第十話(3)
予鈴のチャイムが、いささか暑すぎる五月晴れのしたで鳴り響き、いいタイミングで教室の空気を一区切りしてくれた。
私はゴミを片付けてトイレに行くと、手を洗った。葉月莉緒が、汚れを厭わず握ってくれた手……。
廊下に出ると、杉山柚羽が出迎えた。
「理々香ちゃん、すごいね~! 好きになっちゃったかも」
「いきなり名前呼び?」
面食らって、つい、思ったことが口に直結した。
「……桐原さん、ありがとう」
柚羽に続いて、葉月莉緒が言った。
女子トイレの前で待っていて、これほど自然に見える男子も珍しい。
「私が勝手にやったのよ……ごめん、目立たせてしまった」
「いいよ」
莉緒は首を振った。
「そうだ、私も名前で呼ばせてね。リオくん」
私は関係性の進展を提案した。
「わたしも柚羽でいいよ!」
「よろしく杉山さん」
「えー、そんなあ」
馴れ合うつもりは別にないのだ。ないのだが……。
本鈴のチャイムが鳴る。私はさっさと教室に戻った。振り返らなかったけど、莉緒も柚羽も一緒に来てくれるのを、私は知っていた。
◆◇◆◇◆
体育祭当日の日曜。俺は、弁当と体操着と水筒だけを詰め込んだリュックを背負って、校門までの坂道を登っていた。
莉緒は、”着替え“の問題があるので、俺よりずいぶん先に家を出ている。
「あー、私も青陵の体育祭いきたかったなあ」
出がけにそんなことを言ったのはりこだった。兄妹のポジションとして、俺たちが卒業したあと、どうしてもひとり小学校や中学校に取り残されるので、それがつまんないって前にぼやいてたのを思い出した。
まあ、仕方ないじゃないか。
日曜開催ではあるが、りこはりこで、バレー部の練習がある。夏の大会に向けて部の気合も高まっているというから、がんばってこいと、りこを宥める。
「母さんがビデオに撮っておくから」
母さんは、りこの駄々っ子お構いなしで楽しそうだ。親父に使い方を叩き込まれたビデオカメラを用意して、すでに俺たちの姿を収めている。母さん、バッテリーの消耗に気をつけろよな……。
と、家を出たのが一時間とちょっと前。
坂道を校門間近なところまで登ったところで、自身の名を呼ばれて振り返った。
「葉月先輩」
後輩の知り合いなんて、数えるほどしかいない。いや、目下この高校には一人だけ。
「桐原さんか」
「どうしたんですか? ぼんやりして」
桐原理々香は、とみちゃんと比べれば、まだ知り合って日が浅いのか遠慮がある。そこが助かる。とみちゃんがずんずんと攻めてくるので、俺は年下の女の子に弱いのではないかと最近思う。
「んー、真白……会長、結局曲げてくれなかったな、って」
「そのことですか……」
桐原さんはあのとき生徒会室を訪れ、俺も同席した状況で、莉緒に関する報告をした。
『桐原理々香さんの情報で、何らかの悪質な行為があったのは明らかです』
真白は言った。
俺は桐原さんに先立って生徒会室を訪れ、状況を確認していた。莉緒の出場種目希望が提出されていないことがわかり、その時点では、未提出は莉緒の責任だから、穴埋め的に莉緒が不人気種目などに割り当てられるのは当然。俺はそれを聞いて止むなしと思っていた。いや、なんとかしてやりたい気持ちは残っていたが。そこへ、桐原さんからの情報が加わった。
『ですが、すでに出場種目は発表されたうえ、逆に弟さんからは何の届けもない』
真白は生徒会長の顔で、俺を見た。
「あのときはすみませんでした」
俺は桐原さんの発言の意図の説明を待つ。
「私もあのときは、自分で自分を助ける気がない人の面倒なんて、見てやる必要はないって思ってました」
なんか、俺の周りの女子は、自他に厳しい女の子が多いのかな……。
「でも、不正があった証拠も見つけたのに、莉緒くんは、がんばってみる、って決めて」
「ああ……」
けっきょく莉緒は、桐原さんと俺に、がんばる、と晴れやかに言ったのだった。
「ああ言われちゃあ……な」
莉緒の晴れやかな顔を思い出した。ちょっとだけ強くなった莉緒だ。
片や真白は真白で、『あなたは、一生莉緒くんの保護者をするつもり?』 と。
『じゃあ、せめて近くで見守れるようにしてくれないか』 といったが、 『約束はできません』 と、真白は突っぱねた。
『莉緒ばかり割を食って、不正の方はどうなんだよ』
ちょっとケンカ腰になる。その言葉はあまりに自分の都合ばかりだ。苛立って真白に言ってしまったが、真白にも公平性を持たなければいけない立場がある。もちろん、真白だって不正を快く思う人間じゃないなんて、わかり切っている。
俺は頭を掻いた。
真白は、なんだかんだと、俺を莉緒と同じ赤組にしてくれた。これで、競技以外は近くにいてやれる。ほとんど一日一緒といってもいいくらいだ。ちょうど赤組にいた生徒会メンバーと、俺の名前を差し替えることで、一般生徒の変更が発生しない対応が可能だったからだ。
だが、種目については発表済みで、割り当てられた人たちがいる以上、差し替えはえこひいきになる。だから、そこはそのまま。
とにかく、俺は見守るしかないが、真白の差配は的確だった。真白に言ってしまった言葉が、申し訳なくて身に染みた。真白はちゃんと考えてくれていたのだ。
開会の花火が、まだ朝早い町内の空に上がる。
青空に白い煙が小さく爆ぜた。
長年のセレモニーだ。ご町内には事前に青陵高校の体育祭の日取りが回覧され、花火や放送に対するお願いが根回ししてあるという。
その代わりといっては何だが、何十年も前から青陵高校の体育祭は、学園祭と同様に外部者が観覧可能だ。当然、保護者も来るが、近所のお年寄りも賑やかさを楽しみにしているらしい。
学校施設が関係者以外立ち入り禁止の昨今ではめずらしい、と俺は思っている。
校門と昇降口までの間にある広場には、少ないがキッチンカーも来てちょっとしたお祭りだった。
校門からグラウンドに至る動線から、グラウンドの各組の待機エリアは、飾り付けられて体育祭モードに切り替わっている。場内には、うっすらと音楽が流されていていよいよ激戦の開幕が待たれた。
今日は、一段と暑くなりそうだ……。




