二幕 烈士の願い
漢という国は皇帝を頂点においている。
そして、その下には様々な役割を専門とした大臣たちが存在する。
皇帝は国家の最高権力者として君臨しており、畏敬の念を一身に浴びる存在だ。
この地域では、古来、様々な国が興り、そして滅びていった。
古くは『天子』と呼ばれていた至尊の存在が、始皇帝が六つの大国を滅ぼしたことを契機に『皇帝』と名を変えて全土を支配した。
始皇帝によって制覇された大陸は、その後すぐに荒れた。
が、始皇帝が始めた『皇帝』という呼び名は残った。
『全土を支配している』という、その証拠とでもいうように。
始皇帝の後、政変により三度、国が変わっている。
秦から漢へ。漢から新へ。そして、新から再び漢へ。
漢は一度途切れたために、前漢と後漢に呼び分けられているのだ。
このように国が変わっても、国の頂点に君臨する者には『皇帝』という称号がつけられた。
王朝が続く限りは皇帝の一族の長男が皇帝を継ぐ。
後漢は現在、建国から百五十年、十二代目の皇帝がその地位に就いていた。
皇帝は絶対不可侵の存在だ。
あらゆる法律よりも、皇帝の言葉が優先される。
官職を金で売る。そんな無茶苦茶もまかり通ってしまうのだ。
故に、それを止めるストッパーともいうべき制度もある。
上表。
上疏や上奏とも呼ばれる、皇帝への意見上申制度のことだ。
それぞれに意味合いが少しずつ違う。
上表は意見を書いた文書を皇帝に提出すること。
上疏は箇条書きの文書を皇帝に提出すること。
上奏は皇帝に意見を申し上げること。
上表、上疏と上奏は文書による意見具申か言葉による意見具申か。
上疏と上表は簡略化されたものか否か。
これは、地方、中央にかかわらず全ての官吏が行えるものだった。
直接宮中に意見書を持っていき、提出する。
それを受け取るのは中常侍だ。
中常侍はその訴え文を開き内容を読む。そして皇帝に提出する。
皇帝はそれを読み、処理に必要な部署にその裁可を任せる。
中常侍が実権をもったのはこのためだ。
訴え文を読み、『世を乱す』と判断したものは握りつぶした。
その強権によって、中常侍の世は作られている。
皇帝の専横を止めるための制度が、中常侍の専横を許してしまっていた。
「ふむん」
中常侍の中でも特に力をもった十二人の宦官。
その中でもとりわけ力をもった存在である張譲は受け取った上表を見て、つまらなそうに鼻を鳴らした。
鼻を鳴らしながら、卓上に置かれている器からブドウを取り出し、口に含む。
ぷし、と音をたてて果汁の飛沫が、上表文が書かれた木簡に飛んだ。
「おやおや。汚れてしまったよ。ほ。ほ」
張譲は甲高い声でそう言うと、傍付きの女官に布巾を持ってこさせた。
張譲。
十常侍の筆頭のひとりで、時の皇帝・劉宏から『我が父』と呼ばれるほど慕われている。
この張譲にとっても、中平元年は激動の年だった。
十常侍が庇護する皇帝・劉宏の叛意だ。
現在の皇帝・劉宏は先代の皇帝である桓帝に子が無かったことから擁立された傍系の家の子だ。貧困に喘ぐ生活をしていたところを拾われたのだ。
劉宏を擁立した者たちは宦官勢力と敵対する桓帝の外戚たちだ。
それらと政争を繰り広げ、宦官勢力が勝利を得た後、劉宏の処理に困った。敵対勢力が擁立した皇帝だ。ゆくゆく、復讐を企てるかもしれない。
そう思って、宦官勢力が排除しようとした。
それを押し留めたのは、当時まだ若かった張譲と趙忠だ。
当時、劉宏はまだ十二歳の子供だ。
幼い子供を殺すのは忍びない。
そんな甘やかな考えは当然ない。
まだ子供ゆえ、政情を理解する知恵も無いだろうと、そう考えた。
偽りの事実を教え込んでやれば、当然信じるほかない。
まだ幼い故、中常侍が職務を代わりに行っても仕方がない。
要するに、傀儡にするに申し分が無かった。
大方、外戚連中も同じように考えて劉宏を宮中に入れたのだろう。
だから、張譲は劉宏に対して殊更に恩を売るように動いた。
殺されそうになっていた貴方様をお救い申し上げた、と。
不慣れな実務に関しては私どもが懸命に補助いたします、と。
そうして、段々と劉宏は張譲と趙忠を信頼するようになっていった。
しかし、劉宏は張譲が想像していた以上に愚かだった。
異民族の反乱がおこり、辺境に将軍たちが送り込まれている間、劉宏は宮中で人を集めて露店を開いた。
庭の土の上に筵を敷いて、宮中で不要なものを集めて官吏たちに売ったのだ。
そしてその金を集めて造園業者を呼び、庭を飾った。
別の日には売り上げを使って町で酒と女を買ってこさせ、夜を徹して遊んだ。
度を越した愚かさだった。
もちろん、政治には見向きもしない。
だからこそ、十常侍は簡単に実権を握ることができた。
暖簾をくぐるかの如く簡単な実権掌握に、張譲の方が劉宏に何度か苦言を呈したほどだった。
しかしそれでも、劉宏は商いの真似事を辞めることは無く、ついに売官まで始めた。
官職を金で売り出したのだ。
さすがの張譲も、これには泡を食った。
『何を考えているのですか、陛下! あなたは国政を司る官職を何だと心得ておりまするか!!』
つい、そんなことを言った。
張譲たち十常侍の権勢は、秩序だった国家があってこそのものだ。
その秩序を簡単に壊されてしまえば、困る。
しかし。
『はっは。大事な国の要だ。なればこそ、金を払えるほどの能力をもった者がなるべきだろう?』
そんなことを、劉宏は言った。
言った、はずだ。
張譲は良く覚えていない。
張譲の印象に残ったのは、劉宏の隠そうとして、しかし隠し切れない、寒々しいまでの虚ろな声音だった。
以来、張譲は劉宏を諫めようとはしなくなった。
趙忠は未だに何か劉宏がやらかすと小言を言っているが、張譲はもうやめた。劉宏に対して、『国家は安寧だ』と言い含め、表舞台に立たせないようにして、実権を可能な限り削いだ。
そうして無力化しておかないと、劉宏は何をやらかすかわからなかったのだ。
得も言えぬ不安は絶えず張譲の中に澱のように残り続け、
そして、光和七年(西暦一八四年)にそれが爆発した。
『国家安寧。君たちがそう言うからそれに従ってあげてたけど、ここまで大々的に決起されたらもうダメだね。しくじったね、張譲。これは君たちの過失だよ』
黄巾党が国内で大決起を行い、決起文が国中にばらまかれた。
劉宏はその文を読み、張譲に笑いかけた。
『残念だったな』と。
そして、劉宏はあろうことか今まで宦官勢力が必死に牽制してきた外戚の勢力に実権をもたせ、宦官勢力の上である大将軍に配したのだ。
宦官勢力の筆頭として軍議の場に出た張譲は、卑賎の生まれである外戚の男、何進に、顎で使われる屈辱を味わった。
散々世話をしてきたというのに、劉宏は宦官勢力よりも外戚勢力を選んだ。そう言って怒る者も多かった。
飼い犬に手を噛まれた。
それは、栄華を貪ってきた十常侍にとって、青天の霹靂ともいえる激動だった。
それでも張譲は焦らない。
劉宏は愚かではない。
常人の及ばないようなことを考えて、己すらも暗愚と偽るほどの器をもっている、かもしれない。
しかし、政争というのはそれだけで勝てるほど温くはない。
己を偽ることなど、宮中に出入りする者ならば当然身につけている標準装備だ。何も特別なことではない。
趙忠などは劉宏が無垢であると頭から信じ込んでしまっている。
しかし、彼ももう二十八歳だ。宮中に招かれて十六年。
いつまでも子供が無垢でいられるわけがない。
その辺り、劉宏が趙忠を『我が母』と呼ぶのに相応しかった。
まるで母親のように、趙忠は劉宏をいつまでも手のかかる子供だと思っているのだろう。
だから、余計な心配をする。
何進を大将軍としてしまったのだ。このまま何進の言葉を受けて自分たちの実権を何進に譲るのではないか。
そんなことは起こらない。と、張譲は予想している。
劉宏は愚かではない。
しかし、それだけだ。
愚かではないからこそ、ここで宦官勢力から実権を奪うことの無意味さを理解している。
宦官勢力をひとまとめに大粛清するというのならまだしも、下手に宦官勢力を無碍に扱って、在野で燻る黄巾軍に合流されたり、新たな反乱の火種になられる方が厄介だろう。
劉宏からしてみれば、ひとりひとり、何かの失策にかこつけて失脚させていくしかない。
「そう考えていたところに『これ』はまさしく、運は我の手にあり、というやつかねぇ」
張譲は木簡をじゃらりと鳴らして、立ち上がると、皇帝の居室へと向かった。
張均は予想外の事態に面食らっていた。
本来、上表は受理されるのにも長い時間がかかる。
急を要する上表の場合、そうとわかるように記入が義務付けられている。
しかし、結局のところ、皆がそれをやりだしてしまうから意味のない決まりだ。
自分の訴えは後回しでもいい。
そんな悠長な人間は訴えなど出さない。
だから張均も、期待はしていなかった。
しかしせめて少しでも急いでもらえるように、表にも簡潔に訴え内容を記載した。これも今では誰でもやっていることである。
皇帝への取次を行う中常侍たちに少しでも迅速な処理が必要だと思わせなければならない。
嘘を書くわけにもいかないので、正直に記した。
『董中郎将と共に戦場を駆けた幽州の義勇軍が報酬ももらえずに故郷に帰ろうとしている』
これなら、早めに動いてくれる。
そういう予想はあった。
しかし。
「子烈殿。しばらくぶりだったね。いやあ、働いてる場所が同じでも、部署が違うとなかなか会えないものだ。そうでなくても、今年は忙しかったからねえ」
まさか、当日の内に呼び出されるとは思ってもみなかった。
張均は僅かに呆けながら拱手する。
「は。いえ、さすがに、張中常侍さまと私とでは立場も大きく異なります。なかなかお会いできなくても仕方ないかと」
「それもそうかもねえ。それで、『義勇軍』か」
「はい」
張譲は眉をしかめて張均を見た。
「実はね。戦後の処理が多大だ。故に戦功第一位の皇甫中郎将だけ特別に褒賞を渡し、後の者は年が明けてから改めて沙汰を出すことになったんだよ」
「それは」
そうなると、張均にできることはもう何もない。
戦功第一位の皇甫嵩は別にして、おそらくは第二位である朱儁ですらもらっていない褒賞を、一介の義勇軍が受け取れるものではないだろう。
張均は悔し気に歯を食いしばった。
「しかしな」
そんな張均を慰めるように張譲は、言葉を紡ぐ。
「義勇軍と言ったな。義勇軍は漢の官吏というわけではない。俸給も無く、命を懸けさせてしまった。それに報いる必要はあるだろう」
「で、では!?」
張均は身を乗り出す。そんな張均を、張譲は微笑ましそうに見た。
「陛下に申し上げたところ、すぐに子烈殿の話が聞きたいと仰ってる」
文章ではなく、言葉で直接話をしたい。
そう言われ、張均は顔を青くして震えることしかできなかった。
謁見の間。
広間の奥に階段があり、その奥に皇帝が座る。
君臣はその階段の下に侍ることしかできない。
張均は、拝礼をして蹲ることしかできなかった。
そこに、声がかかる。
「張均、だね。顔を上げていいよ」
優し気な声音が天井から降り注ぐようにして、張均の耳朶を揺らした。
「――――――」
張均は言葉を発することができない。
いったい自分がなぜ、ここにいるのかということすら思い出せなくなってしまっている。
そんな張均を見て十二代皇帝・劉宏は困ったように笑った。
張均の態度は珍しいものではない。
これが普通だ。
変にかしこまられるのが苦手な劉宏は、日頃会うことが多い大臣職の者たちには、普段は礼儀は略式でいいと伝えていた。
天上人のように持ち上げられているが、劉宏は歴代の皇帝の中でも一、二を争うほどの庶民の出自だ。
生きるのにも困窮するほどの家で育った。
そんな自分が、今ではこのように、様々な人にかしずかれている。
わからないものだ、と思うほかない。
「さて、張均。話にあった、義勇軍というのについて教えてもらえるかな」
その言葉に押されるように、張均は話し始めた。
龍騎団の結成過程。
幽州刺史の認可。
幽州内の里の強化。
幽州を飛び出して、奇襲を受けていた董卓を救援したこと。
鉄門峡での逆襲。
そして、決戦の地・下曲陽城において、敵の補給線を攻撃し、北岸守備兵を撹乱。
三百という小部隊とは思えない活躍だった。
劉宏はその説明を聞いてポカンとする。
「………ええと、それは、何かの小説のお話かな?」
「いえ、あの、事実なのでして」
「そして、その義勇軍の頭首が『劉玄徳』と」
「はい。あの、ご存じなのですか?」
張均が恐る恐る尋ねる。それに、劉宏は首を振った。
「いやあ、心当たりはないね。まあ、そうは言っても、劉氏か。それもまた、できすぎなくらいだね」
呟くと、劉宏は手を挙げた。
控えていた張譲が地図を持ってそばに寄る。
「出身は………涿県か。ふむ」
劉宏は手渡された地図を広げながら、座っている近くに置かれた卓から木簡を取り上げる。
地図には県城の名前が書いてある。そして、木簡には各県城に所属している官吏の名前が記されていた。
その名前のいくつかには赤く線が引かれている。
いくつかの木簡を見て、ようやく目当ての部分に赤線が引かれているのを見つけた。
冀州の中山国。
国とは、郡と同じ行政単位を指す。皇帝の親族が領主として封じられると、郡は国へと呼称を変えるのだ。
国の領主を王と呼び、その領地の内政を司る者を国相と呼んだ。
国相の職務は他の郡の太守と同様だ。
中山国は幽州涿郡のすぐ南の国だ。
中山国の南部の県、安憙県に赤線が引かれた名前があった。
その赤線の名前の職業は県尉。
任地での犯罪を取り締まる役職である。
武力もピカイチで、元賊の集団。
そんな存在ならば任せるに足ると、劉宏はそう判断した。
「中山国の安憙県に県尉の空きがある。劉玄徳には龍騎団を率いてそこに行ってもらおう。陶謙の条件についてだけど、そうだな。新しく里を作ってもらおうか。その辺りは安憙の県令と話し合ってもらおう。これでどうかな、張均」
劉宏の言葉に、張均は平伏する。
「は。彼らも喜びましょう。………………………」
平伏したまま、張均は動こうとしない。
「? どうした、張均。早く彼らに伝えに行ってあげるといい」
そう言われても、張均は動かない。
「………………陛下」
「なんだい?」
絞り出されるような声に、劉宏は返事をした。何か迷うような、意を決めかねているような、戸惑うような、そんな声。
「陛下は、龍騎団に褒賞を渡すのですね」
「………。そうだね。もちろん、龍騎団だけじゃない。皇甫嵩にも褒章は渡したし、朱儁たちにも、追って渡していくよ」
「………………」
張均が、拝礼をしながら拳を握り締めた。体が震えはじめている。
「張均?」
劉宏がそんな張均に不思議そうに声をかける。しかし、張均は答えない。聞こえていないように言葉を紡いだ。
「恐れながら、陛下。呂中常侍殿は、どうして罪人となったのでしょうか」
「呂中常侍。呂強か。公表したはずだよ。彼は黄巾軍と内通していた。それは君もよく知っているだろう?」
「それは、おかしいでしょう」
張均が顔を上げた。
その眼差しは、強く劉宏を貫いた。
(ああ。馬鹿。やめるんだ)
「呂中常侍殿は、党錮の禁において、罪人とされた者たちの赦免を願い出たと聞いています。………それは、本当でしょうか」
「………。さあ、どうだろうね。そういう噂があるのは知っているよ」
(これで、攻め手はもうないだろう。諦めるんだ)
「………そうですか。呂中常侍殿がそういう上奏を行ったと噂で聞いたのですが、確かに、それが本当だったとしても、機密でしょうし、私などに明かされるはずがありませんな」
そんな張均の諦めたような表情に、劉宏は小さく息を吐いた。
(どうやら、これで彼の攻め手は)
そんな劉宏の安堵は、
「では、夏中常侍殿はどうして何も処分されていないのでしょうか」
張均の続いた言葉に打ち崩された。
「………………。夏中常侍? 夏惲のことかな? 彼がどうかしたのか」
「陛下。私は夏中常侍殿が今年の初めに病を患った際に、趙中常侍殿から頼まれまして、見舞いの品を持っていきました」
「………それは、初耳だな」
「その場には神医の先生がいらっしゃってました。神医の先生は、夏中常侍殿の頭に黄布を巻いて、罪の告白を行い、その上で薬湯を飲むことで呪いと薬効の二つの方法で治すと、そうおっしゃっていました」
「………………」
「私はこの後すぐに退出しましたが、黄布を巻いた夏中常侍殿をこの目で見ました。これは、黄巾党の親組織である太平道の儀式ですよね? 皇帝陛下の近侍である夏中常侍殿が、反乱を起こしている武装集団の親組織の信徒である。これは、内通を疑われても仕方ない状況だと思います。仮に何もなかったとしても、謹慎などの処罰があってしかるべきでしょう。要職に在りながら、反乱組織と繋がりをもったのですから。呂中常侍殿が内通の疑いのために罪人となったのなら、夏中常侍殿に何も沙汰が無いのは、天下に無用な混乱を招きましょう」
「………………」
「………………」
しばしの静寂。それを破ったのは。
「言いたいことは」
劉宏だった。しかし、声がかすれた。これから起こることを、理解しているからこそ。
「言いたいことは」
もう一度同じことを言う。今度はかすれずに言葉を発することができた。
「それだけか、張均」
「は」
劉宏は、静かに瞑目する。
(張均。そのやり方では、ダメなんだ)
劉宏が目を瞑り、張均が顔を上げた時、第三者の声が二人の間に入った。
「おやおや。これはとんだ粗忽だ。夏中常侍の内通。それがホントならば、今すぐにでも断罪せねばなりますまいな」
声を上げたのは、張譲だった。
「張、中常侍殿」
皇帝に直接上奏を行う機会を得た時点で、張均の言葉は止めることができない。
張譲がどれだけの強権をもっていたとしても、皇帝の耳に届いた言葉を、無かったことにはできない。
皇帝が調査を命じれば、中常侍とはいえ拒否をすることもできない。
「なあ、子烈殿よ。夏中常侍の内通。それの証拠がどこにあるというのか。一年近く前の話だ。とうに、証拠なぞあるまいよ」
張譲の言葉に、張均は首を振る。
「私が言っているのは事実か否かではありません。呂中常侍殿の内通にしたって確かな証拠が出たとは聞いていません。取り調べ中に自害したと、そう聞いております。内通の疑いがある以上、牢に捕らえ、取り調べを行うべきなのではないか。そう言っているのです。少なくとも、私は夏中常侍殿が黄布をつけ、太平道の治療を受けているところをこの目でしかと見ています。夏中常侍殿が潔白ではないと、私は知っている。厳粛な調査を行うべきでしょう」
「調査。なるほど。しかしな、子烈殿。不運なことだ。夏中常侍の家に当時仕えていた召使たちはな。一年ほど前に皆亡くなっている」
「――――――は?」
張均は目を見開き、身体を震わせる。
「当時を知る者たちは夏中常侍の親族のみだ。以前も取り調べは行われたが、神医を夏中常侍の家で見た者はいない。当然、親族の証言だ。信じることもできまいが、他に証言も無かったのだ。そこに、君の目撃証言だ。ただ、これだけでは証拠に乏しいのも事実。そも、太平道と言うが、その言葉を神医かもしくは夏中常侍から聞いたのかね?」
「それ、は」
「黄布を被ったと言うが、黄色は五行の中で『新生』を表す。病を治す呪いとして使うことに違和感はない。その程度の符号で夏中常侍を牢に入れるのは難しい」
張譲は一度言葉を切り、そして張均ににっこりと笑いかけた。
「それに、仮に、だよ。君が見たことが事実だったとしてだ。夏中常侍ともあろう者が、一年もの時間を与えられて何も対策を練っていないとでも? 恐らく、証拠なぞ、処分されてしまっているだろうねぇ」
「―――――――――」
張譲の言葉に、張均は絶句する。
薄々そうだとは思っていても、こうまであからさまに無駄だと言われるとは思っていなかった。
「そう、ですか」
張均はがっくりとうなだれる。
(私に、呂中常侍殿の代わりはできそうにない、か)
自分の力の無さを痛感し、この日、張均は皇帝の前を辞した。
張均が帰った後。
「さて。龍騎団だが、我が父よ。繋がりは欲しいか?」
「ほっほ。いいですね。いただきましょう。彼らの方には私から連絡を取ってみます」
そう言って、張譲も劉宏の前から辞した。
(――――――さて)
皇帝の前から辞した張均は政庁区と居住・商業区を分ける内門に向かった。
上を見ると青々とした雲一つない空が目に入る。もっとも、背後には政庁、眼前には内壁がそびえており、広大な空はそのほんの一部しか見えてこない。
それでも、目に入る範囲では透き通るような青で、そのことが張均の心を浮き立たせた。
(案外、呂中常侍殿もこのような心境だったのかな)
そんなことを考えながら、張均は内門をくぐり、居住・商業区に入る。そこには朝と同じように、若者がたむろしていた。
張均は視線を巡らせて、朝、自分の胸ぐらをつかんだ少年を見つける。
「龍騎団の少年」
見つけて、声をかけた。
かけられた少年―――張飛が面倒そうに顔を上げ、張均を視界に収め、しばらくしてようやく思い出したのか、ツリ目がちな目を大きく見開いた。
「オッサン。朝のオッサンだよな? なんだ、なんか用か?」
「ああ。龍騎団大将の劉玄徳殿はいるか? 褒賞の件で話がしたい」
「褒賞?」
「そうだ。陛下に謁見が叶った。後から追って連絡があるだろうが、その前に劉殿に話しておきたいことがある。―――頼みたいことが、ある」
「頼み?」
張飛は眉をひそめながら張均を見上げていたが、何かに納得したように頷いた。
「ん、ま、了解。今、ビ兄は飯休憩に行ってるんだ。ちょっと待っててくれ。呼んでくる。………それからオッサン」
「ん? なんだい?」
「小腹空いてるか? 昼だけど、ここの串焼きは旨いぜ。いいもんばっか食ってるんだろうけど、たまには庶民の味も楽しみなよ」
「………………ああ、すまないな。金は」
「いらん。あんたは客だろ。待ってな。酒は飲めるか?」
「家でも妻と話をしなければならない。酒はやめておくよ」
「あいよー」
張飛は後ろ手に手を振りながら、近くの飯店に入っていった。
「お待たせした。えーと、張殿」
「張子烈と申します。郎中の役を賜っています」
片手に大皿、片手に杯を持った劉備が、張均のもとにやってきた。
大皿の中には串焼きが多く敷き詰められている。
それを、道の端に置き、劉備もそのそばに座った。張均がどうすればいいのかと立ち尽くしていると、張均の困惑を悟った少女が、劉備の対面に筵を敷いた。
「もう、大将。張さんは都の官吏ですよ? 道端で座って食事をするなんてはしたない真似、できませんって」
そして、その少女も同席するように座る。
「………劉殿。内密に話がしたい」
そう言うが、劉備は首を振った。
「オレは頭が良くない。ウチの地元で長く賊をやってた連中や、流れで武芸者をやっていた奴、闇鍛冶師。そういった連中に頼らないとオレは何もできないんですよ。だから、何か話があるっていうなら、全員で聞きます」
「しかし」
なおも苦言を呈そうとする張均に細面の男―――陳が近寄る。
「そも、アンタみたいな官吏が私らのような奴らと接するってのもまずいだろ。こっちはこの人数でさりげなくアンタを隠してやってるんだ。下手な店に入って足がつくよりよほどマシだろう?」
そう言われては、張均は頷くしかできない。
「………わかった。誰が聞いていてもいい。龍騎団大将・劉玄徳。私は君に恩を売った。その代わり、私の願いを聞いて欲しい」
真剣な表情。しかし、その表情とは裏腹に下卑たことを言い出した張均に、龍騎団は鼻白んだようになる。
しかし、それでも臆せない理由が、張均にはある。
まずは、餌だ。
「朝、あなたたちと会ってすぐに上表文を作成し、提出しました。その結果、陛下に拝謁が叶い、あなたたちのことは報告させていただきました」
その言葉に、龍騎団が湧く。
「そんな、早速動いてくれたんですか。ありがとうございます」
劉備が頭を下げるが、張均は笑って手を振った。
「優秀な人間を冷遇したとあっては、この国の官吏として民に顔向けができません。当然のことをしたまでです」
そう言う張均を龍騎団はみな、意外そうな表情で見た。張飛などは顔が綻んでいる。
漢という国の首都、洛陽の官吏。下級職だとしても劉備たちのような無官の人間からすれば天と地ほどに差のある存在だ。
そんな人間が、自分たちのような矮小な存在に目を向ける。
そんな奇跡が起こるとは思っていなかった。
「結果として、陛下からは褒賞として安憙県の県尉を賜りました」
「県尉、ねぇ」
呟きは韓のものだ。
彼ら、元賊の一団にとって、県尉は長年争ってきた商売敵だ。その身分に自分たちがなるということに思うところがあるのだろう。
張均はそんな胸中を察して苦笑する。
「陛下は、確かな武力をもっているあなたたちに期待しておられました。さらに、元賊というのもいい。蛇の道は蛇、というでしょう。あなたたちにしかできないやり方があるとお考えでした」
「皇帝陛下がそのようなことまで」
劉備はその言葉に震えた。
劉備は現皇帝と同じ劉姓だ。しかし、苗字が同じというだけで何も繋がりがあるわけではない。
遡れば遠い親戚ではあると聞いたことがあるが、当然、そんなことに価値を見出せるような気楽な生き方はしていなかった。
「また、陶幽州刺史が提示された条件に対する褒賞ですが、領地ということでした。こちらは安憙県の中で新たな里を開拓してそこを領地とする許可をいただきました。どこを里とするか。それは安憙の県令と話し合って決めるように、とのことです」
それは、龍騎団にとって望外の知らせだった。
居場所ができる。
それは、龍騎団の過半数がずっと求めて、それでも手に入らず、すっかり諦めてしまった願いだった。
「税収はどうなりますか?」
劉備の幼馴染である簡雍が声を上げた。
彼にとっては、元賊の一団と同じ喜びは感じない。しかし、ひとつの里とはいえ領主となる。それは、楼桑里という田舎の小さな里に住み、そこで一生を終えると思っていた少年からすると、望外の出世話だった。
そういう意味では、簡雍も喜びは感じていた。
簡雍は龍騎団の中で金勘定を主な仕事としていた。それ故に気になるのは領地を貰った後の経済事情だった。
「そこはまだ決まっていません。改めて正式な通達が来ます。その時に問い合わせてみてください。しかし、領地と聞いています。皇帝の親族に下賜される領地と同じものにはならないでしょうが、他の地と同様の税にはならないでしょう」
「では、その際に交渉してみます。陛下は『領地』と言ったのですね?」
「ええ」
「わかりました。ありがとうございます」
張均は、簡雍を眩しいものを見る目で眺めた。
年若い。まだ年若いというのに、必死に考えて、戦っている。
それは驚異的なことだった。
この国で、官吏となっていない者でも優秀な者は大勢いる。それを感じさせられ、嬉しかった。
「さて。褒賞の話はここまでです」
張鈞の言葉に場は弛緩した空気が流れる。
しかし、劉備だけはまだ、強い視線を張均に向けていた。
その視線に、また、張均は誇らしさを感じた。
(ああ。この青年は強い。この青年にならば)
「張さん。頼みたいことがあるって聞きました。なんですか?」
「ああ。実はね。私は失敗してしまった。十常侍のひとり、夏中常侍が黄巾軍と繋がっていたという証拠をつかんで調査をお願いしたんだけど、私は動き出すのが遅かった。面と向かって『証拠は既に処分した』と言われてしまった。陛下が聞いていようとお構いなしにね。残ったのは、愚かにも準備不足で格上に楯突いて不興を買った下級官吏がいるだけとなってしまった」
張均の言葉は、龍騎団にとって想像だにしなかった物語だった。
漢という国は法で治められている法治国家だ。そんな法治国家で、法を無視した行動を官吏が行う。
それは、劉備たちも噂では知っていた。
しかし、こうして、生の体験として聞かされると、驚きも絶望も失望も桁違いに襲ってきた。
「すまない。君たちのような若い者に、このような汚い話は聞かせたくはなかった。しかし、私も手段を選んではいられなくなった」
張均は震えながら大きく息を吸い、吐いた。
「私は遠からず捕まり、殺される。下級官吏が上級官吏に逆らうというのはそういうことだ。それでも私は、妻と娘に誇れる人間でありたかった。どうせ負けるからと逃げるのではなく、勝ちを目指したかった。しかし、敗れてしまった。私は死ぬだろうが、それだけではない。私の妻と娘。私の家の使用人たち。私の親族。全員が、投獄され、死罪となるか、良くて家財を没収され追放されるだろう。そうなったら、待っているのは緩やかな死だ」
「なんだそりゃ!? 無茶苦茶だろ!!」
張均の言葉に、張飛が溜らず声をあげる。それを、張均は嬉しそうにまなじりを下げて見返した。
「無茶苦茶でもまかり通ってしまうのが今なのだ。今年の初めに無実の中常侍が冤罪をかけられて投獄された。彼は冤罪をかけられることこそが恥だと自害をしたという。それによって、自分の無実を主張したかったんだろう。しかし結局は『疚しいことがあったから自害したのだ。罪は事実だったに違いない』とされて、彼の家族も皆、牢に入れられ、家財は没収された」
張均の言葉を聞いて、張飛は悔しそうに歯噛みをした。
他の者も一様にやるせない表情をしている。
そんな中、劉備だけが張均を強い視線で射抜いていた。
「そんな前例があったにもかかわらず、あなたは動いてしまったんですか? それは、良くないでしょう」
「ビ兄!?」
劉備の冷たい言葉に、張飛は瞠目するが、張均は肩を落とした。
「ああ。まったく愚かしいことをした。ただ、今年の初めの中常侍の件は、無実だということも噂だった。彼ほどの人間がありえない、と思う反面、公的には『罪人』ということになった。ならば、そういうことなのかもしれない、と思ってしまった。考えが足りなかったのだ。その報いを、私は受けることになる」
「そうなりますね」
「それでも、私の家族にも、使用人たちにも罪はない。そこでお願いだ、龍騎団大将・劉玄徳殿。任地に向かう際に、彼らを連れていってはくれないだろうか」
「………………。親族と、使用人。だけですか? あなたは」
「私も逃げてしまえば、危険因子を捕えるため追手がかかってしまうだろう。私が捕まりさえすれば、そこまで執拗に追ってはこないはずだ。私の命と引き換えに、いくつもの命が守れるのなら、それは安いだろう」
「………………」
「もちろん、逃げると決めた者たちだけでいい。今日中にここを脱しなければいけないはずだ。慌ただしくなるかもしれないが、頼めないだろうか」
「………………………」
劉備は黙考している。
(やはり、虫の良すぎる話か)
張均は肩を落とす。
何の謝礼もできない。それなのに、皇帝への上表を質に親類縁者の命を託すのは割に合わない話だ。
それでも諦めるわけにはいかない。
なんとかして彼らを救わないと、張均は死んでも死にきれない。
噛みしめた唇からは血が流れ、それでも張均は劉備から目だけは離せなかった。
「田。憲和。それから、陳と韓。オレを含めた五人以外はすぐに出立準備。日暮れの閉門時間まで待って一足先に安憙に向かってくれ。張さん。その時間に間に合わせるように逃がしたい人たちを説得してください。官吏の親族だからって優遇はできません。里を開拓する人足にします。それでもいいという人だけ、広陽門に来てください」
広陽門。
洛陽城の西南にある城門で、政庁から最も距離のある場所だ。
「い、いいのですか!?」
張均の驚きに、劉備は首を傾げる。
「いいもなにも、そうじゃないとたくさん死んじゃうんですよね? それはやっぱり、寝覚めが悪いですよ。『義を見てせざるは勇無きなり』って言うじゃないですか。寝覚めが悪いって感じてんのにやらないのは、弱虫ってことになっちまいます。それは嫌ですから」
にっこりと笑う劉備に、張均は膝を摺り寄せて劉備の腕を掴むと、涙を流した。
「ありがとう! ありがとう!!」
何度も、何度も、礼を言って、劉備の手をかき抱いていた。
その日の夕刻。
張均のもとに出頭命令が下った。
罪状は『国家転覆を狙った罪』とのことだ。
張均にはもちろん心当たりがなかった。
申し開きがある場合は出頭して取り調べに応じるべし。
そう言われ、否やはあろうはずがなかった。
取り調べとは名ばかりで、もはや、張均が悪逆の徒であると決めつけられたような物言いだった。
それでも、何も証拠は無いのだ。
仮に、証拠を捏造しようとしても数日はかかるだろう。
その時間を稼ぐことだけでも、張均にとっては値千金だった。
不意に、張均の意識が遠のく。
(朝から忙しかった。疲れているのか)
そう思った張均は、そんな場合ではないと力を入れようとして、力が入らずに倒れ込んだ。
倒れ込んだ張均を、取調官が起こす。
しかし、張均の体には力が入らない。
何かがおかしい。
そうは思っても、もはや声を出すほどの力も出てこなかった。
霞がかった頭の中で、張均は妻と娘の名前を呼ぼうとして、そのまま意識を失った。
張均。
字を子烈という男は、取り調べの最中に毒を呷り、自害した。
罪を認めたとして、張均の家の家財は没収され、残された家族も投獄された。
しかし、残された家族の数がいやに少ないということに、気づけた者はいなかった。
どこで見たか忘れたけど。
張鈞は十常侍を告発しようとして逆に十常侍にハメられて殺された、という話と、劉備が褒賞をもらえず困っているところに出くわし、皇帝に直訴する話があります。
当初、後者は採用せず、前者だけで話を作ろうとしたのですが、同じ経緯の者で呂強という人がいたので、ひとまず、張鈞は生き延びてもらいました。
最終的に、黄巾の乱が終わっても何も変わらない十常侍を演出できたのでラッキーですね?