十幕 嫁をもらった計吏
気まずいとは何か。
『気』が『まずい』と書く。
まずいは恐らく、不味いだろうか。
気は雰囲気や空気のことを指すのだろう。
『空気を読む』というが、見えないものを読むも何もない。
では、不味い空気とは。
もちろん、空気に味はない。
例えば、毒素が含まれた空気であれば、味もするかもしれない。
しかし、普段生活する場所で空気の味を感じることなどないはずだ。
雰囲気も同じこと。
雰囲気は味わうものではなく、感じ取るものだ。
悪い雰囲気、いい雰囲気というものはあっても、美味しい雰囲気、不味い雰囲気、というものはないはずだ。
結論。
気まずい、というのは言葉が生み出した幻であり、この世にそんなものなど存在しないのである。
韓約はふと息をついて顔を上げた。
上げて、ひゅ、と自分の喉が鳴るのを感じる。
大きくて丸い瞳が韓約を覗き込んでいたからだ。
「な、でゅ、なんすか」
「んー? いや、急に俯いてぶつぶつ言ってたからどうしたのかなーって」
少女はそう言ってにっこりと笑った。
そんな少女から、韓約は視線を逸らす。
死ぬほど、気まずかった。
何進と語らった韓約は、そのまま何進の邸宅に泊まった。
翌日、起きて身支度をしていると、何進の邸宅に来客があった。
一人の男と少女だ。
男は呉明弼と名乗った。
何進の部下として働いている呉匡という男だ。
そして、少女は呉匡の娘で、呉結といった。
韓約は唖然とする。
呑みの席での冗談かと思った。しかし、何進は本気で韓約と呉結の婚姻を進めようとしているらしい。
『もちろん、二人のことだ。韓殿が洛陽滞在中の間、呉嬢と過ごして相性が良くないと感じたのならば、両者ともに拒否権はある。しかし、ろくに向き合いもしないで拒絶することは許さんぞ。皇后の兄としての命令だ』
そんな風に言われてしまっては、韓約も頷かざるを得ない。
少女も可哀そうだった。
見たところ、十代半ばのようだ。
対する韓約は、三十間近。
一回りは年の離れた男に嫁げと命じられたのだ。
それが美丈夫ならまだいいかもしれないが、韓約だ。
目つきも悪く、風采も上がらない。中央での出世も見込めない。
そんな男と過ごさなければいけない。しかも、皇后の兄君の命令だ。適当にすることもできない。
そう思い、気の毒な少女に視線を向けると、少女はその表情に恥じらいを乗せながら小さな声で「よろしくお願いします」と言った。
そのまま、街を歩いた。
呉結も韓約も無言だった。
韓約の方は何度か話しかけようとしたが、その度に「あー」「うー」と言葉にならない声を漏らすだけで終わる。
呉結もその空気が我慢できないかのように視線を彷徨わせていたが、あるものを見つけて華やいだ。
そこは、着物の飾り縫いをする店だった。
着物自体に飾りを縫い込むその商売は、洛陽で流行っているものだった。韓約には何がいいのかわからないが、今もその店には女性が多く集まっている。
「………寄ってくか?」
韓約が呉結に聞くと、呉結は驚いたように韓約を見て、遠慮をしようとしているようだった。
ならばと韓約は呉結の返事を待たずに、その店に歩み寄る。
そして、付いてこない呉結を振り返った。
「なあ。この店、ちょっと覗いてみたいんだけど。男一人だと通報されるかもしれないし、一緒に来てくれると助かるんだが」
そう言った韓約を、唖然とした表情で見ていた呉結は、吹き出すように笑うと韓約に走り寄ってきた。
「そんな簡単に通報されないよ」
「いや、目つきの悪い男が、女だらけの店に入るんだぞ。怖いだろ。通報されて捕まって、事情を聴かれて、慰められるまである」
「あー、目つきは、まあ。でも、そんな言うほどかな? 目を見なければ、平気だよ?」
「目見たら平気じゃねえのかよ。それ、対人関係絶望する案件なんだけども」
呉結は「確かにー」と笑いながら店の中に入っていく。
「あ、これ、新作なんだよー」
韓約の着物の裾を握って、店内を案内するように歩く呉結は、どうやらこの店の常連のようで、店員とも気さくに話している。
店員が呉結の隣に立つ韓約を見てギョッとしたようになるが、韓約はいきなりの呉結の攻勢に動揺してそれどころではない。
裾を握って韓約の横を歩く呉結は何が楽しいのか満面の笑みだ。
仕草も、表情も、声も、可愛らしい。
そんな女性に免疫のない韓約は、おどおどとしながら呉結について歩いていた。
結婚、と言われて、さすがに訳がわからなかった。
相手は涼州の計吏。
計吏はよくわからないけど、身分はそんなに高くないらしい。
それは安心。
安心できないのはその前の部分。
涼州。
すごく田舎だ。
そんなところに行ったら、着物の飾り縫いもできるかわからないし、可愛い髪飾りも手に入らないかもしれない。
それに、会ったこともない人をいきなり旦那様として見なくちゃいけないのも辛い。
暗い気持ちになりながら、父の上司の家に向かった。
そこにいたのは、目つきが悪く、表情も暗い男だった。背筋も曲がっていて、見るからに自信がないのがわかる。
それを見て、心はいっそう沈んだ。
しばらく一緒に過ごしなさい。
そう言われたけど、どうすればいいかもわからない。
一緒に過ごして、彼が帰るころにやっぱり無理でしたと言おう。
そう、心に決めていた。
けれど。
私が行きたいと思ったお店。新作が入荷すると言っていたのが昨日のこと。今日はもう入荷しているのだろう。
でも、さすがに彼を連れていくのはどうかと思った。
彼もずっと気まずそうだから。
女の人が多いあの店に入るとなると、きっともっと気まずくなってしまう。
だから、諦めようとした。
けれど、彼は自分が興味があるからついてきてくれ、と言って私をその店に連れて行ってくれた。
店の中で色々話しかけてみたけれど、とても興味がありそうな感じではなかった。
だから、私のためだったんだと、すぐにわかった。
さっきまで、怖かったこの人が、急に優しい人に見えてきた。
自分はこんなにチョロかっただろうか。
そう首をかしげながら、私は友達として仲良くなる分には悪くないかも、なんて思うようになっていた。
一週間が過ぎるころ。
韓約が帰還する目途がたった。
先日、韓約に諮問が行われた。中央の官吏たちの疑問に過不足なく答え、提出した文書の正当性を主張した。
これで、よほどの変事がなければ、韓約の出番はおしまいだ。
あと一週間もすれば、韓約は洛陽から帰ることができる。
ようやく肩の荷が下りた韓約だったが、新たな荷物を背負ってしまったような気分だった。
呉結。
最初の頃は、韓約のそばにいるのを嫌そうにしていた。
しかし、今では、涼州に戻った後の住居の話などをしてくる。
ついてくる気満々だ。
しかし、それにしては、彼女から恋愛感情のようなものは感じない。
好意を抱かれてはいるだろうが、年上の友人を得て懐いているような感じに見える。
しかし、韓約からは言い出すことができずに、日数だけが過ぎていった。
洛陽を出発した韓約の隣には、呉結がいた。
結局、二週間ほどの間、毎日のように呉結と過ごした。
それだけの時間、共にいれば、当然、嫌われると思っていた。
韓約自身、自分が人から好かれるような見た目も性格もしていないとわかっている。
だから、何進から婚姻の話を持ち掛けられた時も、そこまで深刻には考えていなかった。
どちらかというと、『また、女性に傷つけられるのだ』と、諦念を覚えてすらいた。
しかし、呉結は韓約から離れなかった。
二週間の間で、何度も文句を聞いたし、機嫌を損ねたりもしたはずだ。
それなのに、彼女はついてきた。
韓約は、訳もわからずに、彼女の同行を受け入れるしかなかった。
女性を連れての旅程ということで、韓約は馬車に乗って帰ることとなった。
馬車の中には、韓約と呉結。
馬車の周りには、呉匡と何進から出された護衛の兵がついている。
十人ほどだが、旅の間の安全は確保されていた。
彼らは韓約の任地である金城郡の允吾城まで二人を送り届けた後に、馬車を回収して帰ることが任務である。
洛陽城のある河南尹から金城郡の允吾県までは大小無数の川があり、それを迂回しながらの行程だ。ひと月は優に超える。
馬車はお世辞にも快適とは言い難く、長時間揺られていると腰も尻も痛くなる。
しかし、呉結は馬に乗れない。この移動法に韓約は耐えるほかない。
馬にも人にも休息が必要なので、一日に進めるのは百三十里(約52㎞)ほどとなっている。
途中途中にある亭で適宜休憩を取りながら進む。
金城郡に入った時、韓約が金城郡の経理報告をするために洛陽に出発してから、三か月が経っていた。一つの季節が過ぎ去ったことになる。
ようやく、韓約は地元に帰ってきた。
さて、困ったことがある。
韓約は官吏用の宿舎で寝泊まりしている。さすがに、呉結をそこに通すわけにはいかない。
かといって、もう一つの選択肢をそのまま採用するのもはばかられる。
「あー、呉嬢。ちょっといいか?」
「なにー? っていうか、呼び方。呉嬢って。距離あるくない?」
「いやいや。まだそこまでの関係じゃないので」
「ひと月以上付き合わせておいてそれは酷くない?」
「いやいや。そんなそんな恐れ多い」
「はーーー。ダメな旦那様だぁ」
そんな呉結のため息に、韓約は顔をそむける。
そむけるが、呉結からは赤くなった耳が見えていた。
「それよりもだ。お前をどこに連れていくかなんだが。俺、ずっと官吏用の宿舎で寝泊まりしてて、実家に数年帰ってないんだよね」
韓約の両親はすでに他界している。
それは、呉結も聞いていた。
しかし、官吏というのは一週間のうちに二日休みが与えられ、その間に自宅に戻る許可が出ていたはずだ。
それなのに、ずっと帰っていないとはどういうことなのだろうか。
「いや単純にさ。知り合いの家に世話になってたんだ」
「ヤッくん、友達いたんだ」
「なに? 友達いなさそうって? 正解だよ。一人もいないもん」
「わー………。ごめぇん………」
「別に謝ることじゃない。友達が増えれば増えるほど人間強度ってやつが下がるんだよ。いいか。友人っていうのは、大事にするものだ。一人を十全に大事にすればそれでいい。二人に増えたらそれぞれに割く労力が半分になって一人を見たら五の労力しか割けなくなる。三人になったら三の労力だ。四人になったら、細かくなるから省いて、五人になったら二の労力しか割けなくなる。それは本当に友人を大切にしていると言えるか? いいや言えまい。だから俺は友人を増やさないのさ」
「別に、二人に増えたら二倍頑張ってそれぞれに十の労力を割けばよくない?」
「おまえ、いつか過労で死ぬぞそれ」
「うーん。ヤッくんの言ってることは難しくてよくわかないや。仲いい人が増えれば嬉しくない?」
「そういう奴がいるから、勘違いする奴も増えるんだ。これは俺の友人の話だがな。人気者の奴がその友人に声をかけたんだ。人気者は友人のことを『友達だ』と言った。しかし、その友人はのちに気づくことになる。人気者は他の奴にも声をかけており、さらにその他の奴と過ごすことが多かったんだ。友人は『ああ。あれはきっと、親友と呼べる奴なんだ。自分よりも仲がいいんだ』そう思っていた。しかし、人気者は、その他の奴を指して『友達だ』と言った。友達の中にも序列をつけられていることを知った友人はその人気者から距離を取ったそうな」
「うーわ」
「いいか。人のことを簡単に友達と言ってはいけない。それを言われて傷つく奴だっているんだ」
「ヤッくん、傷ついたんだ………」
「いや、俺の話じゃない。俺の友人の話だ」
「? その、普段お世話になってるお友達の人が経験したお話なの?」
「いや、あいつはどっちかというと敵の方だ。人気者で、出世して、縁が切れたと思ったのに、しぶとい油汚れみたいに残ってやがる」
「友達じゃん」
「いや違う。断じて違う。あいつは俺に劣等感を抱かせる厄介な奴だ」
「はぁ。まあ、いいけど。えーとで、何の話だっけ」
「ん? なんだっけ。えーと、ああ、そうそう。そんなわけで、その知り合いの家に世話になってたから、実家の方が荒れ放題なんだよ。だから、どうするかなって」
「いいよー。お掃除から始めよう。任せて。得意だよ?」
「マジ?」
「うん。料理は苦手だけど、他のことなら何とかなるから。任せて!」
呉結は、腕まくりをすると、頼りがいのある笑顔を浮かべた。
「これ?」
「そう、みたいだな」
「………廃屋じゃん?」
「………そう、みたい、だな」
二人の前には年月の暴力に勝てなかった家が佇んでいた。
「………とりあえず、知り合いの家、行く?」
「この旦那様、情けないなぁ」
韓約と呉結は、辺允の家に向かうのであった。
「――――――は?」
「………………………………」
唖然とした親子に、韓約はもう一度同じ説明をする。
つまり。
「いやだから、洛陽で何県令に紹介されて、嫁を取ることになったんだって」
「それが、この子?」
辺允が向ける視線の先には恐縮しきった呉結がいる。
呉結は、この家についてから生きた心地がしていない。
というのも、辺允の娘・辺雪に穴が開くほどに見つめ続けられているからだ。
まるで見定められているかのような遠慮のない視線に、居心地の悪さを感じながらも、その圧に負けないように気を張っていた。
「あなた」
ずっと無言だった辺雪が口を開く。
「この男に脅されているの? 可哀そうに。私が守ってあげるわ」
綺麗な、鈴を転がすような、刃物を突き付けるような、そんな声音で、辺雪はそう言った。
「うえぇ!? いや、別に、そんなことは。ヤッくん、いい人ですし」
「大変よ、医者にかけた方がいいわ。もうすでに洗脳は始まっている」
「人聞きが悪いんだよ、いやほんと悪い」
韓約が諦めたようにため息を吐きながら、辺雪を手で示して呉結に向き直った。
「辺雪だ。確か年齢は、呉嬢と同い年とかじゃなかったか」
そう言うと、辺雪が自分の身体を守るように手で搔き抱いて立ち上がる。
「どうして私の個人情報を知ってるのよ。あなた、そうやって私の年齢を指折り数えてどうするつもり!?」
「いや、古馴染みの娘なんだから、年齢くらいは知っててもよくないか? ダメか? これ、キモいのか? あと、古馴染みの娘の年齢を指折り数える三十代男ってホントきついからやめてくんない?」
「あ、あの!!」
無限に続くかと思われた二人の掛け合いは、呉結の言葉によって中断された。
辺雪が鼻白んだように黙って、呉結を見る。
呉結は呉結で、自分の声が思ったよりも大きくなったことに驚いているようだ。しかし、気を取り直して辺雪に笑顔を向ける。
「あ、あの、私、十六です。辺さんは何歳ですか?」
「え、あの、えーと、私も、その、十六歳よ」
「わ。同い年なんだね! セっちゃんって呼んでいい?」
「――――――は? いや、ちょっと待って。待ちなさい。それ、誰のこと?」
「雪さんって名前なんだよね? だったら、セっちゃん!」
呉結は座を立つと、卓を回り込んで辺雪の方に向かって歩み寄った。
「私のことは、ケツって呼んでいいよ!」
「え。ちょっと―――」
辺雪が困惑したように韓約に視線を向ける。
昔から人付き合いが苦手で、同年代の友人というものと過ごしているのを見たことがなかった韓約は、辺雪に同年代の同性の友人ができたように思えて嬉しくなる。
「良かったな。あっちで親睦を深めてくるといい。俺は仲遂と話があるから」
韓約がそう言うと、呉結は笑顔で頷いて、辺雪を引っ張るようにして奥に入っていった。
「どういうことなんだ」
辺雪が呉結に引きずられるようにして客間を後にすると、辺允がすぐに韓約に聞いてきた。
「どういうことって言われてもな。さっき説明しただろ? 洛陽県令に目を付けられて、部下の娘をあてがわれた」
その説明は簡潔だ。
そして、辺允には欠片も理解できなかった。
「洛陽県令に目を付けられるって、何をしたんだ君は。会計報告をしに行っただけでどうしてそんなことになる!?」
「それはこっちが聞きてえよ」
辺允の困惑は、韓約が何進に呉結を引き合わされてからずっと感じているものだ。
何進。字は遂行。
現皇帝の后の兄だ。
いずれは国の中枢で働くことになるかもしれない人物。
そんな人物が、地方の会計報告の任を帯びた下級役人に目を付ける理由も、対談をする理由も、部下の娘をあてがってくる理由もわからない。
しかし、韓約にはわからないながらも推測はできていた。
「まあ、要するに、詳しい事情はわからんが、地方に自分の手駒を置いておこうとしてるんじゃないか? 辺境の情勢とかは、呉嬢を通じて手に入れられるって考えなんじゃないか。涼州の中央部である金城郡が情報集積にもってこいだったとか?」
そんな韓約の言葉を聞いて、辺允は頭を抱える。
辺允は、娘の辺雪を韓約に嫁がせたいと考えていた。
辺雪も韓約のことを憎からず想っているのはわかりやすすぎるほどにわかる。
ただ、彼女は自分が信頼した相手に対して、口が悪くなる悪癖がある。
軽口の応酬を楽しんでいるようだが、そのせいでどうにも色っぽい展開にならない。
韓約も辺雪からの信頼は感じているようだが、恋い慕われているとは夢にも思っていないようだ。
どこかで、強行にことを進める必要があると考えていた。
しかし、事態は動いてしまった。
韓約に洛陽県令にして皇帝の義理の兄からの紹介で呉結が引き合わされた。
これは、立場を考えると、とてもではないが反故にしていい話ではない。
もはや、決定事項だ。
韓約は断らないだろう。
断るならば、この地に連れてくる前に断っているはずだ。
何進の顔を潰さないように気を付けつつ、嫌われようとしたはずだ。
しかし、韓約の表情からはそれがことごとく失敗したことが読み取れた。
芯の強い女性なのだろう。
気難しい辺雪にも笑顔で対応してくれる気立ての良さも見えた。
韓約の友人として、辺允は二人の婚姻を寿ぐことしかできない。
そうはいっても、自分の可愛い娘の幸せを諦めることもできなかった。
「韓伯章。もう一人、嫁はいらないか?」
「は?」
「あの子と一緒に、うちの娘も娶ってもらいたい」
「――――――――――――」
(どうしてそうなった!?!?!?!?)
この後提案をした辺章は辺雪にボコボコにされましたとさ。
今回はラブコメ回!
呉結は俺ガイルの由比ヶ浜イメージ!
この世界設定ならヒッキーならぬ韓約は二人と結婚できるのである!!!!!




