八幕 金城郡の計吏
光和六年(西暦一八三年)。
涼州金城郡允吾県。
金城郡の郡治である。
郡治とは、郡内にあるすべての県城を管理する県城のことを指す。
郡の最高官である太守が滞在しており、県城の政庁にも県令府とは別に太守府がある。
その太守府の官吏用宿舎から一人の男が出てきた。
「………………………はぁ。空が青いなぁ、おい。おかしいなぁ。おかしいよなぁ。この、バカ郡がよぉ」
ぼさぼさの黒髪に隈のついた濁った眼、背筋の曲がった猫背。よれよれの着物。そして、大量の竹簡を両手に抱えてふらふらと歩いている。
少し立ち止まり、空を見上げて、寝不足の目をしょぼしょぼとさせながら恨めしそうに呟き、ため息を吐く。
「ひっ」
そんな男を見て、ひとりの少女がひきつった悲鳴を上げた。
その声に、男が反射的に振り返る。振り返った先に見知った顔を見て、どんよりとした視線を向けた。
「あのね。朝っぱらからやめてね。ただでさえ、最近寝不足で目つき悪くなってるんだから」
「え、ええ。そうね。あなたの顔に驚いてしまって。あなた、その目、不審者、いえ、あの、性犯罪者に見えてしまって」
「悪くなってる悪くなってる。そこは、『不審者』って言った後、ちょっと上げないとダメだろ」
「上げ………る?」
「なんでそこで言葉わかんなくなるんだよ、ったく。やめろ、首をかしげるな。お前ただでさえ可愛いんだからこっちが悪いことしてる気分になるんだよ」
「あら? 私が悪いの?」
「急に人を罵倒してきて悪くないってどういう了見なんですかね」
ため息を吐くと、男は少女を指し示していた竹簡を下げ少女に向き直る。
「で、なんの用だ、辺雪」
呼ばれた少女は長い黒髪をさらりと揺らしながら手提げの中から箱を取り出した。
「父さんからあなたに届けるよう言われたのよ。最近、仕事が忙しいらしいじゃない」
「忙しいなんてもんじゃねえよ。まったくやってられんわ。どいつもこいつもいろいろごまかしてて。帳尻合わせるこっちの身にもなってほしいってもんだよな」
「あら。帳簿をごまかしてるってことなら、犯罪じゃない。訴えを上げるべきなんじゃないかしら」
「俺の仕事は帳尻を合わせることでな。犯罪を取り締まるのは俺の仕事じゃないんだよ。クライアントの要望にはできる限り答えないといけないからな」
「それで犯罪の片棒を担いでるんだから世話ないわね」
「まあ、それに関してはそうせざるを得ないこの社会が悪い。俺はそんなことせずに、誰とも対立せずに悠々自適に引き籠っていたいだけなんだがな」
「それで」
辺雪は会話を止めると、男を見上げた。
「私はいつまでこれを掲げもってなければならないのかしら。いい加減受け取ってくださる? 韓伯章殿?」
「それ、俺宛だったのかよ。変に受け取って訴えられたら怖かったから無視しちまってたよ」
「あなた、言語もまともに受け取れないの? 父さんからあなたに届けるように言われたって言ったじゃない。お弁当よ。しかも、私の手作り。ありがたく受け取ってむせび泣くといいわ」
「むせび泣かねえよ。でも、ありがたく受け取らせてもらうわ。さんきゅな」
男が辺雪に笑いかけて、彼女が差し出している弁当箱を受け取ろうとする。
しかし。
「ひ」
辺雪は一歩後ずさる。それが原因で、男の手は空を切った。
「あ、あなた、あまり笑わない方がいいわよ。特に今の顔では。恐ろしい幽鬼に見えるわ」
「ご忠告どーもありがとよ。俺、もう行かなきゃだから、弁当、受け取っていいか?」
姓は韓。名を約。字を伯章。
涼州金城郡の計吏に任命された男だ。
計吏は郡や国の経営情報をまとめて洛陽に提出する役職で、下級の役人がこれに充てられる。
一年に一度の仕事ではあるが、金城郡の領する県は十県。それぞれの財政状況・異民族の動き・監獄の状況・兵士の動き・山林や河谷の収益・貿易の利益・地理の変化などの報告をまとめ上げなければいけない。
膨大な資料。それを過不足なく整理して提出しなければならないのだ。
むろん、提出して終わりではない。
提出した後は、洛陽に滞在して、聞き取り調査を受けることになる。
噓の報告をしていることがばれれば、当然罪に問われる。
それなのに、各県の長たちは平気で適当な報告書を上げてくる。
それを何とかつじつま合わせをするのも、計吏の仕事だった。
「陳太守。今年の計簿が完成したので確認をお願いします」
「ん。承認~」
「………………………は?」
韓約が太守府の太守室に入ると金城郡の太守である陳懿が手をひらひらと降って応じてきた。
応じるとは言っても、韓約とは目も合わせないようなひどく適当でずさんな対応だが。
「あの、確認してもらわないと困るんですけど」
「あのねぇ。あーたねぇ。わかってるぅ? あーたは、この、陳感嘆が選び出した計吏なのよぉ? あーたの作った計簿。完璧に決まってるじゃない。わざわざ確認するまでもないってぇの。あたちはあーたが動き回ってるのを見たわぁ。その働きぶりを見てれば、わざわざ計簿を開くまでもないってぇの」
陳懿は韓約にそう答えながら、爪を磨いている。
「いやまあ、その評価は、ありがたいんですけどね。じゃあ、俺は少し休みます。週が明けたら洛陽に計簿を届けてきますので、それまで、太守府で保管しておいてもらえますか」
「わかったぁ」
また、陳懿は手をひらひらと降ると、最後まで韓約と目を合わせずに、爪の手入れを続けていた。
「………………はぁ。大抜擢してもらった恩はあるんだけど、あの人はどうも苦手だなぁ」
韓約が呟きながら太守府を出て政庁を歩いていると、後ろからいきなり肩に手を回された。
「や、カンハク。今日もぶつぶつと独り言か? 誰が苦手だって?」
「お前だよ。お前が苦手だよ、俺は。離せ」
そう言って、韓約が背後を睨みつけると、人の好さそうな青年がキラキラと眩しくなるような笑顔で立っていた。
相変わらずつれないなぁ、と笑いながら韓約から離れる男。辺允、字を仲遂という。韓約と同年で、督軍従事の任に就いている男だ。更に言えば、韓約が今朝絡まれていた辺雪の父でもある。
督軍従事とは、軍部における違反の取り締まりを行う職だ。
刺史の属官であり、州内の軍を監督する。
同年代でありながら、片や州を舞台に立ち回り、妻も子もいる出世街道まっしぐらの働き盛り。片や郡を舞台に使い走りのような仕事をしている独り身男。
そういう意味でも、韓約はあまり長く辺允と一緒にいたいとは思えなかった。
「そういや、セツに会ったか? 今日あたり、弁当届けに行くとか聞いてたけど」
そう言われて、韓約は朝渡された弁当箱を掲げる。
「ああ。めちゃくちゃ美味かった。お前のついでなんだろうけど、死ぬほど感謝してたって伝えておいてくれ」
そんな言葉を聞いて、辺允は眉をひそめた。
「そういうのは自分で言った方がいいんじゃないか? 謝意は相手に直接伝えるのが最も喜ばれるもんだ」
「そういうのはやる人間によるんだよ。お前みたいな器量よしならともかく、俺みたいな、朝から悲鳴を上げられちまうような人間とはあいつもあまり顔を合わせたくないだろ。お前からあいつに言っといてくれ」
「また君はそういうことを、って、ちょっと待った。悲鳴を上げられたのか? 何をしたんだ、君は」
「何もしてねえよ。朝歩いてたら、顔を見て悲鳴を上げられたんだ。なんでも、寝不足で顔がヤバかったらしくてな。オタクのお嬢さん、人の顔を見るや『あれは、不審者!? いえ、性犯罪者!?』なんて抜かしやがる。また怯えさせんのも悪いし、弁当箱もお前から返しておいてくれると助かる」
そう言って韓約が掲げていた弁当箱を辺允に渡そうとするが、辺允は顔を手で覆って何やらぶつぶつと呟いていた。
「あのバカ娘は。どうしてそうやって余計な悪口を言うんだ。そういうところさえ直して真摯に接すれば、この男は簡単に落ちるっていうのに」
「? おーい。聞いてるか? 弁当。預かってくれよ。ちゃんと洗ってあるからさ」
韓約の言葉に、辺允は重いため息を吐く。
「え、何。いじめ? 目の前でそこまで露骨に話すの嫌がらなくてもよくない?」
「そんなことはしてないさ。カンハクの被害妄想だよ」
「いや、無視に、ため息に、わざとらしい名前の間違い。程度の低いいじめ三連撃を食らってるんだけども」
「それくらいは許せよ。可愛い娘に寄ってくる悪い虫なんだから」
「いやだから俺は寄らないように気を付けてますよね? 弁当箱、わざわざそっちの家に顔出さないで済むようにお前に返すって言ってるじゃん」
「………………」
「………………」
「………わかった。預かるよ、カンハク」
「いじめが横行してやがる」
韓約の言葉を、辺允は黙殺したのだった。
「で、いつ出発だ?」
「来週だな。ひと月はゆうにかかるしなぁ」
「そうか。じゃあ、またセツも連れてそっちの家に行くことにするよ」
「―――――――――」
にこやかに言う辺允を、韓約は胡散臭げに見上げる。
そして、空を見上げ、鬱陶しいほどの眩さに、手でひさしを作った。
「督軍従事様にお叱りを受けるようなことはやってないぞ?」
「なに、カンハクのことだ。叩けば何か出てくるだろ? それに、たまに帰った時くらい、娘の機嫌のいい顔を見たいんだ。許してくれよ」
「お前の娘さん、俺を罵倒する時、物凄い笑顔なんだけど、もしかしてそのこと言ってる? 娘の機嫌のいい顔見たいがために俺の精神殺そうとしてるって認識で良かった?」
「ははは」
「いや笑ってんじゃねえぞこら」
二週間後。
司州河南郡洛陽県の県城に韓約はいた。
河南郡は河南尹と呼ばれることもある。
本来は河南郡と呼ぶべきなのだが、首都であることから『長官』を意味する『尹』を文字として使用することもある。同じような理由で昔の首都であった長安県のある場所も京兆尹と呼ぶこともある。
閑話休題。
一年に一度、計吏は洛陽に上京して自分が所属する郡の運営状況を報告しなければならない。
そんな時、国が最も困るのが嘘の報告をされることだった。
だから、何が起こるかというと。
「韓殿。今宵は我が家で酒宴でもどうですかな?」
「おっと。韓殿。今宵は我が家でと先日言われましたよな」
めちゃくちゃ歓待されるのである。
「あー、いや、そっ………スねぇ」
韓約から見れば、圧倒的に雲の上のような存在の人たちが腰を低くしている。その事実は言いようのない快感を、韓約に与えてきていた。
「ふ、ふへ。ふひ」
思わず漏れる笑いが、長距離の移動で疲れた顔立ちと相まって不気味に見られ、韓約から離れたところではひそひそと話されているのも気づかないほど、韓約は浮かれていた。
「そういえば、韓殿。今宵うちの酒宴にいらっしゃるときにぜひ聞きたいことがあるのですが」
「聞きたいことですか?」
「ええ。金城郡を流れている湟水は季節によって川幅の増減が起こると聞きました。どの程度のものなのでしょうか」
そんな浮かれている韓約に、このように探りが入る。
それに対して答えながら韓約は歓待の渦に揉まれていた。
「韓殿」
韓約がある男に呼び止められたのは、ようやく、歓待の嵐が収まりを見せた頃のことだった。
呼ばれた韓約が声の主を見る。
手櫛で髪の毛の形を整えながら、その男は韓約に笑いかけた。
「韓殿、だよな? 俺はこの地、洛陽の県令をやっている、何遂行という。お前さん、面白い奴だな。うちで飯食わんか?」
洛陽の県令とは、皇帝が鎮座する首都の行政における最高官だ。
生半な人物ではなれない。
何進。字は遂行。
皇帝に嫁いだ女の兄。
男児を産んだ皇后の兄。
外戚の頂点である何進と、地方の低級役人である韓約の、出会いだった。
翌日早朝。
「うむ! 伯章殿。俺の仕事を手伝ってくれている部下に娘がいる。嫁にするといい!!」
「――――――――――――」
(どうしてそうなった!?!?!?!?)
というわけで、ここからしばらくはシーズン2の裏主役・韓遂のお話となります。
韓遂のキャラモデルは『俺の青春ラブコメが間違っている』の比企谷くんです。
韓遂周りはわりと俺ガイルキャラでまとまってますね。
辺允は葉山くんだし、辺雪はゆきのんです。
まあ、あくまでキャライメージなので、全然似てないとは思いますが。そこは佐久彦の未熟さ故ですね。。。