十六幕 漢陽郡長史の左遷
光和七年(西暦一八四年)十月末日。
下曲陽城に拠っていた黄巾軍は漢軍が派遣した将たちの懸命の活躍によって壊滅した。
黄巾軍の幹部である張宝の死体が確認されたことで、黄巾軍最高幹部三名の死が国中に伝えられた。
これをもって、黄巾の乱は終結し、漢軍を率いた将たちは洛陽にて皇帝の前で戦勝を報告することができた。
光和七年という年を丸々と使った大戦だった。
皇帝・劉宏は難局を乗り切ったことを示すように改元を行った。
光和七年は十二月で終わる。
新たな元号は中平となった。
中平元年は十二月から始まり、ひと月の期間を経て、中平二年へと移り変わることになった。
黄巾の乱を戦った将のひとりである蓋勲は、洛陽で改元の祝いを見届けてから自分の任地である涼州の漢陽郡に向けて馬を進めていた。
ひと月ほどで着く計算だった。
しかし、蓋勲は無性に自分を見出した男、漢陽郡太守の范津に会いたかった。
結果として、三週間ほどで、任地に戻ることができたのだった。
「いやあ、大活躍だったみたいだね、蓋くん」
「いえ、ろくに戦果をあげることもできませんでした」
「戦果はねぇ。あって損はないけど、なかったからと言って、成果がないというわけでもないだろう? 君は、皇甫中郎将に付き従って転戦した。それは事実だろう。実戦に従事した。それも事実だろう? 軍は、戦果をあげる必要がある。けれど、将兵は戦果をあげる必要はないさ。将兵がするべきなのは、軍が戦果をあげられるように、疎漏無く物事を動かすことなんだよ。これが結構、難しい。みんな見落としがちなんだよねぇ」
「………ぅ」
蓋勲は最終決戦の折、何度も突撃を打診して、郭典に怒鳴られたことを思い出した。
「それすらも、できていたとは言い辛いかもしれません」
「それもそれさ。少なくとも、君は、大戦を経験した。それは、君にとっては、それだけで成果だと思うよ?」
「ありがとう、ございます」
ニコニコと、優しい言葉をかけてくれる范津に救われた気持ちとなった蓋勲は、家に帰ったわけでもないのに、『帰ってきた』と安心する思いがした。
「私が兵役についている間、こちらでは変わりはありませんでしたか?」
そんな安堵を感じた気恥ずかしさを誤魔化すように、蓋勲は范津に訪ねた。
「あー、君が、出てった後? うーん、そうだねぇ。変わったこと、あったよ。刺史がお代わりになった。梁刺史は退任なさった。現在は左富繁刺史だ。それから、河関と枹罕の賊が羌族と結んで反乱を起こしているよ。金城郡は大わらわだ」
困ったように肩を竦める范津。
彼の語った言葉を数瞬吟味してから飲み込んで、蓋勲は叫んだ。
「盛大に、有事じゃないですか!!!」
蓋勲の叫びに、うーん、そうなんだよねぇ、と范津が申し訳なさそうに笑った。
反乱が起きたのは、八月。
それから四か月も経っている。
その間、漢軍が対処できないほどの強大な敵だったのだろうか。
そんな疑問に対する答えは、蓋勲を唖然とさせるものだった。
「敵の規模はあっという間に膨れ上がった。今では三万ほどといったところか。とてもじゃないが、太守ひとりの力で対処できる規模じゃない。かといって、太守の中で最も当事者である、李相如どのが、声を上げようとしない。こうなると他の郡で動こうとするのは越権行為になりかねない。越権な上に兵も足りないとくれば、誰も人柱になろうとしない。そうやって手をこまねいているうちに四か月が経ったというわけだね」
「文淵殿」
あっはっはー、と笑う范津に、蓋勲が鋭い視線を向ける。
「それで、私は何をしたらいいでしょうか」
「長史(辺境における郡丞(太守の補佐官))の君にできることは何もないよ」
肩を竦める范津に、蓋勲は頷く。
「なるほど。では、文淵殿。私はお暇をいただきます」
「そっかそっか。うん、わかった。さらばだ、蓋くん。いや、元固どの」
突然変わった呼び名に、蓋勲は目を見開き、そして、微笑んだ。
「終わったら、飲んで語らいましょう。それでは、お世話になりました」
拱手をし、頭を下げて、太守府を出ていく蓋勲。
そんな彼を送り出しながら、范津は満足そうに笑った。
「ほぅら。成果は上々だったじゃないか」
范津の言葉は、涼州を覆う曇り空に溶けていった。
漢陽郡隴県。
涼州の州治所であり、政庁には県令府と刺史府がおかれている。
刺史とは、州に一人おかれる州の監督官のことだ。
主な仕事は各郡の役人が不正をしていないかを見張ること。不正を見つけた場合は洛陽にその罪を報告する義務がある。
毎年八月になると、州内の各郡を巡り、視察を行う。
豪族が民を困らせていないか。
太守が無法を働いていないか。
それを見回る、一年に一度動く職だ。そのため、太守に比べると俸給は低い。
太守が二千石の俸給に対して、刺史は六百石である。太守の半分以下の給料だ。
しかし、実態はだいぶ異なる。
罪を告発されたくない太守が刺史に阿り、賄賂を贈るからだ。
清廉潔白な者も、言いがかりをつけられないようにするために金銭を送らなければならなかった。
刺史の属官は直属と郡国に配置される者の二通りがあり、直属は基本的に四名の従事と二十五名の假佐に分けられる。
假佐は従事の職務を潤滑に進めるための手足のような存在だ。
従事、假佐ともに総称でそれぞれに異なる職名が与えられているが、ここでは割愛する。
ともかく。
漢陽郡隴県の刺史府には三十名の刺史勢力がいるということだ。
その地に、蓋勲が到着した。
まずは足掛かりだ。
いきなりの面会を申し入れても会ってはもらえないだろう。
しかし、蓋勲には心当たりがあった。
まずはその男に面会を申し入れる。
気に入らない男だが、職務をこなそうという気持ちは十分以上に知っている。
「お待たせした。何やら訴えたいことがあると聞いたが」
その男が面会室に入りながらそう言って、訴えを持ってきた人間が誰なのかを知り、あんぐりと口を開けた。
「ほう。随分と仕事中は真面目に話すのだな。ぜひとも俺と話すときもそのように肩肘張ってほしいものだ、蘇正和」
「が、蓋くん? ちょ、長史の君がなんでここに」
「ああ。長史は一身上の都合で辞めてきた。どうにも、刺史殿が随分と困った奴らしいじゃないか」
「辞めた? 刺史殿?」
そう呟いた蘇格は手で顔を覆ってしゃがみこんだ。
「あんの、おっさん! やってくれたな!? 近々有能な者を送るって、君のことかよ!?」
そう言うと、蘇格は面会室の外を確認する。そして、誰かを呼ぶと、人払いをさせた。その上で、蓋勲に歩み寄る。
「君は、そんなことで官途を捨てたのか!?」
「蘇正和。耳の速いお前なら知っているだろう。俺は皇甫中郎将に従軍して黄巾軍と当たった。漢を守るために戦ったんだ。それなのに、俺の故郷が荒らされるのを黙ってみていられるわけないだろう」
「そうか、そうかぁ。そういう奴か君は」
「しかし、その口ぶりだと、お前と范太守は繋がっているのか」
「そこだけじゃぁないさ。今、涼州の太守たちはいろいろな顔を使い分けている。刺史へいい顔をしておきながら、どうにかして排除できないか。それを必死に考えている」
「洛陽に訴えを出せばいい。それで、左刺史は終わりだろう」
「そうもいかないから困ってるんだ」
蓋勲も期待せずに言った言葉だった。それで終わるようならば、涼州刺史・左昌、字を富繁という男はこのように君臨していないだろう。
「左氏といえば」
「皇帝の側近。小黄門にも左氏がいるな。おそらくそれの縁戚だろう。何度か訴えは送ってみたんだが、どうやら握りつぶされている。数か月音沙汰なしだ」
「数か月前に送ったということは、よほど大ごとを起こしたのか?」
「未確認ではあるんだがな」
そう前置きをして、蘇格は声を潜めた。
「軍事費用の着服だ。しかも、かなり大胆に。半分以上使いこんでる可能性がある」
まあ、さすがにどれだけ使いこんでいるかは想像の内だけどな、と言って、蘇格は疲れたように笑った。
太守とは国に雇われている官吏だ。
国が地方に派遣して、地方の政務を執り行わせる。
政庁を機能させるうえで必要な人材を雇うだけの金銭も、国が負担している。
太守の職権にかかわる費用は国がもつのだ。
太守には軍権がある。郡国の軍事にかかる費用も、国が支給するのだ。
県の規模によって常備兵の数が変わるのもこれが原因だ。必要なところに必要なだけの金をかける必要がある。
また、これとは別に、危急の事態に陥った際、国に報告をして、軍事費用の増額を要請し、任地内で徴兵を行うこともある。
一方で刺史は各郡の太守を査察し、場合によっては、軍費や開発費などの費用分配も行う必要がある。
追加の費用申請も太守から訴えが上がり、刺史が洛陽に送るのだ。
当然、河関・枹罕の賊が蜂起した際、隴西郡の太守・李参は刺史である左昌に軍費の増額を要請した。
しかし、左昌から送られてきたのは、わずか千人分の軍費だった。
河関県と枹罕県の賊が大きな勢力であるとはいえ、他の県でも賊は存在する。領内の警備を疎かにするわけにもいかない。
そうなると、李参は河関県・枹罕県のそれぞれの兵と千人の兵。最大でも三千の兵力で事に当たらなければならない。
索敵をこなして敵を補足したり、補給物資の運搬要員も必要なため、実際に賊と対峙するのは、多く見積もっても千五百というところ。
勝ち目が薄いと判断した李参はさらに増額を要請したが、軍費が送られてくることはなかった。
手をこまねいているうちに、河関・枹罕の賊が羌族と合流してしまった。
護羌校尉の伶徴と督軍従事の辺允が対策に動き、そして敗れた。
事ここに至って、問題が大きくなってしまった。
そもそもの原因は、たった千人の増員分しか軍費を送ってこなかった涼州刺史・左昌だ。
左昌は読み間違えた。
増員は千で十分だろうと判断し、洛陽から送られてきた軍費を出し渋ったのだ。
そして、敗勢になっても軍費の追加を送らないということは、もうすでに使ってしまったのだろう。
それが現在、羌賊連合に涼州を荒らされている理由である。
「私は、そう考えますが、如何に」
蓋勲の前には、肥えた肉の塊がぶるぶると赤くなって震えていた。
「ぎ、ぎざま」
肉の塊は、その体を震わせながら声を発する。
「い、言うに、ごどがいで、今の状況を、儂のぜいにずる気が」
蓋勲は肉塊―――左昌に冷たい視線を向ける。
「違うというのですか? では、追加の軍費はどこに?」
「ぞ、ぞもぞも、あの程度の賊、千の増員で十分だっだのだ。ぞれを、李の奴が臆病風に吹がれだがら今追い詰められでいるのだ!!」
「なるほど。ですが、あなたは刺史だ。査察をして、彼の性格を知っていたのであれば、彼が安心して出陣できるだけの軍費を提供すればよかった。それをしなかったあなたは、やはり、刺史の任を十全に果たしているとは言えない。今からでも遅くありません。残っているのならば、軍費を送ってください」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ!!」
左昌は手をあげる。
すると、周囲にいた男たちが腰の剣に手をかけるのがわかった。
一緒についてきていた蘇格が緊張に身体を震わせる。
しかし、さんざん修羅場を潜り抜けてきた蓋勲からすれば、どうとでもできる状況だった。だから焦らない。
「私は曲がりなりにも、皇甫中郎将の下で黄巾軍と戦った身。そんな人間が、正当な理由もなしに殺されたとあっては、民は黙っていないでしょう。それに、皇甫中郎将は義理堅い方だ」
他人任せな自分の身の守り方に、蓋勲は内心苦笑しながら、左昌を強い目で睨んだ。
それだけで、左昌は、気圧されたようにたたらを踏んだ。
「ぐ、ぬぅ」
唸りながら、左昌はきょどきょどと小さな目であたりを見渡していたが、すぐにその視線が蓋勲の方を向いた。
「ぞ、ぞうが。ぞんなに勇名を馳ぜだどいうのならお前が行げばいいだろう!! 蓋元固。お前を阿陽に配属ずる!!」
阿陽県。
郡治である冀県とも刺史のいる隴県とも距離がある。
漢陽郡の中部には六の県が並んでいる。その県の最も北にあるのが阿陽県だ。
賊が最後に確認された金城県から、洛陽に向けて進軍したときに進路上に位置する城だ。
蘇格が目を剝いたのが、蓋勲には見えた。
少ない兵力で敵の進行上の城に配属する。
つまり、死んで来いと、そう言っているのだ。
蓋勲はため息を吐く。
左昌を説得できれば御の字だと思っていたが、どうにも難しそうだ。
言葉でも、威でも説得ができなければ、一度、彼の影響圏内から離れた方が動きやすいかもしれない。
「かしこまりました。その任、この蓋元固が請け負いましょう」
そう言って拱手をすると、蓋勲は颯爽と刺史の部屋から出たのだった。
「いいのかい?」
「まあ、やりようはあるさ。それより、人手が足りない。蘇正和。今の仕事をやめる気はあるか」
蓋勲の言葉に、蘇格は目を丸くして、そして破顔した。
「いいよいいよ、力を貸すよぉ。蓋くん、よろしくねぇ」
そう言って差し出してくる手を、蓋勲は見つめて、蘇格の顔を見て、そして鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「手が必要だから頼むのだ。お前は変わらず、俺の仇だ。慣れあうつもりはない」
そう言ってすたすたと先を歩いて行ってしまう蓋勲に、蘇格は肩を竦めながら、後を追うのだった。
蓋勲エピソードその二。
涼州は荒れ放題です。
左昌登場です。
全部のセリフに濁点がつくキャラ。
すっごい書きづらかった。もうこういうキャラは作りたくない。けど、どうだろ。




