き、飛ぶ。

 廻る廻る、刀は廻る。雑多な枝葉を蹴散らして、月明かりに照らされて。その迅さと凄まじさの前では、男の弓など児戯に等しい。

 「…………あっ」

 男の口から間の抜けた声が洩れる。彼の喉と胸を切り裂いた刀は、墓標のように柄を天に向かって刺さっていた。

 何故、と掠れ逝く意識の中で男は考える。何故、どうして、自分の矢のほうが速いのに。ただ弓に番えて射てばいいのに、と。

 その問いに答えるものはなく、男は墜ちていった。



 「――ん?」

 男は遠くで何かが唸るような音を耳にし、立ち止まった。その様子に、他の三人も不思議そうに歩を止める。

 「どうした?」

 「いや、何か聞こえた気がしたんだが……聞こえたか?」

 問われた男は首を傾げ、隣に居た者に目をやる。

 「俺は何も……お前は?」

 「どうせ鳥かなんかだろ。お前はガキの頃から臆病だからな」

 はははっ、と三人は笑う。馬鹿にされた一人は気分を害したようで、眉を顰めて睨む。

 「これは俺たちの一世一代の仕事だ。何か間違えがあったら長になんて申し開きする?」

 「分かった分かった、ムキになるなよ―――うん?」

 にやけ、追い払うように手をひらつかせる男は、茂る畑の中で何かが動くのを見た。それは赤く濡れた布団のようであったが、ズル……ズル……と確かに動いていた。

 「おいお前ら、ちょっと来い」

 男たちは畑に割って入ると、矢の突き刺さった布団を剥いだ。そこには、怯えた顔の純がいた。

 「ひ……っ!」

 髪の先まで血を浴びた純は、両手を握り締めて縮こまる。その目には恐怖と絶望が色濃く映り、自分を見下している男四人を落ち着き無く見回していた。

 「あー、ったく。他の奴等が取り逃がしたんだな」

 面倒そうに矢筒から矢を引き抜き、男はぼやく。

 「俺たちがやらなくても山にいる奴が殺すだろ。ほっとけよ」

 臆病と馬鹿にされた男がそう言うと、後ろに立っていた男が矢を番えて前に出た。彼はぼやいていた男をも押し退けて、純の前に立つ。

 「俺はオークが嫌いなんだ、何よりもな。だから俺にやらせろ。苦しめて、苦しめて苦しめて苦しみ抜かせて殺してやる。誰も手を出すなよ」

 言い終わるとすぐさま純の手を地面に縫い付けた。とっ、と柔らかい音と裏腹に純の悲鳴は掻き毟るように鋭かった。

 「いいぞ、もっと泣け。もっと苦しめ」

 のたうつ彼女は右手を穿たれ、逃げる事も出来ない。顔を土と涙と血で汚す姿を、何処か満足げに眺めている男は続けて右手にもう一本、矢を射った。

 「……う。俺たちは表で待ってるからな」

 付き合いきれない、と三人は茂った青葉を掻き分けて畑から出てくる。先頭に立っていた男がおどけて後ろに振り向き、悪態を吐く。

 「あいつ、やっぱどうかしてるぜ。病気だ、俺たち気高いエルフとは思えん」

 「――――――お前もな」

 当然笑いが返って来ると思っていた彼は、聞き覚えのない声が背後からしたのを不審に思ったが……。

 「どうし――えっ?」

 己が臆病と罵った男が絶句して自分を指差している。それが何故か、縦にずれて見える。目の調子が悪いのか、と目を擦ろうとするも手が動かない。いや、手だけじゃない。全身が動かない! それもそのはず、何故なら彼は――脳天から両断されていたのだから。

 「あっ、こ、こい……つ……?」

 次いで臆病と馬鹿にされていたエルフに銀閃が走った。傾いた月の如く煌く太刀筋。それだけで男の腹が裂け、中身が飛び散った。

 「おい! 早く助けに……!」

 三人目は純を痛ぶっているであろう男に助けを求めるも、自分の右目に刀の切っ先が突き刺さるのを左目で見た。そして捻られ脳を掻き混ぜられ、あっけなく絶命した。

 ツン、と鼻を突く臓腑の臭い。それは何処か青臭く感じられた。その臭いすら置き去りにする迅さで奔る男は――永青。

 彼は前へ前へと身体を斬り込む様にして奔る。その行き先は純の腹を執拗に蹴り続けているエルフ。

 男は純の手に四本の矢を撃ち込み、楽しそうに腹を蹴る。その愉悦に酔いしれて、周囲で何が起きているのか知る事が出来なかった。異変に気付いたのは、怒り狂う化鳥の雄叫びが木霊した時だった。

 「チェストォォォォッ!!」

 目視敵わぬ神速の煌きは、花を手折るように、するりと男の首を刎ねた。月夜に舞う首はくるりと空を往き、そして茂みへと消えた。

 返り血に誰かの肉片。それを身に纏う姿は紛れもなく戦場の悪鬼、神代の武神。守原永青は其処にいた。

 「すまない。遅くなった」

 刀を濡らす血の滴を払い、地面に突き刺すと純の手を縫い付けていた矢を、優しくへし折った。

 「……うわ゛あああああああああああああーっ!!」

 安心したのか堰を切ったように溢れ出す悲鳴と涙。永青はゆっくりと矢を地面から引っ張ると、純に「堪えろ」と告げて右手から引き抜いた。

 彼女の小さな右手には痛々しい矢傷が残る。どくどくと流れる血は赤黒く、永青の手をも濡らした。彼は自分の帯を外すと純の右手に巻き付け、止血を施す。

 「お母さんが……! お母さん……!!」

 左手で布団を指差す彼女に、何かを察したのか永青は何度も何度も頷き、純の頭を撫でる。そして落ち着くのを見計らって淡々と口を開いた。

 「……村に世話になった分、恩を返そうと思ったが……もう生きている者はいないらしい。大通りに賊が集まっている。あれは衝動的なものではなく、計画的なものだ。……せめてお前だけでも助けたい、分かったか? 分かったら立て」

 涙を流したまま純はぼんやりと頷き、立ち上がった。さすが我が弟子、と少し乱暴に頭を撫でると、永青は純を小脇に抱え、片手に刀を取ると力強く走り始めた。向かう先は山を三つ越えた先の村、果たして彼らは辿り着けるのか。


 

 「……なるほど。確かに第三部隊は全滅のようですね。可哀想に……」

 部下に死体を集めさせると、道に一人ずつ並べた。その死体はどれも凄まじい傷が残されていた。その変わり果てた仲間の姿に、長は涙を流して死を悼む。 

 「村の死体は、以前偵察した時の村民の数と同じですか?」

 「いえ、それが……。どうもオークの小娘が一人いなくなっているようです」

 長は流れる涙をそのまま、訝しげな顔で横に控える者を見つめ、続きを促す。

 「本来、その第三部隊が任せられた地区には畑と廃屋があるのみで、誰もいなかったはずなのですが……矢が減っています。調べさせたところ、廃屋は改装され、誰かが住んでいたようです。そこで交戦の跡が見受けられます。役立たずの第三部隊の事ですから、報告もせずに戦闘を行なったのでしょう」

 「……死人を役立たずだなんて貶してはいけませんよ。出来は悪くとも仲間だったのだから。逃げた先は分かっていますか?」

 既に涙は止まり、凍てつき。瞳には氷のような冷たさが宿っていた。

 「はい。他の部隊と接触していないので、そのまま山へ逃げ込んだようです。このまま山を越えるつもりなのでしょう。そちらにも数人張ってはいますが……」

 「私たちも往きましょう。敵を討ち、同胞の魂を弔いましょう、えぇ」

 そして永青たちを追い掛ける黒い影たちが、死人の村から山へと飛び込んでいく。燃える怒りをひた隠し、目に暗い炎を滲ませながら。



 「そうか、お前の母上は立派だったな」

 山を駆け登りながら俺は、純がどのように逃げ出したのか聞いていた。たどたどしい話から、どうやら彼女の母親は純に布団を被せ、自らの身体をも盾として矢を防いだ事が分かった。

 (俺の母は、どうするだろう……)

 何の役にも立たない呟きが頭に浮かんだが、すぐさま打ち消した。今考えるべきはこの修羅場からの脱出。不要な事は考えるべきではない。

 近いうち、あの者たちの死体が発見されるだろう。それはどうしようもない。死体を隠すほどの時間は無かった、ならばすぐに離脱するのが肝要だ。迷っている暇は無い。

 あの者たちは何なのだろう。男だけではなく女や子も殺すとは、一介の賊とは思えない。あれは何かしらの目的――それが虐殺か窃盗かは預かり知らぬ――があって行動している。ではそれは……何だ? この村に何があるというのだろうか。

 「ひぐっ、えぐ……っ」

 純はしゃくりを上げている。まさかこのような幼子にまで手を出すとは、今まで幾つかの戦地を目の当たりにしたが、これほどまでに最悪で最低なものは無かった。

 果たして追撃はしてくるだろうか。いや、希望的な観測はするな。無抵抗な者すら殺した奴らだ、必ず追ってくる。森の中では奴らは人狼より迅い、出来るだけ距離を離さなければ――

 「――――ガッ!?」

 

 背に、矢が刺さった。


 焼き鏝を内臓に押し付けられたような激痛が背から腹部へ拡がっていく。衝撃にたたらを踏み、強かに肩を木にぶつけた。

 「どうしたの……? 何か――ふぎゅ!?」

 横に抱えていた純を前に抱き、両腕と身体で覆うようにして隠す。

 「だい、じょうぶ……だ。委細、問題無い……!」

 早くここから離れなければ第二撃が確実に命を奪うだろう。この一撃は動きを止めるためのもの。早く動かなければ……!

 「うおおおおおおおおおっ!!」

 叫び、心を昂らせ、強引に足を動かす。背を木々で隠すように、立ち止まらないように、動きが単調にならないように、己に言い聞かせて必死に足を動かす。

 (迂闊、だった……! まさか森の中に伏兵がいたとは……!)

 間抜けな自分を呪う。考えれば分かった事だろう。そうでなくとも、気を張ってさえいれば殺気を感じられたはずだ。なのに、戦場で己の母の事など考えるなど……!

 「全く、足りない体には足りない頭がお似合いというわけか……」

 自嘲するも状況は芳しくない。いや、それどころかどんどん悪くなる。後ろから追ってくる人数は最初こそ一人だった。走っているうちに一人が二人、二人が四人と、着々と増えていき、今となっては何人いるか分からなくなってしまった。

 無理に身体を動かしたためか、血がせり上がって口から溢れ出す。その場で四つん這いになりたくなる衝動を抑え込み、走る。流れ出した血が胸の中の純に掛かってしまうが仕方が無い、我慢してもらおう。

 「え……嘘っ、血が、血が出て――」

 「生きていれば血は出る! 心配するな!」

 ひゅん、と空を切る矢が、盾にしていた尾に刺さった。ザザッ、ザザッ、と森をざわつかせる影たち。どうやらエルフたちは木々の上を飛んで追ってきているらしい。その音は純を怯えさせる。

 時折放たれる矢は、木に刺さることもあれば尾に刺さることもある。中には数本ほど、背に刺さったものもあった。それでも走った、走り続けた。全ては胸の中にいる子のために、稽古と称して数度遊んでやった子のために。

 (この子を護りたい……それが俺の、守原永青の、まぎれもない本心だ!)

 己に降り注ぐ矢は以ってしても、その意地と願いは折れる事はない。背に刺さろうとも、肩に刺さろうとも、足に腕に尻に、その想いさえあれば倒れる事はない。

 「よし……!」

 森が開け、木々が少なくなってきた。これでエルフたちも地を駆けるしかない。それならば俺のほうが速い。

 だが、それも間違いだった。俺はただ、知らぬ間にこの場所へ誘導されていただけであった。辿り着いた場所……そこは、風吹き荒ぶ――――崖だった。

 山にぽっかりと口を開く、奈落の崖。眼下には川が流れている、が。

 「高すぎる……!」

 そして対岸までは遠過ぎる。これでは袋の鼠と変わらない。急いで引き返そうとするも、既に遅し。十人以上のエルフが己に弓を引き絞り、狙いを定めていた。

 扇状に囲まれ、ある者は地に膝を着け、ある者は枝の上から俺を狙っている。彼らは服も武装も統一され、俺に向ける殺意すら統一されていた。

 「竜人族というのは噂に違わず頑丈ですね。百聞は一見に如かず、驚かされましたよ」

 微笑を湛えた美青年が森の奥から現れた。彼の手にも弓が握られており、その長耳からエルフだという事が分かる。

 「貴方は何本の矢をその身に受けたかご存知ですか? ……七本ですよ。貴方に矢を突き立てられなかった者達の弔いのため、矢を射らせてもらいました」

 言葉と表情とは裏腹、全身を刺すような雰囲気が彼から発せられていた。これは……そう、悪意だ。細められている目は、一見すると笑っているように見えるが、その実はまるで虫のように慈悲も憐憫も持ち合わせていない無機質なものだ。

 「弔いも終わったのならば我らを見逃してもらえないだろうか。せめて、この子だけは」

 その悪意から純を遮るように、一段と強く彼女を抱き締める。だが、俺の言葉は彼の憎悪を煽るだけのものだったらしい。

 「それは出来ない相談です。死んだ七人の為に黄泉路の案内をしてもらいたいのです。貴方のようなモノノフに同行してもらえたら、さぞかし安全でしょう? その子は……まぁ、おまけです。……どうです? 貴方のしてきた事が全て無益な物に成り下がった感想は。痛みに耐えた事も、その童を助けた事も、ここまで逃げてきた事も、そして今この瞬間まで生きてきた事も! 全て無駄だったのですよ」

 やけに流暢に話す彼は、大げさに手を広げている。まるで何かの役を演じているようだ。

 「……エルフというのは感情が希薄で、もっと大局的な考え方をするものだと思っていたが噂とは随分と違うものだな。百聞は一見に如かず、驚かされた」

 俺を悔しがらせようと発せられた挑発に、挑発で返す。ただそれだけで美青年の化けの皮は――

 「何と、言いましたか?」

 ――剥がれた。そこには、その美しい顔には似つかわしくない、怒りに震える老人の醜さが浮き彫りになっていた。

 「具体的に言ってもらいたい。俺の何がどう無益なものになったのか。何も為されていないのに、成し遂げた気になっている浅学なエルフには答えられないか?」

 頬を歪ませ、目を見開いたその顔を、美しいと言う者はいないだろう。無粋に無粋で返すのは無粋の極み、そう分かっていても言い返さずにはいられなかった。

 「――――放てッ!!」

 だろうな、と予期していたため身体はすんなりと動く。身を翻し、純を抱いたまま崖から飛び降りる。さらに二桁ほどの矢が背に刺さったが彼女にさえ当たらなければ問題無い。俺は、真っ逆様に墜ちていき、着水と同時に意識を失った。



 「どうします、追いましょうか?」

 部下に問われた長は、怒りを静めようと飛沫の立ったあたりを狙って矢を放っている。

 「……いえ、必要ありません。いくら竜人族と言ってもこの高さからでは助からないでしょう。それに、あの矢には毒が塗ってあります。生き永らえていたとしても夜明けを待たずして逝く、死は確実です」

 やっと落ち着いたのか、元の涼しげな笑みを取り戻した長は、同胞を連れて村へと戻っていった。この選択が、後々に大きな禍根を残すと知らずに――



 目が覚めたのは、寒さを感じたためでもなく月明かりが眩しいからでも無かった。ただ、「起きなければ」と思ったからだった。

 純は次第に覚醒する意識の中で、弱々しく響く心音を聞いた。それは、己を護ってくれた永青のものだった。

 「えーせー……?」

 彼らは半身を水に浸かったまま、何処とも知れぬ岸に辿り着いていた。周囲を囲む黒い森と、やけに明るく白い月。音も風も無く、時が止まっているようで、それが純にはどうしようもなく寂しく感じられた。

 寂しさを紛らわすように、純は起き上がる。濡れた髪が永青の胸板から剥がれ、滴が垂れた。

 「やっと、起きたか」

 心音とは対照的に、永青の声は力強い。その声に純は喜び、彼の顔を覗き込む。青い鱗が月明かりを浴びて蒼白に変わっているが、表情はいつものように巌にも似た無愛想、だが口元は薄く笑みを作っていた。

 「……水練は餓鬼の時分から苦手でな。ここまで来るのに酷く骨を折った」

 「骨!? ど、どこの――」

 「――比喩だ、馬鹿者。お前には勉学も施す必要があるようだ。……しかし、疲れた」

 焦った純の頭を軽く小突くと、永青は空を眺める。その目はとても、とても遠くを睨みつけていた。

 仰向けから一向に体勢を変えない永青を不審に思った純は、ついに見てしまった――彼の背中から流れ出す夥しい血を。血は彼の影のように礫を黒く塗り潰し、清水を朱に濁らせる。

 助からない、一目で純は分かってしまった。また涙が零れ落ちる。その小さな手で傷口を塞ごうと、永青の背中へ手を回そうとする。だが――

 「――しゃんとしろ! 俺に残された時間は短い、いいか、よく聞くんだ」

 彼に諌められ、純は動きを止めて身体を震わせた。歯を食い縛り、いやいやと首を振る。それでも、永青は頑として厳しい表情を崩さない。

 「生きていくには、金が必要だ。それも、お前のような天涯孤独の者は余計に、な。……そこに刀が落ちている、それを売れ。鞘こそ無いが、充分に業物だ。それと……これだ」

 震える手で永青が取り出したのは、美しい小柄だった。それには眠る臥竜が彫られている。それを純に押し付け、手に取らせた。彼女は小柄ごと、彼の大きな手を握り締める。

 「俺の守り刀だ。これも売れ。……泣くな、胸を張れ。お前はこれから一人で生きていくんだ」

 ぼろぼろ流れる涙が、永青の冷たい体へ零れる。ついに純はこらえ切れず、大声でむせび泣き始めた。次は永青も諌めることなく、ただ己の手を握る童女を見つめる。その目にはどうしようもない悔しさと哀しさ、そして僅かな優しさが滲んでいた。

 「いいか、生きろ。生きるんだ。何があっても死んだりするな。もし無様に泣いて黄泉に来たら、殴ってでも追い返すぞ」

 永青の瞳から光が失われつつある。純はそれが悲しくて悲しくて、なのに何も出来ない自分が悲しくて、ただ泣く事しか出来なかった。祈るように強く握った手からは、再び血が流れ始めた。彼女の血は永青の手を伝って、落ちていく。

 「生の苦しみに対し、死とはこんなにもあっけないものか。これではあまりに甲斐が無い。せめて、俺の最後の願いくらいは……叶え…………」

 振り絞るように吐き出された言葉は、闇へと呑まれていった。力の抜けた腕を、純は放せなかった。放してしまったら、永青の全てが終わってしまうと思ったから。彼女は夜明けまで、己を守り抜いた永青の手を握り続けた。



 果たして自分の力量は上がっているのか、むしろ下がっているのか。自分では分かりかねます。直す点などがありましたら教えてくださるとありがたいです。

 次回更新は、いつものように「出来るだけ早く」となります。

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