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第十話(6)

「兄さん、だいじょうぶ? 背中見せて?」

「うん……大丈夫だ」

 赤組テントの下、莉緒が心配そうに言うので、言われるがまま背中を向けると、莉緒が体操服をめくりあげて背中を確認する。そこまでされると診てもらう気にもなる。

「ちょっとひりひりするな。どうなってる?」

「赤くなってるよ、ちょこっとだけキズになってる。濡れタオルで拭いてあげるね」

 場内はしばし早めの昼休憩となっていた。棒倒し種目がキャンセルになったので、競技時間の半分を昼休憩の追加にあて、半分の時間は繰り上げることが放送されていた。

 そんなお昼の余裕のある時間を利用して、藤原に引っ張り倒されて打った背中を、莉緒に見てもらっていたわけだが。

「葉月先輩、だいじょうぶですか? まあ大丈夫そうですけどいちおう礼儀として聞いておきます」

「桐原理々香さん、一言よけいではないかい? まあ大丈夫だけど」

 背中を拭いてもらって、俺はシャツをいそいそ戻す。

「理々香でいいですよ。ところであまりイチャイチャしないでください。みんな見てますから」

 桐原さんはすっと、周囲に視線を流して女生徒たちの視線をけん制する。何人か、目をそらす女子がいたのは間違いない。なぜか彼女らの頬は赤く染まっていた。

「それよりリオくん、あなたは午後イチで障害物競走なんだから、少し早めにお昼食べ終わっとかないとキツイわよ」

「あ、そうだった」 どうしよう、と莉緒は兄たる俺を見る。

 それもそうだ。兄として気づいてやるべきだったな。

「母さんが弁当を持って来ているはずだから、観覧席に食べに行こう」

「ごめんなさい。僕、桐原さんたちと食べる約束しちゃったんだ」

 一瞬、俺は理解が及ばなかった。それも瞬きほどの時間。

「そうか。友達と食べるのもいいことだ。母さんも喜ぶぞ」

 莉緒に友達。そのフレーズを聞いたのは、事実何年かぶりだった。

 うん、母さん、喜ぶだろうな。うれしそうな母の顔が脳裏に浮かぶ。




 そんなわけで、俺は観覧席で母さんと二人の昼食だった。

「ねえ母さん」 「なあに?」 お手拭きと相槌が返ってくる。

「俺って反抗期あったのかな」 「さあね」 今度は箸が返答の後ろについてきた。

 普通の男子高校生は、母親と体育祭で弁当なんて食べたがらないのではなかろうか。

 熱いお茶をすすって(熱いのは母のポリシーらしい)、おかずに箸を伸ばす。

「こちら、ご一緒してもよろしいでしょうか?」

 見上げると、テントが日差しを遮って、深い青空が見えた。それを背景に、一ノ瀬真白が立っていた。

「あら、噂の彼女さん?」

 母さんが楽しげに訊く。

「はい。一ノ瀬真白といいます。春詩くんのお母様でよろしかったでしょうか」

 凛として、照れもせず答える真白らしい態度だった。

「はい。母です。どうぞ、座って? 一緒に食べましょう」

 にこにこして母さんは我が家のレジャーシートの上に真白を招いた。

「ほんと、よそ様のお嬢さんを前にしてなんだけど、娘がいるってこんな感じよねえ」

「りこは、元気だからね」 俺は母さんに合わせた。

「なんかまだ春詩に弟が二人いるみたいでねえ」

 莉緒が娘みたい、とは今のところは母も冗談ですら言わないでいる。

「さ、一ノ瀬さん、こっちのお弁当も食べてね。おかずもたくさんあるから」

「ありがとうございます」

 真白は礼儀をわきまえ、かつ遠慮しすぎるでもなく、ほどほどに母さんとの会話に溶け込んで時を過ごした。

 莉緒は楽しくやってるかな……そんなことを思いながら、俺は箸を進めていた。




 昼食を終えて、各組のテントに生徒がめいめいに戻ってきた。まもなく競技再開の放送が繰り返されている。

「は、葉月! 障害物競走、一緒なんだ、よろしくな!」

 おっきな声で名前を呼ばれて、振り返った。丸刈り坊主頭に、赤ハチマキをした一年が、俺のところにやってくる。あ、俺じゃなくて莉緒のことか。

「丸尾、あんた赤組だったんだね。気づかなかったわ」

 桐原さん……理々香が、冷たく言う。理々香は莉緒とおしゃべりを遮られて不機嫌そう。いや、これが平常運転か。

 丸刈りの丸尾くんがしょんぼりしたが、

「丸尾くん、がんばろうね」

 莉緒のその一言で、丸尾くんは元気を取り戻した。

 丸尾くんは莉緒に向けて拳を突き出す。莉緒はきょとんとして、最初意味が分からなかった様子だったが、みんながやっている姿に思い至って、自分の拳を丸尾くんの拳にこつんとあてた。

 丸尾くんの拳に比べて、白く細く小さな拳だ。




 さあ、莉緒の出番、障害物競走。俺も入学した昨年知ったけど、この高校の障害物競走は、おかしい。一風変わっている、という意味だ。

 グラウンドのインフィールドエリアには、平均台やらネットやら、よくある光景が並んでいるが、そこは終盤戦となる。まずは、学園の敷地内をぐるりと回ってからインフィールドに戻ってくる。それから障害物をこなしてバトンを渡すリレー形式だ。

 とにかくインフィールド以外が長い。いつもは通り抜けると怒られるような動線まで、コースにしつらえてある。放送部がカメラ数台を設置してスマホにライブ配信する力の入れようだ。

 莉緒は第一走者。各色から二チームずつ出走で、計八名がスタートラインに並んでいる。

 号砲が鳴って、それぞれの第一走者が一斉に駆け出す。莉緒は残念ながら、最下位から追う展開。ちょっと弟の評判をお兄ちゃん心配しちゃう。

 だけど、

「莉緒くん、がんばれー!」 「いっけぇ~!」 「おお、葉月弟いけるぞー!!」

 知らない面々からも、応援の声が上がって、俺はつい理々香と顔を見合わせた。理々香がニヤリと嬉しそうに笑う。

 選手たちの姿が校内に消えていくと俺たちはスマホをのぞき込んでライブ配信を見守った。

 莉緒は、身軽な走りで、8位から5位にまで順位を伸ばしてグラウンドに帰ってきた。

 それにしてもなんて所を走らせるんだ。校舎を普通教室の四階まで上がらせると、くねくねと教室を出入りして特別教室棟から階段を一階へ。中にはパルクールばりにすいすい障害物を走るやつもいる。さすがに階段を一気に飛び降りるのは禁止だが、それにしても速い。一方、莉緒は小さい体を活かして、他の選手が走りづらそうなエリアで順位を伸ばした。

 グラウンドのインフィールドパートでは、平均台の上をすいすい走る。だがネットをくぐる匍匐前進パートあたりから、体力負けして失速し始めた。滝みたいな汗をかいて、ふらふらとバトンタッチ。次の丸尾くんにバトンが渡ったときには、7位に順位を下げていた。

「葉月まかせろ!」

 丸尾くんが莉緒の頑張りを称えて走り出す。

 その姿を見送ってから、俺は我に返った。

「ちょ、俺いってくるわ」

 理々香にひと言残し、保冷バッグからタオルと保冷剤をつかんで、ゴールした莉緒のところに走る。

 最初に見た莉緒は、息も絶え絶えに呼吸して、汗もすごかった。

 でも、俺の姿を見た莉緒は、おなかの底から笑い出した。

「楽し……かったあ」

「なかなか、デッドヒートだったよ」

 冷たいタオルで首筋を冷やしてやると、莉緒は心地よさそうにタオルに頬を寄せた。

 テントに戻ってからも、莉緒は息を切らしたままで、相当がんばったんだってわかる。

 みんなが拍手で迎えてくれて、それがまた莉緒には嬉しそうだった。

 椅子に座らせて、水を飲ませても、まだまだ汗が出てくる。新しく冷たいタオルで莉緒の額やら首筋やらを俺は冷やした。

「リオくん、上着脱げばいいのに」

 と、理々香の言葉に、俺と莉緒は一瞬戸惑ってしまった。

「あ……でもまあ、後から汗が冷えるかもしれないしね」

 真夏の気温で汗が冷えるなんてありえない。だが、そんな風に自分の言葉に理々香がフォローを入れたのは、少し不思議だった。理々香が、以前女子グループから、莉緒が乱暴されたことがある、という噂話を聞いていただなんて、当然この時の俺たちは知る由もない。

 理々香をはじめ、女子たちも白い体操着が暑そうだ。ちょっとずつ各色組のカラーでワンポイントをつけておしゃれしているが、ベースは昔ながらの体操服。少し厚手で熱がこもりそうだ。その厚い生地の体操服ですら、汗で透けて、男子的に目線のやり場に困るときがある。じろじろ見るのはご法度だ。

「そういうときは、こうするといいぜ」

 続いて競技から帰ってきた丸刈り丸尾くんが、氷水のペットボトルを、莉緒の首筋からかけた。

「つっ、冷たいよ、丸尾くん」

 莉緒はびっくりしていたが、気持ち良さそうに笑うので、俺は止めるべきか迷った。

「ちょっと、あんたねえ」

 理々香が氷水より冷たい顔で丸尾くんのペットボトルを押さえた。

「そういうのは、相手の許可取りなさいよ」

「男なんだし、これくらいすぐ乾くって。ちょっと濡らしとくと涼しいしさ」

 それは彼なりの気遣いだし、男同士なら、間違いではなかった。なのに彼に対して腹を立ててしまうのは、彼にとって気の毒な話だよな。

「ありがと、丸尾くん」

 莉緒が笑っているから、俺はそれでいいと思えた。

 すっかり汗も引いて、莉緒も涼しそうだしな。


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