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割と短めの作品となる予定です。早め早めに更新していきたい……です、はい。
ガヤガヤと騒がしい大通り。大声でパンを売る女、疲れて座り込む人夫、メモを片手に走り行く少年、誰しもが己の望むように生きているように見える。
「おいコラァ! てめぇ、オレの靴を踏んでくれたなァ!?」
その喧騒の中でもやけに響く濁声は、大衆酒場の前から聞こえてきた。
「知るかバーカ! いい大人が昼間っから酒飲んでんじゃねーよ」
あっという間に出来る人だかり。その中心では数人の男性が一人の少年を見下ろしていた。
男たちは誰も彼も顔を赤らめている。その手には酒瓶――彼らはタチの悪い酔っ払いだった。ただただ憂さを晴らすべく酒を飲んでいたのだ。
その事を周囲の人間も分かっているのか、誰も仲裁をしようとしない。呆れ顔を浮かべ、行き先を見守っている。
「何だァ!? 大人が昼間から酒を飲んじゃ悪ィのか!?」
いきり立ったコボルトが酒瓶を地面に叩きつけて怒りを露にした。乾いた地に吸い込まれていく赤い液体は、仄かに葡萄の匂いを撒き散らす。
「迷惑だって言ってんだよ! お前らが騒ぐせいでこの店に人が入れないだろ! 大人のクセにそんな事も分からないならガキからやり直せ!!」
怯むことなく食って掛かる少年は、深く被っていた帽子を脱いで地面に叩きつけた。彼なりに対抗してみたらしい。
「てめぇ、まだ角も生えてない小鬼のクセに、うるっせんだよ!!」
コボルトの、瞬間的なら人虎族をも上回ると言われた脚力。それは彼と少年の距離を埋めるために使われた。
「ぎゃん!?」
少年の鼻面に叩き込まれた右拳。コボルトの一撃に少年は顔を押さえて地面で転げ回っている。
ぽつぽつと血が飛び散り、次は血が撒き散らされた。その光景に場を離れる野次馬もいれば、顔を顰める者もいる。だが、誰も止めに入らない。
「おい、オレにも殴らせろよ」
下卑た笑顔を浮かべる人魚の男は、体中の鱗を震わせて拳に力を込めている。
「う、あ……」
髪を掴まれ、強引に引き起こされた少年。彼の鼻からは夥しい量の血が流れている。その血は彼の口の中も真っ赤に染めて、顎から滴り落ちていた。
「オラ、ごめんなさいはどうした?」
ニヤニヤ笑う人魚の顔へ、少年は血の混じった唾を吐きつける。
「あやま、る、のはそっちだろ……」
少年の目には理不尽に対する炎が燃えていた。彼の意思は、その暴力によってさらに強固なものと成長していた。
「あ? ナメてんのか?」
人魚の男性の身体は女性の半人半魚のものとは違い、全身が鱗に覆われた醜悪なものである。リザードマンにも似た体の構造で、決定的に違う点がある。それは歯と爪の強度だ。彼らの先祖は得物を求め、何もない海中で己の身体を武器にする他なかった。その過程で、彼らの爪は天然の矛に、歯は天然の鋸へと変化したのだった。
その鋭い爪は、少年の目に向けられていた。見せ付けるように爪を動かし、少年の恐怖を煽る。
「謝ったら許してやる。でも、もう一度舐めたクチを聞いてみろ! そん時はこの爪でてめぇの目ん玉えぐってやるからな」
しかし、それでも少年は表情を変えなかった。黙して語らず、鋭い目線を人魚へと向ける。
「んだ、コラァ! その目ェ、抉ってやるァ!!」
自分を見る目の煩わしさに、男が爪を突き刺そうとした、その時――
「―――義を見てせざるは勇無きなり、か。邪魔するぞ」
野次馬を蹴散らすように現れたのは、白銀の鎧を身に付けた騎士だった。
よく磨かれた鎧は、夜の月を思わせる白銀。その月を彩るかのように野に咲く名も無い花々が装飾として所々に描かれ、胸の中央、十字の紋様を包み込んでいる。
その鎧は全身、指はもちろん顔まで覆っており、素顔まで隠してしまっている。本来、顔が在るべき所にあるのは、二本の雄々しき牙を天へ向けた猪の頭部であり、それは美しい装飾たちとは対照的に、酷く恐ろしい物だった。
手に握られた鎖、その先には刺付きの鉄球が。人鬼族の頭ほどの大きさのソレは、赤黒く汚れており、何度か正しい用途で使われたことが嫌でも分かる。しかし、常人なら恐怖する鉄球だが酔った三人にはそれほど効果は無かったらしい。
「しゃしゃり出てきてんじゃねェ!!」
少年から手を離し、すぐさま飛び掛ってくる人魚。両手の爪を一本ずつ立て、鎧の隙間に刺し込もうとするが、
「遅いッ!!」
その鈍重そうな見た目からは想像できないほど迅い身のこなし。迫ってきた人魚の顔に、騎士は鎖を掴んだままの右拳を振りかぶって叩き込んだ。
メキョ、と何かがひしゃげる嫌な音。全体重を掛けて繰り出された右拳は、いとも簡単に人魚の男の顔面を陥没させた。
白銀の拳に、やけに粘ついた血を塗りつけながら男は倒れ伏す。その拳打の威力は凄まじく、鉄より硬いと言われている人魚の歯をも砕いていた。
一瞬で静まり返る大通り。時すら止まっているかと錯覚させる世界で、動いていたのは騎士だけだった。騎士は振りぬいた右拳をそのまま、身体を超局所的台風のように高速で回転させる。
「て、てめ―――」
ようやく我に返ったコボルトが口にできた言葉はそれだけだった。彼の言葉を喧しい鎖の音と、両足を砕く鉄球が遮ったためだ。
「あ……がぎゃあああああああああっ!?」
脛を砕いた鉄球は、すぐさま引き戻されて騎士の手の中に戻る。血に濡れた鉄球と右拳。その姿は、戦場に降り立った悪鬼にも似ていた。
「おっ、おっ、オレの足がァァァ!? ひでぇ、ひでぇよォォォォォ!!」
七転八倒して激痛を訴えるコボルト。一分もしないうちに仲間を二人失ってしまった馬頭族の男は傍目から見ても不憫なほど動転している。
「その二人を連れて去ね。次はこの鉄球が顔を砕くやもしれんぞ?」
兜でくぐもった声は、十二分に彼の恐怖を煽ったらしく、すぐさま二人を脇に抱えて、自慢の健脚で大通りから姿を消した。
「大丈夫か、少年」
途端に騒ぎ出した野次馬の歓声を無視し、騎士は比較的汚れていない左手を少年に差し出す。少年は驚き、おっかなびっくり差し出された手を握り、立ち上がった。
「少年の勇気に思わず助太刀してしまった。問題なかったか?」
「う、うん。それは嬉しいんだけど……」
歯切れの悪い少年の言葉を最後まで聞くことなく、騎士は溜息を吐いた。
「全く。これほど人が居ながら誰も助けようとしないとはな」
少年にだけ聞こえる声でそう呟くと、騎士は兜を引き上げる。引っ張られた兜は、背の鎧とぶつかり、ガチンと音を立てた。
「ふぅ……」
気持ち良さそうな声とともに、今まで隠れていた顔が露になる。少年も、群集もその素顔に釘付けになった。
白い額に浮かぶ玉の汗。薄く紅差す両の頬。鋭くも優しい目は、山際に沈む夕陽色。そして溢れ出す銀色の髪。両の掌で鎧の隙間から引っ張り出された髪は、腰より長く、そして美しい。
しかし、何よりも皆の目を引いたのは、その美しい顔の中央にある――豚鼻だった。
それはオークの証。騎士は貪欲かつ大喰らい、食べないモノは禁忌に触れるモノだけ、と揶揄されるオークであった。
野次馬は、男性だと思っていた騎士が女性で、その上オークだったと二度驚き、またも言葉を失ってしまった。
しかし、騎士はその反応に慣れているようで、少しだけ肩を竦めると少年に訊ねた。
「さて、質より量を掲げている食事処を知っていたら教えてくれないか?」
湯気立つ大皿が机に並ぶ。魚の素揚げ、野菜と芋の煮物、こんがりと焼かれた鳥腿肉、高く積まれた握り飯、それらをみるみるうちに平らげていくオーク。
彼女は足元に鉄球を転がし、夢中になって料理を口に運んでいる。その姿は、類無き美貌を持ってはいるが、まぎれもなくオークのものだった。
「おやまぁ! 本当にアンタはよく食べるねぇ!」
甲高い声で笑うのは、厨房で鍋を振るう小鬼の女性。油が染み込んだ割烹着は、汚れてはいるが不潔ではない。
「ま、ウチの息子を助けてくれたお礼だから遠慮しないでいくらでも食っておくれ!」
口の中に残っていた料理を茶で流し込み、一息つくと立ち上がって恭しく礼をする。
「かたじけない」
それだけ告げるとすぐさま料理をかっ込み始めた。食べ物の汁が飛び散り、頬や髪を汚すがお構いなしだ。その様子に、新しい料理を運んできた小鬼の少年は呆れている。いや、もはや若干引いてしまっている。
「”樫の根亭”開店以来の大食漢だねぇ! アタシも負けてられないよ!!」
他の客へ出す料理もまとめて作る彼女は、その細腕で次々と皿へ料理を盛っていく。
「ほら! アンタも運び終わったら厨房の中を手伝っておくれ!」
そう急かされて、少年はすぐに店の奥へと消えていった。
この”樫の根亭”は、小鬼の母と息子の二人で切り盛りされている食事処だ。元は巨大であったろう樫の木の洞を利用して作られた店内は、何処か薄暗く心を落ち着かせる装いとなっている。
店内に所狭しと置かれた木彫りの魔除けは小鬼文化特有のものであり、それらはこの世界に住む種族のどれにも当てはまらない不思議な生物の形をしていた。彼らに言わせればそれは神の姿であり、全ての始祖であると伝えられている。そして壁と床に施された紋様も、彼らの神を象ったものらしい。
小鬼はエルフとは違った形で自然を敬愛している。エルフが守る側なら、小鬼は利用する側と言えるだろう。それは、彼らの始祖が巨鬼族と共生していた時代にまで遡る。彼らは己の非力さを巨鬼族に、己の虚弱さを精霊たちに補ってもらう事でこの時代まで生き抜いた。彼らは己の頭脳だけでここまで繁栄したのだった。
その小鬼の彼らがこうして木に寄り添って生活している事は至極当然である。その事を知ってか知らずか、騎士の転がした鉄球は彼女の持っていた麻袋の上に置いてある。木を傷つけまいとする彼女なりの配慮なのだろうか。
「そう言えば! アンタの名前を聞いてなかったよ! アタシは八重樫虎虎、でコッチが久慈久、よろしくねっ!」
他の客が居るにも関わらず、お構いなしで話し続ける彼女に、またも騎士は茶で飲み込んで立ち上がる。
「……んぐっ。私は高峰純青、好きな食べ物は旬の茸のパイ包み。本名ではない、悪しからず」
さすがに胃袋も満たされてきたのか、次はがっつくことなく着席する。だが、すぐに手持ち無沙汰になって口に何かを放り込み始めた。
「オークってさ、皆そんぐらい食べるの?」
茶を汲みに来た久慈久が興味津々といった感じで訊ねる。
「あぁ、んぐ。食べる……ズジュジュ、ぞ。普段、んぐんぐっ、抑えている分、余計にな」
口の端から魚の尾ひれが食み出している姿に、久慈久も思わず笑ってしまった。あの時自分を助けてくれた凛々しい姿とは正反対過ぎてどうにも笑みが零れてしまうのだ。
「でもアンタ、オークの割には……って言い方はおかしいけど、変わってるねぇ。普通、アンタらの名前って一文字なんじゃないかい? それにアタシが見てきた中で、アンタは特別べっぴんだし」
オークとは、本人たちも認めるほど食欲に忠実だ。日々の生活の中軸に食事を据え、そしてその文化の鱗片はあらゆるところに見て取れる。例えば、それは名前。彼らには小鬼や人狼、巨鬼族のように特殊な法則を用いた名前がない。ただ、漢字一文字で名を表す、それだけだ。
これは食事以外では口を使いたくないからだ、とも、名前すら食べてしまったからだ、とも冗談交じりに言われているが、真実は彼らにも分からない。さして彼らの興味をそそる事ではなかったのだろう。
そして「豚」と形容されるその相貌。確かに彼女は例外的に美しい。一般的に、オークは栗毛であり、目は肉に埋もれ、口からは乱杭歯のように牙が飛び出す。それだけでなく、体型も大いに違和感がある。彼女は他のオークに比べ、華奢……いや、脂肪がついていないのだ。食事と怠惰を尊び、労働と運動を蔑む彼らからしたら、彼女は奇跡に近い存在だった。
「詮索は無用だ」
それきり口を閉ざし、食べる事に終始した彼女に話しかける者はいなかった。