十五幕 張繍の受難 その二
光和七年(一八四年)六月。
涼州の武威郡は郡治・租厲県の政庁では慌ただしい空気があふれていた。
それというのも、租厲県の県長である劉雋が新たな人材を登用してきた、と満面の笑顔で言ったからであった。
「また、あなたは何を言ってらっしゃるのかわかっておいでですか!? 子供です。それも、女と異民族です。そのような者に任せられる仕事なぞあるわけがないでしょう! 県長としての自覚をもっていただきたい!!」
県長とは規模の小さな県に置かれる長官だ。具体的には一万戸以下の県の長官が県長と呼ばれる。
職務は県令に同じく県全体の治安維持と運営を担っている。県令との違いは支給される給与の違いだけだ。
その責任を重く受け止めるべし、と劉雋に言い続けているのは、ひげの濃い丸顔の男だった。
口の周りをぐるりと覆うようにしてひげが生えており、劉雋に対しての物言いも相まって黒々とした大口を開けているように感じる。
彼は雷叙、字を始元という。
劉雋と共にこの租厲県に洛陽から派遣されてきた男のひとりだ。もうひとり、派遣された者がいるが、その男はこの場にはいない。
「ははは。まあ、いいじゃないか。優秀な若者を育てるのも、県長の役目のひとつさ。確かに、張繍もシャーチィもまだ任せられる仕事はないかもしれない。けれど、まずは、大人の社会を肌で感じさせてやろうじゃないか」
「大人の社会、ですかぁ?」
「あ、もちろん、始元の思い描くいやらしい大人の社会は教えなくていいからね」
「なななな何を仰っているやらわかりかねますなぁ!?」
劉雋の笑顔での攻撃に泡を食いながら、雷叙は張繍たちに向き直った。そして思い切り顔をしかめる。
「まったく、県長殿には困ったものだ。娘。戎蛮。私は、租厲県の県丞の任を陛下より賜っている、雷始元という」
張繍とシャーチィを見下ろしながら、そう名乗った。
「張繍です」
「コウ・シャーチィ」
短く名乗り返され、雷叙は特にシャーチィの態度に眉を顰める。
「戎蛮。貴様、目上の者には敬語を使え」
そう言われたシャーチィはわかりやすく舌打ちをする。
「ったく、この国の人間は、何かあるとケーイ、ケーイ、ケーイだ。アホらしい。おれは、お前らを等しく見下してんだ。そんな奴らに、なんで敬意を払わなけりゃならねんだ」
「県長殿! やはりこやつ、従う気はないではないですか!!」
「君も君だ。敬意を払われたければ、自ら敬意を払わないとね。自分から殴りに行って、殴られたから僕に助けを求めるのはちょっとカッコ悪いかも」
「ぬぐぅ!?」
劉雋の下に走り、シャーチィの問題点を主張して、上司にバッサリと斬り捨てられた雷叙は、もう一度戻ってくる。
「ものを考えて喋るんだな、戎蛮。お前の株が下がるということは、お前を見出した県長殿の名に泥を塗る行為だ。弁えたまえ」
シャーチィに向かって相も変わらず居丈高に指をさしてくる雷叙に、今度は張繍が手を挙げる。
「その県長様から相手に敬意を払うように言われたにもかかわらず、相も変わらずに私たちのことを名前で呼ばないのは、県長様の顔に泥を塗るためですか?」
「県長殿ぉ!? この二人、礼儀がありませんがぁ!?」
「礼儀がなってないのは、君だ、始元。まったく。まずは二人に敬意をもってもらわなければね」
「なぜ私が!?」
「彼らは、僕の人材登用の試金石だ。僕らは彼らを育てるが、彼らは僕らが仕えるに足る存在か、見定めているのさ。見られているのは、むしろ僕らだ。だから、始元」
「ぬ、ぐぅぅぅっ」
雷叙は劉雋に言われると、顔を真っ赤にして唸った。
そして、張繍とシャーチィに向き直ると、
「………張繍と、………シャーチィ、だな。よろしく頼む」
そう言って、拱手した。
その態度に、張繍もシャーチィも驚く。
劉雋が思っている以上に部下を掌握していたからだ。
自分の理念を曲げて、二人に礼を尽くそうとする雷叙からは、劉雋に対する深い信頼が見えていた。
それはそれとして。
「はぁ。よろしくお願いします?」
「ヨロシクオネガイシマース」
一度敵と認定した雷叙に対して、子供二人の態度はそっけないものだった。
洛陽から派遣されているもう一人の男の下に案内する。
そう言われて、張繍とシャーチィは雷叙に連れられて政庁の中を歩いていた。
洛陽から県に派遣される政務官は県長(人口が一万戸以上なら県令)、県丞、県尉の三職。
県令がひとり。
県丞がひとり。
県尉がひとり、もしくはふたり。租厲県の規模だと、県尉はひとりだ。
県長は、県の取りまとめを。
県丞は、県長の補佐と県の経理を。
県尉は、県の軍事と治安維持を。
それぞれ担当している。
県長が劉雋。県丞が雷叙。残る県尉の下に向かっている。
そんな説明を、雷叙は道すがら張繍たちに話した。
「主な県の長官はこの三名ないし四名だ。そして、それぞれの下に属官や中級・下級役人がいて県を運営している。我々三名以外は、現地で雇用し、国に報告する。県長殿の仕事にはそうやって現地雇用された職員たちの査察も含まれている」
そう説明されて、張繍は興味深そうに頷いた。
普通に生活しているだけだったら、政庁の、県の運営方法に触れる機会なんて当然ない。
それだけでも、多くの学びを受け取っていた。
しかし、シャーチィからしてみれば、興味のない話だ。
それでも、シャーチィは黙って雷叙に付いていった。
その理由は―――。
「ついたぞ。ここが兵練場だ」
大きく開けた広場だった。
そこで、中心に立つ男が、槍を高く掲げる。
すると、広場を回るようにして走っていた兵たちが、走るのをやめて中心の男の下に集合した。
「――――――――――」
『はっ!』
槍を持った男が何かを兵たちに言ったようだ。兵たちは返事をすると、型稽古を始めた。
「あれが、我が租厲県の県尉・張絶無殿だ」
中心に立ち、薄い色の髪を頭の後ろで括り、背中に流している長身のひょろりとした男を、雷叙は手で指し示した。
人をまとめる人間にはそれを為すだけの資質が必要だ。
その中でもわかりやすいのが、声と態度である。
声が大きく、態度が揺ぎ無ければ、それだけで人は安心して指示に従う。
指示を出す声が聞こえないような男や、折れてしまいそうなひょろりとした風貌の男などは、頼りなく映ってしまうものだ。
県尉とは県の犯罪を取り締まり、有事の際は軍を率いる立場だ。
そんな立場の人間であるとは思えないほど、シャーチィの目に租厲県県尉の姿は頼りなく映った。
そして、シャーチィの目が剣呑に光ったのを、張繍は確かに見た。それについて、声を上げようとしたその瞬間。
シャーチィの姿は頼りない県尉へと肉薄していた。
兵が走っている様をひょろりと立ちながら見守る無防備な男の首元に向けて、シャーチィが短刀を走らせる。
このまま、仮に県尉を殺してしまったとしても、シャーチィは気にならなかった。
狼藉者として処刑されるだろうが、どうせいつかどこかで野垂れ死ぬ。それが早まろうが、そのことに、大きな興味はなかった。
もし仮に、劉雋が偉大な男で、その男と共に歩む者が、やはり偉大であるならば、シャーチィの攻撃など意に介さずに捌いてくれるだろう。
それを期待して、シャーチィは殺す気で短刀を振るった。
県尉は、一切シャーチィに視線を向けていない。しかし、そのまま、シャーチィの腕に肘を当てると、わずかにずれたシャーチィの一撃を潜るようにして背をかがめた。
それだけで、シャーチィの攻撃は空を切る。
「ん? あれ? おや?」
接近しているシャーチィがかろうじて聞き取れるほどの声量で、県尉は困惑の声を出した。
「っ」
シャーチィは崩れた体勢を立て直すとすぐに両手に一振りずつ短刀を構え、距離を取って県尉に向き直った。
その様子を訝しげに見ていた県尉だったが、視線がシャーチィの背後にいる張繍と、その隣であんぐりと口を開けている雷叙に向いた。
県尉は、シャーチィに視線を戻すと、頷いた。
そして。
槍を、構えた。
先に動いたのはシャーチィだった。
一歩目を踏み出す。
そして二歩目を踏み出そうとしたところで、槍がシャーチィの懐に伸びてきた。
シャーチィはその槍の一撃を左手の短刀で受け、更に近寄ろうともう一歩踏み出したところで、シャーチィの左手の短刀が弾け飛んだ。
否。
まるで、絡め取られたかのように、短刀はシャーチィの手から離れた。
しかし、それでも、既にシャーチィは県尉の懐に入っている。短刀の間合いで、槍の間合いではない。
そのまま、斬りつけようとしたが、県尉の行動にシャーチィは目を剥いた。
大きく、一歩退いたのだ。
ただ、それだけ。
しかし、ひょろりと長い県尉の身体でそれをされると、小柄なシャーチィからしてみれば、二歩か三歩、余分に距離を詰めなければならない。
そして、距離が開いたということは。
二歩目を踏み出した時に、今度は右手の短刀が、槍に絡め取られた。
舌打ちをする。
わかっていて、強く握りしめたにもかかわらず、あっさりと短刀はシャーチィの手から離れていく。
それでも。
跳躍して、県尉の頭に向けて鋭い蹴りを放った。
どうするか一瞬考えて、シャーチィは後で言い訳がきくようにすることを選んだ。
それでもどうにか一撃。
そう思ったが、シャーチィの身体は、今度は県尉の腕によって絡め取られてしまった。
雷叙と張繍が、県尉の下に走り寄った時には、既にシャーチィは両足を掴まれて逆さづりにされていた。
「おお、始元。この子供、凄いぞ。速かった」
近寄ってようやく県尉の声が聞き取れるようになる。
張先。字を絶無。
細く、長く、か細い、県尉だった。
「お、お、お、お前は何を考えているんだ!?」
まず初めに、雷叙が雷を落とした。
次いで、張繍が張先の下に近寄り、頭を下げる。
「も、申し訳ありません! 彼はコウ・シャーチィ。私は張繍と申します。劉県長に抜擢していただいて、この城で仕事を学ぶことになりました」
そう言って、張繍は自分と同期で劉雋の下に仕えることを決めたシャーチィの身元を明かす。
それを聞いた張先はシャーチィを空中に放った。
シャーチィは空中で体勢を立て直すと、見事に着地してみせる。
「いい体捌きだ。胡族か。随分と速かったが、軽かった。始元、怒るな。こいつは俺を殺そうとはしなかった」
相も変わらず、小さな声だ。
静かにしていないと聞き逃してしまいそうだ。
「そこを問題にしているわけではない!! 上官に刃を向けるなど、どういう了見だ!?」
対する雷叙は、張先とは比べ物にならないほどの大声で、張先を、そして、シャーチィを睨む。
シャーチィは不貞腐れたようにそっぽを向いて鼻を鳴らした。
「なんだその態度はぁ!?」
「まあ、落ち着け、始元。そもそも、未配属だ。今しかなかったんだろう」
「貴様も何を言っているのかわからん!! 未配属だろうと、県長殿に仕える以上、我らを軽んじることは許されん!!」
「始元は、生き難そうだなぁ」
「貴様がもう少ししっかりと締めればよいのだ! はきはき喋れ! 腹から声を出せ!!」
「その必要が、あればする。なければ、無駄なことだ」
「兵に指示が行き渡らんのだ!!」
「そうならんように、兵練をする。戦場で、指示など、たいして届かん」
「~~~~~~~~!!」
ああ言えばこう言う張先に、雷叙が地団太を踏む。
その光景を見て、張繍は雷叙が哀れに思えてきた。
その空気を感じて、雷叙は張繍に視線を向けると、がっくりと肩を落とす。
「あー、今更かもしれんが、改めて。彼が張絶無。役職は県尉だ。お前たちは私に政務を、彼に軍務を学ぶことになる。忙しくなるだろうが、努めて励んでくれ」
そう言うと、雷叙は踵を返した。
「これで私が紹介するべき人間は紹介した。人脈を広げたければ、好きに広げるがいい。私は橋渡しはせん。もっとも、お前たちのような子供に時間を割く余裕のある人間がこの政庁にいればの話だがな」
そう言って、雷叙は高笑いしながらその場を後にした。
一週間が経った。
「お疲れ様でーす。お水、汲んできましたよー」
「お、張嬢! ありがとな!」
「こっちにもくれー」
「どうぞー」
「いやぁ、張嬢に応援されると、頑張れちまうなぁ」
「頑張ってー」
「いやはや、兵練場も華やぎましたなぁ」
「そんな嬉しいこと言われても、お水しかないですよー」
「もう一本、勝負だ」
「………まぁ、いいけど」
「次、俺な!」
「おい、抜かすなって、俺だよ次は」
「お、まーたシャーチィの無双が見れるんか?」
「………数が多いし、いっぺんにやろう」
『なめてんな、このガキ!!』
「この書類とこの書類、手が空いてる人いる?」
「空いてますよー。県丞様ですね」
「あれ、筆の買い置き」
「そこの木箱です。まとめておきました」
「里の資料が足りん」
「後でよかったら、県丞様に書類の裁可をお願いした後に持ってきますよ。資料庫の棚ですよね」
「………人売りの集団の拠点、見取り図です」
「随分早いな!?」
「すでに何人か被害が出てる模様。早急に対処した方がいいと思いますよ」
「すぐに向かう!」
「あと、金城郡の方で治安の悪化が見られます。こちらに流民や罪人が流れてくるかもしれません。気を付けた方がいいと思います」
「なるほど、助かる」
「………………お前ら、本当に、子供か?」
雷叙が、張繍から書簡を受け取りながら、呆然とした声でそう問いかけた。
それに対して、張繍は苦笑する。
「はぁ。まぁ。私の場合は、もともと張家の家政も手伝っていましたから。私兵団の皆さんと一緒に訓練したりもしてましたし、慣れているんですよ。シャーチィの方は、どうでしょう。適材を適所に配する県丞様の手腕ゆえだと思いますけれども」
そう言って、謙遜しながらも、雷叙の自尊心をくすぐる張繍。
その表情に計算の色は見られない。
これを、素でやっているのか。それとも、表情を取り繕っているのか。
どちらにしても、まだ年若い彼女は、既に人を惹きつける素質が花開いており、末恐ろしさすら感じる。
「張家。張輝抱か」
張繍の叔父、張済の名は、雷叙も聞いている。
異民族の襲撃や、大規模な賊の掃討などを、張先が対応する際、私兵を率いて駆けつけてくる男だ。
弱小の豪族でありながら、民衆にも、官吏にも信頼の厚い男。
そのような家で育つと、こうも優秀な人間が育つのだろうか。
今も、雷叙が裁可を行う問題に対して、必要になりそうな資料を脇に置くことも忘れない。
太学で学び、郎官(首都・洛陽の最下級官吏)になって、そこでようやく見よう見まねで覚えていく政務の補助。
それを、張繍は、特に教えていないのにもかかわらず、自然とできているようだった。
人を見ている。
そして、その人が動きやすいように動いている。
張繍の年齢でそれができていることがある種の不気味さを醸し出していた。
「そうか。よくやっているか」
「やりすぎなほどに、よくやっていますよ」
「ははは。始元がそこまで褒めるなら、よほどよくやっているんだろうね」
劉雋が報告を受けて朗らかに笑うと、雷叙は顔をしかめながらも頷いた。
「見事なものですよ。しかし、腹立ちもありますな。子供は子供らしくしていればよろしい。女は女らしくしていればよろしい。官界に足を踏み入れずとも生きていけたはずなのですよ」
雷叙は憮然とした表情で劉雋を睨む。
「シャーチィはもっと年かさを重ねて、体が出来上がってからの従軍でもよかった。張繍はあの才を使って、夫を支えれば良妻賢母となったでしょう。彼女の補佐を一身に受けた男が大成しないわけがない。しかし、こうして政務にかかわらせれば、彼女の補佐をする能力は分散してしまう。効果も落ちることでしょう」
「それは、忸怩たる思いだ」
雷叙の言葉に、劉雋も頷く。
雷叙は頭ごなしにシャーチィや張繍を否定していたわけではない。
彼には彼なりの思い描く国の在り方が、国民の在り方があるのだ。
それを為すことができない。それが悔しいのだ。
しかし。
「それでも、動いていて良かった。張繍にもシャーチィにも、一年ほど政庁での動きを体験させてあげようと思っていただけだったけど、奇跡的にもその考えに助けられた状態だね」
劉雋の手元にある報告書。
竹簡にまとめられたそれには、隴西郡の治安の悪化が記されていた。
「隴西郡の太守は『沈静有謀』の李相如です。大事にはならないでしょう。ですが―――」
「李太守は静観をするだろうね。賊と異民族の連合軍。事前にとめるよりも、連合が成った後の方が対処がしやすい。それに、賊と異民族の連合であるがゆえに、補給も脆弱だ。こちらが動いて疲弊するよりも、確実に瘦せ細らせるだろう。民衆にどれだけの被害が出てもだ」
「そう、でしょうなぁ」
「我が郡の太守殿にも書簡を送ろう。座していても戦火が及ぶだろうし、場合によっては火中に向かわねばならないかもしれない」
その言葉に、雷叙は、苦々しく頷くのであった。
劉雋:出典・史実。張繍を見出したこと以外記載なし。
雷叙:出典・演義。のちに張繍の部下になるらしい。
張先:出典・演義。同上。
シャーチィ:出典・史実。のちに胡車児と名乗って張繍の部下になるらしい。異民族性を捨てたということになる。なんだか悲しいね。




