一幕 烈士と義勇軍
張均の朝は早い。
空が白み始めた頃に目を覚ますと、隣に寝ている妻を見て顔を綻ばせ、もうすぐ一歳になる娘の頭をそっと撫でてから二人を起こさないよう静かに布団から出る。
夜着のままで庭に出て、壁に掛けてある武器を取る。
剣を振り、槍を突き、戟を払う。
何度も繰り返して体が目覚めるのを待ち、武器の刃先が納得のいく軌跡を描くようになると、持っていた武器を置いて、弓を手に取り矢を番えた。
呼吸を整え、視線を離れた場所にある的に向ける。
そのまま、待つ。
すると、自分と的の間に細い紐が通ったような感覚が訪れる。
その時に指を離せば、絶対に外すことは無い。
そんな確信めいた何かが訪れる。それを捕え、指を離す。
放たれた矢は、張均が思い描いたとおりの進路をたどり、的の真ん中に突き立った。
それを、十度、繰り返す。
弓を下ろすと共に夜着を脱ぎ、庭にある井戸の水を汲んで頭からかぶった。
その頃になると、妻が起きていて、朝餉の支度も終わっている。
妻が縁側に出て来て渡してくる手拭いを受け取りながら、張均は笑顔で礼を言った。
光和七年(西暦一八四年)は大変な年だった。
年が明けるとすぐさま、十常侍の夏惲が病を患った。
評判の高い医者を呼び、その病も治ったころ、呂強が投獄された。
呂強は中常侍だ。
中常侍とは皇帝に近侍して皇帝への取次を行う職業で、男根を切除した宦官だけがなれるものだ。
中将侍の中でも特に力をもった十二人の者たちを『十常侍』と呼んでいる。呂強はそんな十常侍とは対立した存在だった。
そんな呂強が、年が明けてすぐに皇帝に上奏を行った。
『宦官の中で悪しき者あり。恩賞必罰を厳とし、冤罪にかけられた者を救うべし』
というものだ。
呂強も宦官である。
この上奏によって自分の立場も危うくなるかもしれない。それでも彼はこの訴えを行った。
さらにこの上奏の中にある『冤罪の者』というのが物議を呼んだ。
これは、現在までに二度あった『党錮の禁』と呼ばれる弾圧事件の被害者たちを指したものだ。
十常侍を中心とした汚職を行っている宦官勢力を悪として、国に仕える高官たちが集まって宦官を排除しようとした。
宦官勢力はそれを敏感に察知し、私的な派閥形成を禁じ、破った者は禁固刑や官界からの追放などの罰を与えた。
これによって、官界で有能だった者たちは皆、官職を追われてしまっている。
呂強は赦免を行い、彼らを官界に復帰させるべきだと、そう説いたのだ。
十常侍たちはもちろん困る。
せっかく排除した政敵をもう一度復活させることになる。
しかし、表立った反対はできなかった。国益で考えれば、優秀な官吏が戻ってくることに否やがあろうはずもない。
呂強は十常侍を直接攻撃しつつ、党錮の禁の赦免によって十常侍と敵対する勢力を大きくしようとしたのだ。
十常侍と呂強の対立。
いつものように始まった政治情勢の小競り合いは、しばらくして呂強が逮捕され、牢に入れられたことで終わりを迎えた。
様々なうわさが市井を駆け巡った。
十常侍の逆鱗に触れたため、冤罪をかけられたのだ。
十常侍を一網打尽にする暗殺計画を立てており、それが露見したのだ。
十常侍優位の情勢を変えられないことを儚み、自ら出頭したのだ。
などなど。
中には、秘密裏に都に潜伏している反乱組織を炙り出すために十常侍と協力をしている、という眉唾物まであった。
特に最後の眉唾話は、十常侍のひとり、蹇碵が洛陽に潜んでいた黄巾の将、馬元義を捕えたことで流れた噂だった。
どちらにせよ、呂強は獄に繋がれ、そのまま帰ってこなかった。
公式の報告では取り調べの最中に獄吏の隙を突いて自害したという。
後ろ暗いことがあった、と判断した十常侍はさらに呂強の罪を追加し、呂強の一族すら逮捕して家財を没収まで行った。
その後すぐに、黄巾軍が決起した。
将軍たちがそれを征伐に赴いた。
その間、国はずっと慌ただしかった。
張均は公文書を発行する部署である郎中に就いている。何度、市街の立札に『国家安寧』の文字を書いて回ったかわからない。
戦の大まかな流れなども国民に公表していた。
皇甫中郎将が波才を破った。
朱中郎将が宛城を奪還した。
そういったできごとを民の目に触れていい範囲で公表していく。
張均のもとに降りてくる情報は既に精査された後の情報だ。それでも、国内のあちこちで戦争が起こっているのを張均は感じ取っていた。
激動の年だった。
ここまで激しく動く年は今後ないかもしれない。
張均はそう思いながら登庁する。
そして、政庁に入ろうとして、思わず顔をしかめた。
ここ一週間ほど、ガラの悪い集団が政庁の入り口付近に固まっているのだ。
家族という風体ではない。しかし、悪事を働こうとしているわけでもない。実際、通りの店の者たちの表情を窺っても、その集団を恐れているという風ではないのだ。
動きが読めない集団がいる。
それは、少し気味が悪い。
張均は彼らに声をかけてみることにした。
龍騎団。
幽州に割拠する九つの賊団をまとめ上げてつくられた義勇軍だ。
個性派揃いの悪賊をまとめ上げているのは劉備、字を玄徳という十七歳の少年だ。
この集団は、この年の初めに黄巾軍に対抗するために結成されたものだ。幽州刺史・陶謙の認可も受けて公的な組織となっている。
彼らは、幽州内の県城から離れた里(村のこと)の周りに堀を掘り、柵を建てて防御力を上げながら、黄巾軍に触発されて暴徒と化した賊の討伐を行っていた。
その後、更に武勲を稼ぐため、幽州を出て冀州に向かい、中山国の広昌県と上曲陽県の間にある、鉄門峡にて黄巾軍に奇襲を受けて動揺していた董卓の部隊を救援し、その夜には山頂に布陣していた黄巾軍の大部隊を奇襲。黄巾軍の小隊長四人を討ち取る戦果をあげた。
そのまま董卓の部隊に同行し、黄巾軍と漢軍の最終決戦地である下曲陽城に布陣。漢軍大将の打ち立てた水攻めの戦略の邪魔となる敵将を翻弄し、作戦地帯から意識を逸らさせて水攻め成功の遠因を作った。
どれも、漢軍の勝利に決定的に貢献したわけではない。
しかし、戦局を有利に動かすいぶし銀のような動きであったことに間違いはない。
そんな龍騎団は、政庁前にたむろしていた。
洛陽は広大な城だ。
政庁は北宮と南宮の二つに分かれ、両者は橋で繋がれている。北宮は三つ、南宮は四つの門が設けられており、両宮の東西が洛陽の居住・商業区となっている。
北宮の北辺、南宮の南辺は城壁とほど近く、城門もすぐそばにある。東西南北に合わせて十二の城門。それが、洛陽城だ。
一週間前。
漢全土を震撼させた大乱、黄巾の乱で活躍した諸将が洛陽の政庁に集まった。
その際、龍騎団は義勇軍という身分の低さから門兵に足止めを食らった。
それから一週間。
褒美については何の音沙汰もなく、かといって手ぶらで帰るわけにもいかない龍騎団は、そのまま洛陽の政庁前にたむろし続けていた。
「郭ー。どう?」
龍騎団の頭首である劉備が、部下の一人に声をかける。
情報を専門に扱う賊団を率いていた男、郭だ。
「いやあ、大将。これはちょっと難しいかもしれないですよ」
郭は顔をしかめている。
「今回、武勲一番だった皇甫将軍は取り急ぎという形で褒賞を受け取ったらしいですが、他の将は年が明けてから、という状況らしいです。褒賞を与えるよりも先に、各地の混乱を回復しようとしてるみたいですね」
「あー。県令や場合によっては太守も空白の場所があるだろうしなぁ」
劉備も苦虫を噛み潰したような顔になる。
国外から敵が攻め寄せたのではなく、国内での反乱だ。
この反乱に加担した者は数知れず。加担した者の中には地方高官も多くいる。
その者たちはほとんどが失脚した。現在、いくつかの地域が空白地帯となってしまっている。それらの回復こそが急務なのだ。
「とりあえず、現状維持かなぁ。いつ呼ばれるかわからないし」
「うーん」
劉備の言葉に郭は微妙そうな顔をする。
一週間前、董卓が去り際に劉備のもとにやってきた。
『劉。貴様に足りないのは政治能力だ。繋がりを作る力というやつだ。それを意識して行う力が必要だ。それから一つ忠告を。政庁よりの使者がどの門からやって来るかわからぬ。しかし、使者が呼びに来た時に門の前に龍騎団の姿が無かったなら、郷里に帰ったと判断されるだろうな』
そんなことを言って、董卓は歩き去った。
劉備はその言葉に従って、北宮に三つ、南宮に四つある政庁の全ての門の近くに龍騎団の構成員を待機させている。
それでもこの一週間、何も呼び出しが無い。
龍騎団に公的な認可を与えてくれた陶謙から敵将の討伐報酬は貰っている。それをやりくりして洛陽に留まり続けるのには、劉備たちにも理由があった。
陶謙により伝えられた報酬。
敵指揮官の首に見合った額の金。
そして多くの指揮官を倒した際の報酬である領地。
金はもらった。
領地はもらえるのか。
それが龍騎団の関心事だった。
ここで領地を貰えるかどうか。それによって、龍騎団の面々が賊に戻るのか、それともまっとうに生きるのかが決まる。
劉備としては、もちろん、共に戦った仲間が平和に暮らせるのならそれに越したことが無いと考えている。
だからこそ、無為な時間を過ごしていると感じても、待ち続けてしまっている。
龍騎団の構成員のひとりである張飛はイライラと、焦れた様子を隠そうともしないで政庁の門前に佇んでいた。
張飛は劉備ほど仲間のためを思っているわけではない。
ただ、もらえると約束されていたものが反故にされることに納得がいかないのだ。
故に、張飛はイラついていた。
そこに不幸な者がちょっかいを出す。
「そこの者ら」
声をかけられた龍騎団の面々がそちらに顔を向ける。
そこには、文官風の服装の男が立っていた。
「ここは官吏の通る道だ。このようなところで何をしている」
「―――あぁ?」
その場にいた者たちの表情に焦りが浮かぶ。
その様子を、声をかけた男―――張均は見てとった。
「何か企んでいるのではないだろうな」
張均の予想も仕方がない。ただ、龍騎団の焦りは、よりによって一団の中でも苛立ちを募らせている張飛に声をかけたからだった。
「なんだ、オッサン」
張飛の言葉に、張均は僅かに目を丸くする。張均にとって、子供が大人に示す態度ではなかったからだ。
しかし、学の無い者に文句を言っても仕方がない。
張均は意識を切り替えると名乗ることにした。
「私は張子烈という。この城で郎中の役に就いている者だ」
「郎中?」
「公文書の発行を主な職務としている」
その言葉に張飛は頷く。
頷くが、
(なら最初っからそう言えよ。厭味ったらしく専門用語を言わないといけない決まりでもあんのかね)
張飛の表情から不満は消えない。
次いで、ちらりと辺りを見渡す。
義兄である劉備と関羽が見える。それによって張飛は安心する。
多少無茶をしても良さそうだった。
「さて、私は名乗ったぞ? 君の名はなんだ。ここで何をしている」
そう言ってくる張均に、張飛は歩み寄った。
「何をしてるかって? そりゃこっちの台詞だ! オレたちは龍騎団。董仲穎の陣に参加して武功をあげた幽州刺史認可の義勇軍だ! 褒賞がどうなるか、沙汰を待っているところだ。もう一週間もな!」
噛みつかんばかりの張飛の様子に、劉備と関羽が進み出る。
「ヒー。失礼だろ。戦後処理で対応ができないんだって。誰彼構わず喧嘩を売るんじゃないよ」
「然りだ。我らは待つことしかできぬのだ。そう遠くないうちに連絡は来よう」
その様子を、張均は先ほどとは異なる感情で瞠目して見た。
「………………。詳しく話を、聞かせてもらえるだろうか」
張均が改めて龍騎団に向き直る。
一同は、ようやく進展した状況に、疲れたように一息ついた。
確認してくる。
そう言って、張均が政庁に入ったのを見届けた後、張飛はここ一週間のイラつきが幻であったかのように晴れ晴れとした笑みを見せた。
劉備や関羽も若干、肩の力を抜いている。
それを見て、王は緊張に強張っていた体から力を抜いた。
王は、名を安という。
幽州に跋扈していた九つの賊団のひとつ、青衆に所属していた。
青衆は構成するメンツが皆年若いが、その中でも王安は飛びぬけて若い。
にもかかわらず、青衆の頭領である魯は王安を副頭領に据えていた。
王安は様々な人に様々なことを学んでいる。
今は特に年の近い張飛によく懐き、色々なことを聞いていた。
張飛からしてみればなぜここまで懐かれているのかわからない。しかし、尋ねられることに答える。そういう関係だった。
今回もそうだ。
王安は張飛に近づく。
「翼徳さん。ビックリしました。あの人を殴っちゃうかと」
安心したように声をかけてくる王安に、張飛は相変わらず(なんでいつもオレに話しかけてくるんだ?)と疑問に思いながら答えた。
「あー。まあ、殴ってやりたかったけどな。そこまでやるとやりすぎになるだろ。オレがキレて、あのオッサンには『集団の中でそこまで怒ってるやつがいる』って事態であることをわからせた。んで、ビ兄やウー兄が止めに入ったおかげで『ある程度の秩序がある集団』だってことも印象付けられただろ」
張飛は王安がなぜ、張飛に問いかけてくるかはわからない。
しかし、彼が学びたいのだということは察していた。
だから、丁寧に教えてやる。
「その印象と、オレの態度によって、あのオッサンはオレたち龍騎団が『秩序だった組織の中で年少の者が怒りを覚えるような状況』に陥ってると理解させられた。わざわざオレたちみたいな身分の低そうな人間に声をかけてきてるんだ。その状況をどうでもいいとは、思わないでくれるだろ」
「………………」
説明を受けた王安は唖然とする。
「そこまで考えて………。じゃあ、これでもう安心ですか?」
顔を綻ばせた王安に、張飛は苦笑する。
「そりゃ、一発目で当たりを引ければ御の字ではあるけどな。今日で状況が動かなかったら明日も同じことをやることになるだろーなー」
「え、でも、もう伝えた訳で」
「あのオッサンが動いてくれなかったら? さっき言ったのは希望的観測だ。わざわざオレたちに声をかけたのは暇つぶしかもしれないし、オレたちの話を聞いてもどうでもいいと思われるかもしれない。オレとしてはすぐにでも動きたいところだけども」
そこまで言って、張飛はすぐそばで串焼きを頬張る劉備に視線を向けた。
劉備は話を振られたことに気づき、張飛の言葉の先を続ける。
「もしあの人が動いてくれたら騒ぎが大きくなりすぎるだろ。まず、今日はあの人に賭けてみよう。じゃないとわざわざあの人の顔を潰すことになる。今日中に動いてくれないなら、まあ、あの人の顔を多少潰すことになってもこっちの罪悪感も減るってもんさ」
「ってことらしいからね。まあ、オレは長兄の言うことに従うだけさ」
張飛が肩を竦めて言う。
王安は目を回しながら、必死に咀嚼しようとしていた。
「いやはやまったく」
劉備たちと少し離れたところで陳が冷や汗を拭っていた。
「張さん、結構政治力ありますよね」
田も苦笑している。
龍騎団としてどうにかしなければならない、とは思っていた。
いつまでも洛陽に居続けることはできないのだ。
数日が過ぎたころには陳や田といった龍騎団の頭が回る人間は危機感を覚えていた。
だから、郭によって有力な人間の伝手を作ろうとしていた。
そんな中、張飛が動いた。
劉備は張飛が動いたのを見て察したらしい。
張飛の過去を思えば確かに、豪族の私兵団として目上の人間と接する機会もあったのだろう。更に言えば、張飛以外の者が動いてしまえば、劉備は止めにくかったに違いない。
義弟という立場があるので、劉備が止めに入らなくても関羽が止めに入っただろう。
そんな保険を作った上での暴挙だ。
「戦闘中もあの落ち着きがあるといいんだがねぇ」
「いやあ、敵に突っ込んでいきながらも結構理性的に動いてますよ、あの人」
そんな風に二人は張飛を評した。
「ふむ。龍騎団か。手懐けられるなら手懐けておいた方が良かろう。それからそうさの。痴れた犬は縊っておけ」
張均が龍騎団の現状を聞き、義憤に駆られた数刻後。
やけに高い声の主が、張均に背を向けると、張均を残して暗い部屋から去っていった。
しれっとこそっとさらっと、黄巾の乱が起こった年が中平元年から光和七年に変更になってます。
いや、佐久彦もずっと勘違いしてたからねこれ。
黄巾の乱が終わったことで改元を行い、中平になったそうです。
なので、中平元年は12月に始まって、ひと月ほどして中平二年になったそうな。
それに倣って、少なくともシーズン2以降は黄巾の乱は光和七年に起こったことにします。