第四話(2)
んん……俺は、何やらくすくすという笑い声と、鼻の頭のこそばゆさを感じていた。
重い瞼の向こうに、どんな光景が広がっているのか、確かめる気力はまだなくて、俺は春眠を貪った。とっくに暁はすぎているが。
(ま、春だしね。こんなに気持ちいいと、のんびり昼寝くらいはしたくなるのは同感だわ)
渡り廊下の窓によりかかりながら、ぼんやりとグラウンドを眺めていた。千夏せんぱーい、と中庭から声をかけてくれる後輩に手を振り返す。
そんなことを思いながら風にあたる。篠原千夏は委員長キャラで厳しい、ともっぱらの評判なんだろうが、ちゃんと部活の後輩には愛されてるもの。男子は知らないでしょうけど。
男子といえば、教室を出るときに机に突っ伏していた春詩の寝顔と、その顔にいたしてしまった悪戯を思い出して、笑いを噛みこらえた。
ふと、女子たちの声が騒がしく聞こえて、目線を動かした。反対側の校舎の下で、何やらキャッキャと話している。その初々しさは、一年生らしかった。
話題の中心は——(やっぱり、あの子のことよね)
窓枠に肘をついて聞き耳を立てる。というか、放っておいても聞こえるくらい、校舎の壁に声が響いている。花壇の並ぶ中庭のベンチで、仲良く並んで昼休憩といった様子だ。
「葉月莉緒、今日も麗しすぎて無理〜!」
「もう、ほんとに男の子なの?あれはんそくー!」
「ていうか、あれ、絶対彼氏にしたいっていうより、彼女にしたい感じだよね」
「ふっふ、わかるそれ」
「なんか、制服の着こなしがズルい。美人は何着ても絵になるっていうか……」
私は鼻で笑った。
(ふふん、まったく女子ってやつは……でもまあ、わからなくもないか)
あれは、確かに美人だ。男女ともに受けるレベルの。それに時折見せる表情やしぐさは可愛らしい。
(しかし、葉月家の遺伝子はどうなってるのよ、だって、あいつの妹……もとい弟なのよ? あの美人が!)
弟なのよねぇ? と脳が混乱した私は、眉間に寄せたしわを人差し指で伸ばした。
「あー! でも、ちょっと同中の子に聞いたんだけど……」
女子たちの一人が思い出したように切り出した。彼女たちは顔を寄せ合い、急に静かになって耳打ちし始めた。中庭に反響していた声がシンとなった。雲が流れて、中庭を日陰が覆った。
その静けさに、私の勘は悪いものを感じたのだが……。
「やだ、まさか~!」
すぐにまた、女子たちに笑いが弾ける。自分の勘も当てにならないな。私は窓際を離れた、が。
(……ちょっと、気になる、かな)
勘は外れた。けど、さっきの女子たちの耳打ちの内容が私は気になっていた。あの子たちは明るく笑っていたけれど、あの「間」の空気には、何かただならぬものがあった。女子の噂話は、時に陰湿だ、と同じ性別ながら思う。
(同中の子から聞いたって……何を?)
葉月 莉緒は、見た目は文句なしの美少女(男子であることはさておき)だし、噂話は人気者の代償でもある。けれど、なんだろう——あの子をからかうのは、ちょっと違う気がする。
(葉月兄と違って、繊細そうだし)
自分でも意外だった。ちょっと守ってあげたい感じはする。んんっ、と小さく咳払いして、私は私自身を誤魔化した。
(ったく、あたしが気にすることでもないのに)
その時ふと、視界の片隅にあるものを見た。
窓の下、校庭の隅。風で飛ばされたらしいプリントが、くしゃくしゃのまま植え込みに引っかかっている。
近づいて拾い上げると、見覚えのある字が目に入った。
——葉月莉緒。
提出物か、プリントか。うっかり落としたのだろう。
数秒だけそれを見つめて、ため息をつく。
(あたし、こういうの拾うキャラじゃないんだけどな……)
委員長という職務は遂行するが、面倒に何でも首を突っ込むタイプではないのだが……。
プリントを携えて、進路を変える。
莉緒の教室は、確か四階の一番奥。
——今ごろ、いるだろうか。
(ま、落とし物を渡すだけ。深い意味なんてないし)
でも私の足取りは、自然と、ほんの少しだけ丁寧な先輩の歩みだった。
一年生の教室が並ぶ四階へと足を運ぶと、苦労することなく、葉月莉緒を教室の入口で発見する。
「葉月莉緒……くん、で合ってるよね。これ、落としてたよ」
手にしていたプリントを差し出す。彼女……もとい、彼はそれをすんなり受け取った。
「あ。私、あなたのお兄さんのクラスメイトなの」
私はそう表明しておいた。過度にお近づきになりたいわけでも、野次馬でもない、という意味を込めて。
葉月弟・莉緒は一瞬驚いたような顔をしたあと、すぐにほっとしたような微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます……わざわざすみません」
受け取ったプリントを見て、莉緒はほんの一瞬、言葉に詰まったように見えた。
けれど、すぐにいつもの丁寧な口調で頭を下げる。
「助かりました、本当に……」
(……何か、変な間)
またしても何か引っかかるものを感じる。今日はそういう日なのだろうか。
「リオくーん、どうしたの?」
先輩と教室の出入口で話し込めば、多少は目立つ。女子生徒の先輩と莉緒が会話していれば、上級生がとうとう美人男子新入生にちょっかいをだしてきたのでは、と、あらぬ誤解も受けるだろう。その誤解は、多分に不本意だな……と思考する。いや、この女子が莉緒に話すきっかけに、このシチュエーションを利用したのかもしれない。いやいや、人の善意を疑いすぎるのも……。
「あれ? そのプリント、こないだ提出したやつじゃない」
「う、うん。落ちてたみたい。先輩が届けてくれたんだ」
「ふうん……おかしいね。クリアファイルにみんなの分まとめて入れて先生のとこに持ってったはずだから、そんなに落ちないはずなんだけどな。誰だったっけ、これ持ってったの」
その女生徒の言に、私は嫌なものを想像していた。莉緒も、口にはしないが同じことを想像しているのだと、表情から察した。
「いいよ、落っことして散らばっちゃったり、僕もすることあるし」
こういうとき莉緒のような子は、すらすらと他人をかばうセリフを喋れるのだ。自分が傷ついても構わないと思うときだけ——。
私は、ポンポンと莉緒の頭を撫でた。
「じゃ、私はいくね」
手をひらひらと、後輩たちに振ってあとくされなく立ち去ろう。
(さて、馬鹿兄貴になんていえばいいんだ、わたしは)
◆◇◆◇◆◇◆◇
「しのはらちなつ~~!!!」
委員長キャラかと思っていたが、なんて悪魔な所業だ。
俺はトイレの鏡の前で、自分の鼻をごしごしと洗っていた。
「あ……あのね、言いにくいんだけど葉月くん、鼻が、かわいくなってるよ?」
クラスメイトの、ちょっと気弱な女子が、手鏡で俺の顔を映して見せてくれた……小熊さんのように、はなの頭が黒く塗ってある。プリクラじゃねえんだよっ。
「なっ! なにゅう!」
俺はダッシュでトイレに駆け込み鏡を見るやごしごし洗い始めて、今に至る。
どうやら、水性マジックという情けはかけてくれたらしい。
わずか数分前の回想がこれだ。
まったく、なんてやつだ。篠原千夏おそるべし。
トイレから教室に戻って、俺は手鏡を見せてくれた彼女に礼を言った。
「えっと、小倉さん、だよね。ありがとう」
この春の進級で、初めて同じクラスになったと思う。
「うん、小倉美帆です。どういたしまして」
「同じクラス初めてだよね? 俺は……」
「知ってるよ、葉月春詩くんでしょ?」
ん、俺って有名人? 自分の顔を俺は指さす。
小倉さんがクスリと笑う。
「あれだけ先生に名前呼ばれてたら、覚えるでしょ」
ちょうど教室に戻ってきた篠原千夏がツッコミを入れてくる。
「おまえな! マジック落とすの大変だったんだぞ?!」
俺たちのやり取りを、小倉さんがクスクスと笑いだした。ああ、一時の清涼剤になれれば本望です。
「んー、学級委員長正式就任前の、ささやかないたずらってやつ?」
千夏が語る。各クラスの学級委員が集まって、学年ごとの学級委員長が指名されるという、青陵学園の生徒会システム。新学期が始まって最初の委員会が先日行われたばかり……らしい。指名自体は終わって内定、間もなく発表の流れか。なるほど。それで職責を負う前に、最後に羽目を外した、と。
「ありがとよ、遊んでくれて……」 とほほ、だ。「ほら、午後の授業はじまるぞ」
委員長を追っ払う最も効果的なセリフを掲げて俺は席に着いた。
「はいはい、そうね。あんたちゃんと起きてなさいよ?」
千夏と小倉さんがそれぞれの席に散っていく。
「葉月くんって、話しやすいのね」
「そう、ね。悪い奴じゃないのよ……たぶんいいやつ、だと思うし。中学でいろいろあったらしいけど……」
地獄耳の俺だが、千夏のその言葉はその時は聞こえていなかった。少し未来で小倉さんが教えてくれたことである。




