十一幕 蚊帳の外な元計吏
韓約が呉結を洛陽から連れ帰り、自身の妻としてから一年が経った。
時は光和七年(西暦一八四年)。
この年は、明けるとすぐに、太平道と呼ばれる宗教組織の武装集団・黄巾党が漢に対して反旗を翻し、大げさではなく大陸を混乱に陥れていた。
そんな動乱の年に、辺境である涼州は不思議と静かであった。
そんな静かな涼州の金城郡の允吾県を馬で走る男がいる。
辺允。字を仲遂。
彼は、允吾県はずれのとある里(村のこと)に向かって進路を取っていた。
督軍従事であることに変わりはない。
地方官の中では高位の官職についている辺允だが、この日は供を連れることなくたった一人で馬を駆っている。
目的の里に着くと、肌が浅黒く、髪が銀色の男が里の中から歩み出てきた。
顔に大きな傷跡があり、右目を潰している。
その男は、残った眼で辺允の心の内まで見透かしているような鋭い目を向けながら、口を釣り上げた。
「辺、仲遂殿。いったい、この里に、何用か」
「北宮玉殿。何用だと。決まっている。バカげたことをやめさせるために来たんだ」
北宮玉と呼ばれた男は、変わらず、口の端を釣り上げながら、短く息を吐いた。
「『バカげたこと』ねぇ。辺殿よぉ。バカげたことって言うのは、いったい何を指す。不当な扱いを受ける我が部族の境遇のことか? それなら、確かにバカげたことだ。漢が、我らを不当に虐げている現状をやめさせるというのなら、ぜひともそうしたいところだな」
そう言われて、辺允は口をつぐむ。
漢が抱える問題の一つだ。
漢という国は、大陸の東南に位置している。
東側は海だが、残りの三方は大地が続き、漢民族以外の多様な人種が住んでいる。
今でいえば、モンゴルも、ロシアも、フランスもスペインも、地続きなのだ。
この時代でも遥か西ではコンモドゥスが治めるローマ帝国が君臨しており、漢のすぐ北では多数の遊牧民族がしのぎを削っている。南ではベトナムが北属期と呼ばれる時期で、一時的に漢に所属している。
問題となっているのは北の遊牧民族だ。
羌族。烏丸族。鮮卑族。
特にこの三つの北方民族は氏族も多く、一枚岩でもなく、それゆえ、総意を取っていなくても、一部の部族だけで漢に攻め込むことも多い。
三民族とも基本的には漢に臣従している。
しかし、烏丸族は親漢勢力と反漢勢力に分かれて戦が続いているし、鮮卑族は十年ほど前に漢と大きな戦を行っている。
羌族はさらに複雑で、漢の内地に住んでいる羌族のことを義従胡とよんで区別している。漢の外に住んでいる羌族は西羌と呼ばれていたりする。
呼び名からしていろいろあってややこしく、漢人にとっても何が何だかわからないのが現状だ。
だから、ひとくくりに『異民族』や大きなくくりである『羌族』と呼んだりする。
「義従胡の腰抜け具合がバカげてないって言うのか、辺殿よ」
内地に暮らす義従胡の扱いは酷いものだった。
賃金は安く、様々な労役を課され、大事があれば、率先して徴兵される。
すでに、義従胡となって百年近くが経っている。漢の国土で生まれ育った者がほとんどだ。それなのに、漢は未だに、義従胡を国民とみなしていない。
従いたいのに、従わせてもらえない。
それを不満に思うのは当然のことだった。
「間違っているだろうがよ、辺殿。漢の保護下に入ったのは、守ってもらうためだ。漢の国民として生きていきたいと先祖が願ったからだ。けして、使い潰されるためじゃない。けして、大国の道具に成り下がるためじゃないんだよ」
北宮玉の言葉は、辺允の心を貫き続ける。
「漢は今、黄巾の大乱で疲弊している。今、洛陽に残っている守兵は僅かなものだ。洛陽に攻め上がり、武力でもって我らの待遇改善を要求する。何も、国をひっくり返そうというのではない。こちらの言葉を聞いてもらうためには、力押しもしなければならんというだけだ」
北宮玉は、注意深く辺允の表情の変化を見る。
辺允の顔が痛みをこらえるかのように歪んだのを内心でほくそ笑みながら、意識して声音を優しげなものにした。
「あんたとは、今まで何度も酒を酌み交わした義理がある。だから、事前に教えてやったんだ。まず俺たちは金城郡の郡治を落とす。俺は友人と干戈を交えたいとは思わない。家族と一緒に後方に下がるんだ。そのために情報を流してやったんだぞ」
北宮玉は友を心配する表情を作る。
異民族の現状。酒飲み仲間としての情。
無色透明無味無臭の毒は、ゆっくりと、確かに、辺允の身体を蝕んでいっていた。
韓約は情報集めに奔走していた。
光和七年(西暦一八四年)の夏。八月。
といえば、黄巾の乱の真っただ中だ。
さらに言うと、皇甫嵩が波才を降伏させ、卜己を東郡で撃破し、捕虜にした時期だ。
朱儁の軍はすでに宛城を包囲し始めている。
これからのち、皇甫嵩は冀州鉅鹿郡の広宗県に攻め込むこととなる。
そんな時分だ。
涼州には黄巾の乱の余波は訪れていない。
中央から遠すぎるのだ。
黄巾軍からしてみても、攻める価値のない僻地と考えられたのだろう。
しかし、それは、影響がないことを意味するものではない。
事実、韓約は悲鳴を上げていた。
「だ~~~~~~~!! 中央が荒れてるから、移民が多い!! どさまぎの犯罪も多くなるし!! 中央の仕事が甘いから、俺みたいな下級官吏が泣きを見るんだよ!!!」
そんな悲鳴だ。
「あらら。大変そうだね、ヤッくん。大丈夫?」
そんな韓約に、湯を差し出しながら、韓約の妻・呉結が声をかける。
「やれやれ。せっかくの休みなのに、奥さんを構わないで仕事と睨めっこなんてね。甲斐性がないにも程があるわ。ケツさん。やはり、この男、あなたにはもったいないんじゃないかしら」
呉結から渡された湯飲みに口を付けながら辺雪がぶちぶちと文句を言う。
そんな辺雪に、呉結は困ったように笑うだけだった。
確かに、今日は五日に一度の休みの日だ。
漢の官吏は五日に一度、自宅に帰って休みを取ることができる。それ以外は官吏用の宿舎に寝泊まりしているのだ。
つまり、五日ぶりの夫婦の日でもある。それなのに、韓約は仕事を持ち帰って資料と向き合ってしまっている。
辺雪の文句もわかるというものだ。
「私が来ていて良かったわね。このままだとこの男、ケツさんをほったらかしにして今日という日を終わらせるわよ」
辺雪と呉結は友人となった。
韓約が呉結と結婚をした後、辺雪は辺允に韓約との婚姻を勧められた。
それをバッサリと切って捨てたのは辺雪だ。
自分はこの男を好いていない。自分がこの男と結婚などありえない。
そう言って、韓約に暴言を吐くだけにとどまらず、辺允とも大喧嘩した。
呉結が間に入ってなんとかとりなした形だった。
呉結と出会ってまだ間もなかったというのに、辺雪は呉結の言うことはよく聞くようだった。
呉結からすると複雑な気分だ。
辺雪は間違いなく韓約を想っている。
そこに自分が入り込んでしまったために、辺雪が素直になる機会を奪ってしまったのだ。
このまま、辺雪が韓約と距離を取ってしまえば、二人の仲はどんどんと冷え込んでいき、最後には他人になってしまっただろう。
自分がいなければそうならなかった。
そう考えてしまう呉結は二人の関係を維持させることで、自分の立ち位置を正当なものにしようとしている。
いつか。
いつか、辺雪の考えが変わって、韓約の妻になることを受け入れてくれれば。
呉結と辺雪は仲良く韓約の妻になれる。
それが、呉結の望みだった。
それはそれとして。
せっかく帰ってきた旦那様が自分に見向きもしてくれないのは寂しいものだった。
呉結が韓約といちゃつけば、そのうち辺雪も焦って考えを改めるかもしれない。
そういう風に自分を正当化している。
「ホントだよ~。せっかく帰ってきたのに。ヤッくん、お仕事大変なの? 構ってよ~。遊んでよ~。イチャイチャしようよ~」
「イチャイチャは私が帰ってからにしてくれるかしら」
「セっちゃんも混ざる?」
「聞かなかったことにしてあげるわね」
「わぁ。いい笑顔~」
「うふふふふ」
「いやあの、背後で怖い話しないでくんない? ちょっと急ぎの資料まとめてただけだから」
そう言うと、顔を引きつらせながら韓約が二人の方に振り向いた。
呉結が、辺雪の膝を枕にして寝転んでいる。
「いや、お前らがイチャついてんのかーい」
この二人、最近べったりなのだ。
五日に一度、韓約は家に帰る。
逆に言うと、五日のうち四日、呉結と一緒にいるのは辺雪なのだ。
なんなら、韓約よりも辺雪との方が仲が深まっているまである。
「なんかさ。この光景見てるとさ。俺と辺雪がケツに攻略されてるまである感じしないか?」
「は? その目みたいに腐った思考をするのはやめなさい。誰が攻略されてるって言うのよ」
「お前だお前。なに、ケツの口にお菓子運んでんだ。あーんしてんじゃねえ。空いた手で頭を撫でてるんじゃねえ。絆されまくりじゃねえか!」
「失礼ね。あなたが可愛い奥様を構わないで寂しそうにしてるから、私が代わりに構ってあげてるのよ。これは要するに、私がケツさんを攻略してるといっても過言ではないわね」
「私、セっちゃんに攻略されてるの!? わーい! やたー!!」
「あーはいはい。すごいすごい。で、何お前。今日いつまでいるの?」
「この男………。いいのよ、私は帰っても。ケツさんの料理。ケツさんだけで作る料理。それでいいなら、私は喜んで帰るわ。夫婦の時間。邪魔しちゃ悪いものね?」
「ヤッくん、謝って!! 早く謝って!! ヤッくん、また倒れちゃうよ!?」
「いやお前、そうならないために、辺雪に料理習ってるんじゃなかったのかよ!」
「ヤッくん。私はね。わかったんだよ。人にはできることとできないことがあるの」
「そうね。私も、ケツさんがどうして、というか、どうやって、あの劇物を作り出しているのか、わからないのよ。同じ手順のはずなのに。そばで見守っているのに。どうしてああなるのかしら」
「お前にわからないんだったら、俺、わかんない。そもそも、俺は白旗上げたわけだし」
そういうわけで、家事はそつなくこなすのに、なぜか料理だけ壊滅的な呉結のために、辺雪はこの家に通い妻をしているというわけだ。
韓約が資料を片付ける頃、ちょうど夕食の支度ができあがった。
「それで、何の資料を見てたのよ」
食卓につきながら、辺雪が韓約に問いかける。
韓約は手を合わせると、食事に箸をつけながら溜息を吐いた。
「隴西郡の方がちょっと騒がしいみたいなんだよな。仲遂の方にも連絡行ってると思うんだけどよ。河関と枹罕の賊が力をつけてるみたいなんだ」
隴西郡は韓約たちのいる金城郡のすぐ南の郡である。
韓約の言う河関県と枹罕県は隴西郡の北部にある県で、金城郡の允吾県ともそう遠くない位置関係にある。
「どうも、中央は黄巾で手一杯みたいだし、こっちの都尉もいつ、黄巾に対処しなきゃいけなくなるかわからないってことで、小さな賊はいったん放置の考えみたいだったんだ。そのせいで、小さかった賊に力がついちまったみたいだ」
苦々しげに言う韓約に、辺雪と呉結は不安げな表情を見せる。
「仲遂の奴は今ごろ対策会議でも開いてるんじゃないか? 隴西の軍がちゃんと叩いてくれればいいんだけどよ。いかんせん、郡境での騒ぎなのが気になるよな。こっちに逃げ込みついでに攻めてくるかもしれんし。まあ、そういうわけで、允吾の政庁もごたついてるんだよな。今年は危険だからって計吏の報告も免除になってるし。結構荒れそうなんだよなぁ」
下級官吏である韓約は、戦とは無縁の男である。
だからこそ、他人事のように、そう評して陰鬱な表情をしていた。
伶徵、字を兆顕。
髪がわずかに灰色がかっている初老の男だ。
彼は現在、馬上の人である。
穏やかならざる情報を聞いて、彼の職務を果たすために普段の拠点から離れた場所に向かっているのだ。
護羌校尉。
というのが、彼の職務である。
漢という国の、異民族に対する態度は中途半端であると言わざるを得ない。
一見すると融和路線を取っているように見えるのだが、実態は国の首脳陣ですら、異民族を蔑視している傾向にあり、かといって、攻め滅ぼすほどの強硬さもない。
結果として、異民族の見張りを任務とした将が辺境に派遣されることとなる。
それが、護羌校尉や護烏丸校尉と呼ばれる将軍職だ。
護羌校尉は涼州に赴任して、羌族の動きを見張ることが任務だ。
楽な仕事のはずだった。
羌族は、先の護羌校尉である段熲が羌族を叩きに叩いたおかげで、二十年もの間おとなしかった。
そんな、悪さをしない異民族を見ているだけなのだ。事実上の左遷と扱われた。
伶徵もそう感じていた。
年を取った。
戦場で武器を振るったのもすでに過去のことだ。
だから、隠居なのだと考えて、一抹の寂しさを感じながら護羌校尉の任に就いていた。
問題のない羌族を見るとはなしに見ながら、趣味の読書などに時間を費やす緩やかな老後を送っていた。
そんな中の報告だった。
隴西郡の賊に羌族が呼応しているという情報を掴んだのだ。
天は我にもう一度戦場に立てと告げてきていた。
そうであるなら、応えないわけにはいかない。
伶徵は昂った気をそのままに、軍を動かした。
護羌校尉は配下に五千の兵を動かす軍権をもっている。
伶徵はとりあえず、二千の兵を率いて、本拠を出た。
隴西郡は目と鼻の先である。ひとまずここで情報を整理し、本拠に残してきた部下と連携する予定だ。
護羌校尉の属官には補佐官である長史と二名の司馬がいる。司馬は軍事行為を取りまとめる役職でいわゆる部隊長のことだ。
司馬の一人を本拠の漢陽郡隴県の県城に置いてきている。敵の規模によっては、残された司馬が残りの三千を率いて現場にやってくる手筈だ。
事態を重く見たのか、涼州刺史からも督軍従事の辺允が兵を率いて合流している。これで、合わせて三千の兵力だ。
「宣明。どう見る」
伶徵は連れてきた司馬である李扇に問いかけた。実戦の経験がない男だ。
「敵情視察程度なら、私でもできます。何も、兆顕殿が出なくてもよかったのではないでしょうか。万が一のことがあったら危険です」
李扇の言葉に伶徵は薄く笑う。
「まあ、私もできれば出たくはなかったのだがねぇ。そうも言っていられない。私の部隊の中で実戦の経験があるのは私だけだ。前線で私が判断を下すべきなんだよ」
それはそうなんですが、と未だに不満げにしながら李扇は所感を述べ始めた。
「隴西の賊は河関と枹罕の二か所に分かれて割拠しています。それらが結んだとなれば、かなりの規模になるでしょう。その賊と、羌族が手を結ぶことは十分に考えられます。双方に利が出ますからね」
河関や枹罕の賊がいたとしても規模は数百というものだった。その規模だと、羌族が手を結ぶ理由にならない。
しかし、二つの賊が手を組んだことで、兵力が千を超えた。その規模になると、羌族の側からしても戦力として換算できる大きさになる。
河関・枹罕の賊と羌族が手を結んだという情報は眉唾とは言えなくなったのだ。
「隴西の郡治は狄道です。そこから河関・枹罕までは川を越える上、大夏が戦に巻き込まれるかもしれません。対応が後手に回る可能性があります。川を超えるのは同じですが、金城郡の金城なら、間に県城もなく、被害が少ない状態で戦えるのではないでしょうか。仮に敵の勢力が予想よりも大きくても、川を防壁にして守りに専念すれば、増援が来るまでの時間を稼ぐこともできるでしょう」
伶徵は頭の中の地図と照らし合わせながら李扇の話を聞いた。
悪くない考えだ。
少し、敵を侮っている節は感じる。戦の後のことを考えているのが伺えた。
しかし、それも悪い視点ではない。
「ふむ。では、金城を間借りさせてもらおうか。隴西を迂回して、金城に入る。金城の県令と太守に伝令を出せ」
「は!」
そうして、伶徵は迂回する進路を取った。
金城郡太守府。
金城太守の陳懿は伝令から渡された書簡を読むと思いため息を吐いた。
「参ったわねぇ。こうなると、あたちも出ないとならないわぁ。やぁれやれ」
陳懿はそう言うと、部下に召集命令を出して、自身も出陣の支度を始めた。
支度の最中。
陳懿はポツリと呟いた。
「そういえば、河関・枹罕の賊は補足できているのかしら?」
陳懿が不穏なフラグを立ててますが、涼州のごたごたが始まります!
ちょっと誤字修正(2025年6月9日)。




