オンエア
ああ、うんうんそうそう。ああ、大した事じゃないから大丈夫だよ、気にしないで。うんうん、へえへえ。イエスイエス、アイシー。わかったわかった。だからもういい? いいよね? うん、じゃあバイバイ。――そう言って電話を切ったのが午前四時。ぐるんぐるんの電話のコードを掴めば、受話器が先に引っ付いていた。フローリングの上に滑らせるようにして手繰り寄せると、それはもう冷ややかだった。ちなみに今、何時だ? 二日酔いで頭がぐわんぐわんと夢でも見ているかのように揺れる。立ち上がる気力のない脹脛が攣った、いてえ、いてえ。もだえ続けていると、フローリングの上に唾液が零れた。汗も吹き出た。私は随分孤独だと思い直した。オランダに行って風車を見に行きたくなった。バケツプリンを食べたくなった。俊太という名前の人間を全員殺したくなった。……全部思い付きだ。実行なんてしない。私は弱い。誰よりも弱いからこんなところで這い蹲って生きている。頭だけがぎゃんぎゃんとわめいた。本当に殺したいのは、俊太じゃなくて私自身だ。私の脳だ。私の心だ。私の内臓だ。あああ白紙に還そう遣唐使廃止じゃないけれど、本当に白紙に還せるものなら還してもらいたい。私はこれほどまでに面倒で嫌な女に生まれてきた事をひたすら後悔している。両親を恨んで、精子と卵子を恨んで、セックスを恨んで、生命体そのものを恨んだ。こうしている間に弾け飛んでいく脳細胞。その前に、染色体を潰して。私の中を流れている血液全てを吐き出して。あああ、電話だけが空しくプーップーって言う。私を笑っているの? どうぞどうぞ。私は笑われるために生まれてきたのかもしれない。だとしたら、こんな事をしている場合じゃない。とにかく今、何時なんだ?
「起きました?」
顔を上げると、俊太がいた。何でてめえがここにいるんだよコノヤロウ。すごんで睨みつけるけれども、私というものに慣れてしまっている俊太には微塵の効果も見られなかった。面倒くさい男だ。それ以上に面倒くさい女がここに横たわっているのに、面倒くささにこれ以上加速を付けるのは自殺行為だ。公害だ。犯罪だ。そうは思いながらも、この男を今すぐここでぶちのめすための力を持っていない私は、すっかり俊太に身を委ねてしまっている。あああありえない。こんな男にだけは頼りたく無かったっていうのに、どこまで醜態を曝すつもりなんだろう、私。そう考えているうちにずるずると引き摺られるようにしてリビングのソファに案内された。テレビの上に設置されたケーブルテレビのデジタル時計は、午前十時を示している。ああ、だから俊太がいるんだ。今更ながらそう理解して、破壊寸前の頭をよっこらしょと持ち上げた。俊太は苦笑いした。
「今日のスケジュールは全部断りましたから」
何だよ、それ。何で勝手にそんな事するわけ? 怒りは沸き立つのに、体はそうして欲しいと願っていたためにほっとしている。私はあくまでも、俊太に反抗的なんだ。だからこんな風に言われると、嫌でも仕事をしたくなるのだ。そしてそんな私が、酷く疲れてしまう。面倒で、面倒で、仕方が無いのだ。強がってばっかりじゃ生きていけないのよ。以前誰かに言われた言葉を思い出した。誰だったっけなあ、お母さんだったっけ?
「今日はゆっくりお休みください。昨夜は酷くお疲れのようでしたから」
「昨日、私、何したっけ?」
「覚えていませんか? CMの契約先の会社と一緒に飲んだんですよ。ハルさん、お酒のボトル開けまくって、浴びるようにお酒飲んでいらしたんですよ。結局、二時くらいに眠っちゃったんですけど」
「ふうん」
「で、僕が家までお連れしました」
「ふうん」
じゃ、ねえだろ。と思い直した。こいつ、何にもして無いだろうな。ましてや私はグラビアアイドルなんかやってるんだから、酔いつぶれた私が近くにいて、何もしない男が存在するはずがない。私は自分の体を撫でている。昨日どんな服着てたっけ。そう思えば、脳髄が痛むだけで何にも沸いてこなかった。駄目だ。考えられない。見る見るうちに血の気が引いていく。その気を察したのか、俊太は急いで首を振った。
「何もしてませんからね! 僕はハルさんの付き人ですけれども、ハルさんに興味ありませんし」
何もしていません、という言葉には安心したけれども、興味が無いという言葉には苛立った。興味が無いだと? お前よくそんな事言えるな。このFカップの巨乳を見ろ。くびれたウエストと、ツンと上を向いたヒップを見ろ。生唾を呑まずにいられる男が存在するだろうか。
「じゃあ何で未だにお前がこの部屋にいるんだよ」
「何言ってるんですか。電話をかけてきたのはハルさんでしょう。世話してって言ってたじゃないですか。それで大丈夫ですかって訊いたら、適当な相槌を打つばかりで声が途切れちゃったんです。僕は驚いて車を飛ばしてここまで来たのに、いるのは玄関先で酔いつぶれて寝ちゃってるハルさんだけじゃないですか。強盗でも入ったのかと思いましたよ」
「じゃあせめてベッドに移してくれたっていいじゃない」
「ハルさんはすぐに勘繰るんです。迂闊に触れません」
確かにそうだなぁ、と思いながら目を瞑った。何でこいつは私の事をこんなによくわかっているのだろう。それなのに私は、相手の意をちっとも知らないで、好き勝手な事ばかり言う。だから学生時代も芸能界でも友達は殆どいなかった。いるのは体目当てで近寄ってくる腐った男と、仕事の依頼でヘコヘコしているプロデューサーとかその辺だ。私はどうして、こんなに偉そうな事ばかり言うのだろう。気分が沈んだ。喉の奥が熱かった。そう思うと、俊太がグラス一杯分の水を汲んできてくれた。ああ、本当に。この男はどうして私の欲しいものまでわかるのだろう。薄目を開けて、グラスを奪った。水が数滴零れて、私の頬に張り付いた。冷たい水は私の体温にすぐに感化された。起き上がって水を飲むと、熱く焼けた喉の熱に触れて水が蒸発していくようだった。体の中に水が溶け込んでいく様子が、こんなにも化学的だとは思わなかった。私は反応するのだ。熱すると酸素と化合して酸化物になるのだ。そして冷やすと元に戻るのだ。少し特殊な化学物質なのだ。
「ちなみに今、この前のバラエティ番組がオンエアされています。ご覧になりますか?」
この前のバラエティ番組という抽象的な表現にピンと来ないまま、俊太は勝手にテレビのスイッチを入れた。最近プラズマテレビに買い換えたその画面には、私の顔がドアップで大々的に映った。ああもういじめないでくださいよー、という恥ずかしすぎる言葉に眉をひそめ、自分をすぐに殺めたくなった。消して消して消して消して! 私は泣き叫んでリモコンを手にし、乱暴にスイッチを切った。音が消えた瞬間力が抜けて、リモコンが床に転がった。俊太が沈んだ私の頭を優しく撫でた。
「陵辱だ」
「でも事実なんです」
「本当死にたい」
「まだハルさんは若いんですから」
「でも俊太より年を取っている」
俊太は何も言わずに、静かになった部屋で人の部屋を勝手に漁って持ってきた缶コーヒーを啜っていた。私はもう、反論する元気もなかった。自分の映ったテレビ番組を見てしまった事に、ショックを隠しきれないでいる。私がどんなに可愛くて、セクシーであったって、自分がアイドルを演じている姿を見るなんて、侮辱以外の何でも無い。私は目を伏せて泣きじゃくった。どうしてあんな、キモイ番組を引き受けたのだろうと後悔した。私は胸を曝して、写真に撮り収めてもらうだけで十分なのに。動画になると、自分が自分では無くなる。自分が最も嫌う人種の人間になってしまう。そしてそうなってしまう私は、それ以上に嫌いな人間だ。本当、死んでしまいたくなるのだ。
「ハルさあん」
俊太はあきれたように呟いた。私はうずくまったまま動かない。朝の時間が静かに流れ、窓から差し込む日光が私を照らした。背中がじりじりと暑い。それでも現実を見るよりは、よっぽどかマシだ。
「薬が切れたんだ」
「病院行きます?」
私は首を振った。
「そうですねえ、アイドルたるもの、精神化に通院しているなんてばれたらマスコミの餌食ですからね。昨日もお酒で酔い潰れてたんですもの。本当、ハルさんを徹底的に調査したら、幾つのスキャンダルが生まれる事か」
俊太はほうっと息をつきながら、苦笑いしつつ言った。私は何も言わなかった。薬をくれ。薬なら何でもいい。トランキライザーでもいいし、胃腸薬でもいいし、頭痛薬でもいいし、ほんともう最悪モルヒネとかでもいい。とりあえず、自分は大丈夫だと言う事を抑えておきたいのだ。自分の確立を一番に考えている。本当に薬が欲しい。ああ、何もかもから逸脱してしまいたい。私はもう、人間というフォルムの中で生きていく自信が無くなった。死ぬ、死ぬ。いっそ手首でも切ってしまおうか。飛び降りてしまうおうか。睡眠薬を過剰摂取しようか。もうどうでもいい。とにかく、私という人間の生命体を破滅に追い込んでくれたら、誰でもいいから最大限の報復をするから。あああ。
死ぬ事ばっかり考えていると、少しだけ気分が晴れて目を開けた。私は本当、死にたい人間なんだろうなと改めて認識し直した。これからは死にたいと考える人間として生きていこうと決意した。じゃないと荷が重過ぎる。私は今、圧力に耐えかねて潰れてしまった肺を元に戻す事に力いっぱいなんだ。
「ハルさあん」
「何」
「明日はバラエティの出演依頼がかかっていますが、どうします?」
「……出るよ」
「了解です」
その後、俊太がメモ帳に何かを書き込んでいた。多分私の知っている、ミミズが這ったような謎めいた字なんだろうなと思うと、瞼が重くなった。眠る? まだ、眠る。私は明日のために眠らなくてはならないんだ。今日断ってしまった分、明日は頑張らないと駄目だ。俊太の声が遠のいた。
レム睡眠――夢を見た。
矛盾ばっかりを抱え込んだ私が夜の電車に乗って空を飛ぶ夢だ。私はそのとき凄く自由で、一番輝いていた。私は私を恐れていなかった。車掌さんが乗車券を確認するために、電車の中を徘徊している。私はポケットをまさぐったのに、それらしきものは見付からなかった。私は焦燥感に駆り立てられて車掌さんから逃げ出したけれど、手首をつかまれた。冷たい、骨のような手は私の手首をしっかりと捕らえて離さない。ごめんなさい乗車券を失くしました、と言うと、車掌さんは表情一つ変えず、口元だけを動かした。
「強がってばっかりじゃ生きていけないのよ」
その瞬間、哀しみが堰を切ったようにあふれ出して氾濫した。目が覚めたとき、午前四時だった。電話はかかって来ていないし、かけてもいない。俊太はその部屋にはいなかった。不気味な沈黙が、秒針の音を誇張させた。私の背中には、じっとりとした汗をかいていた。夢の余韻がいつまでも後を引き摺っていたけれども、窓の外の世界は空を飛ぶ電車で見た世界じゃなくて、東京の騒がしい光に満ちた世界。