第八話(3)
事件後、莉緒は通院するようになった。精神面のこともあるが、莉緒の体つきのことに関する受診についても含まれる。
莉緒の女性的な成長の原因を調べると同時に、事件と、それからより根本的な、体に向き合う心のケアを必要としていた。
親父は単身赴任先との往復ということもあって、体力的にも休暇の取得の面でも限界だった。仕事を辞めて戻ってくる相談まで両親がしていたのを、俺は忘れない。
現実的な家族を支える収入のことも考えて、親父が仕事を辞めるのは無しとなった。働くこともまた、家族を守ることだって、俺は学んだ。
そこからは母さんががんばってくれた。
しばらくは、毎日のように母さんが莉緒を病院に連れて行った。検査によっていろいろな病名も付いたが、簡単な解決がないことを俺たち家族は理解した。
カウンセリングを踏まえた上で、医師の勧めにより、体を守るという意味から莉緒はスポーツブラをつけるようになった。
あれから、一年半くらいか。俺は莉緒の手を握って、バスに乗っていた。
もうすぐ我が家だ。車窓は見慣れた景色が流れていた。
京都のファミレスで、莉緒を見つけたときも、莉緒の手を引いたっけ。
今日、俺が莉緒といった病院は、そのころから世話になっている大学付属の総合病院だ。
待合室で、莉緒と二人で待つ。意外とすぐに呼ばれた。
莉緒と二人で診察室に入ると、五十か六十、そのくらいの歳に見える紳士風のドクターが待っていた。正直、十代の俺にその辺の歳の見分けは難しい。
名札を見て毎度思い出す。倉松という医師だ。医大の教授だと、世間話に母さんから聞いた気がする。
倉松医師は、俺を見て顔には出さなかったが、父か、せめて母であったらよかったのにと思ったようだ。つまり保護者に来てほしかったのだろう。
倉松医師は、基礎的な健康について問題がない。むしろ健康そのものだから安心しなさい、と莉緒をリラックスさせるように、最近やったのであろう、健康診断の結果を話した。
「では、莉緒くんは待合で待っててくれるかな」
倉松医師は莉緒だけを名指しした。
「はい、失礼します」
意味を察して莉緒が診察室から出ていく。俺は一礼する莉緒を軽く笑顔で見送って、倉松医師に向き直った。
先日の定期検診でね、と医師は前置きした。
「本当は、弟さんには、ちかぢか親御さんと一緒に来てほしい、と言ってあったんだよ」
「先生……俺、いや僕では、父兄ということにはなりませんか」
倉松医師……先生は、少し俺の顔をじっと見てから、それに対する答えを返してきた。
「お兄さんである君は、精神面で莉緒くんを支えていて、親御さんからもそのように扱ってよいとは聞いている」
ふう、と医師は悩んだようなため息をついた。
「弟は、今日、ここへ一人で来るつもりでした。僕が病院に行くと知ったのはついさっき、偶然知ったんです。病院に呼ばれたことを、りおは誰にも言えなかったんです」
「そうか……もっと、負担のない伝え方をすればよかったね。悪かった。今度莉緒くんにはあやまっておくよ」
先生は、対話すべき相手と、未成年の俺を認めてくれた上で、用件に入った。
「まず、この問診票を持ち帰って、莉緒くんに記入してもらってほしい。莉緒くんの気持ちも考えて、ほかのご家族に問診内容を知られないように、または知られているとわからないようにしてあげることも考えてくれ」
そう説明する意図を、問診票の中身を見て俺は理解した。その内容は、思春期の、特に内気な子供には答えづらいかもしれない、体に関する内容だった。
つまり、異性への興味とか、それに対する体の反応(勃起とか、精通とか)を尋ねる項目も並ぶ。
俺の確認を経て、先生は封筒に問診票を入れて封をした。
「その問診は、最初に通院してもらったときに書いてもらったんだが、その後の変化を確認するためでもある。念のため、問診結果も踏まえて慎重に判断していくのだけれども、差し迫って急を要する治療は必要ない。先ほどの健康診断の結果のとおり、日常生活を送る分には、いたって健康」
それは本当に喜ばしい事なんだと先生は言った。遺伝的な疾患がほかにあってもおかしくはない、とのことだった。先生はそのほか言葉を尽くして説明してくれたので、俺は素直に喜ぶことにした。
そのあと、先生は今日、伝えたかったであろう部分を、なるべく平坦に伝えた。
「おそらく莉緒くんは、将来も含めて、男性として子供を作る能力を獲得できない可能性が極めて高い」
まだ高校生の俺には、子供を作れないことの重大さが、実感できなかった。だから先生が発する淡々とした言葉を、そのまま受け取るしかない。
そのあとも、俺はただ受け止めるしかなかった。
今後の治療方針は、本人の気持ちがより重要になる。
「これからの治療は、君も聞いたことがある言葉かもしれないが、いわゆる性自認、自分の性別を自分がどう思っているかという認識と、外見を少しでも合致させてあげることが主眼になる。もちろん、今のままというのも、悪い事ではないよ」
日常的に健康。さしあたって急ぐ必要はない。いうなれば、あとは莉緒の気持ち次第で未来を選ぶことができる、ということだった。
だが裏を返せば、選べるといっても本来みんなが当たり前に持っているものに、中途半端な形で近づくだけに過ぎない。そんな裏を返した事実までを、わざわざ先生はかみ砕いて話すことはしない。しなかったのに、そう思う俺がひねくれてるのかなぁ。俺は天井を見上げた。
そうして涙が落ちそうになるのを、俺はこらえた。
家路をひた走るバスは、もうすぐ終点だった。
莉緒の手を握る俺の手は、いつの間にかすごく汗ばんでいて。
「わ、すまねえ。気持ち悪いよな、兄貴に手を握られるなんて」
バス一台分の車庫があって、バスは転回すると、そこに入る。終点まで乗っていたのは俺と莉緒だけだった。
俺と莉緒は、ゆっくり家までの小道を歩いた。
「……ごめんなさい」
莉緒が、そう謝った。俺が無言過ぎたのがいけなかったのだ。言葉を探して押し黙って、莉緒を不安にさせてしまった。
「ごめんなさい……今日のこと、話しづらくて」 莉緒は小さな声で言った。
「ちがっ……」 焦って大きな声が出そうになって、俺は深呼吸した。
保護者を伴って通院する。それを、母親にも、兄である俺にも、莉緒は相談できなかった。
患者本人に直接言わず、まずは家族に話すという形式。何らかの告知があると莉緒は悟っていたのだ。
俺は、あれ以来、莉緒の心を軽くすることだけを考えた。今だって、その方針に変わりはない。
「いや、りおが謝ることじゃないんだ。先生も謝ってたぞ。プレッシャー掛けてしまったって」
なんてことない、って風に俺は話した。そうしなきゃ、ダメなんだ。
でもその程度じゃあ莉緒の顔は明るくならなくて。
「あまり、いい話じゃなかったんでしょ? 僕に直接聞かせられない、悪いお知らせだったんだよね? 僕、お母さんに、申し訳なくて……」
悪い知らせ……それを俺が否定していいものではないから、言葉に詰まった。
子供が作れない体。俺には実感のわかないことだけど、大した問題じゃないと、元気づけることはできない。それに莉緒の心配どおり、親は哀しむだろうな……
「健康診断な」
「……うん」
「すげえ健康だって、先生言ってたぞ」
「うん……」
「兄ちゃんな、ごめん。うまく、りおを元気づけられない」
莉緒は、莉緒の顔を見れなくなった俺を、元気づけるように、抱きしめてくれた。




