九幕 洛陽入りした計吏
洛陽。
漢帝国の首都であり、皇帝の御座所。
市民の生活する場所から遠く仰ぎ見るようにして政庁が置かれている。政庁は皇帝の生活区ともなっており、北宮・南宮の両宮に漢帝国の行政が集まっている。
政庁内のすべてのものに担当する大臣がおり、絢爛豪華な調度品がそこかしこに飾られている。
顔のよく似た召使いはいないにしても、ジョゼフィーヌと名のついた愛馬くらいはいるかもしれない。
そんな、他国の文化すらも取り込んでしまいそうな、雑多で瀟洒で武骨で洗練された都市。
それが、韓約が洛陽に感じるすべてであった。
(いや、それにしても、お誘いなくなっちゃった。もう帰りたいんだけども。ダメ? ダメかぁ)
それはそれとして、その空気感は、韓約にとって場違いでしかなかった。
今、洛陽は、平時よりもほんの少し活気づいている。
もっとも、ほんの少しとはいえ、韓約からしてみれば、大山鳴動どころか泰山鳴動の大賑わいだ。しかし、洛陽の市民はみな慣れているのか驚く様子もない。鼠が逃げ出す様子もない。小鳥ですらのんきに唄を歌っている。
しかし、田舎者の韓約は目を白黒させていた。
そんな、韓約を驚かせている理由。
一年に一度、国は各郡の経理を報告させるために、人を集める。
漢は十三の州を束ねており、その十三の州の中に百前後の郡や国が割り当てられている。
年によって統合したり分裂したりするので正確な数を把握しているのは漢帝国の中でも一部であろう。
その、百前後の郡や国はそれぞれ県という行政区を受け持っている。
県の少ない郡は五県ほどだが、多い郡は三十県を超える。
郡はそれらの県の情報を集めてまとめ上げ、一年に一度報告するのだ。
そのために、下級の役人を計吏として任命する。
韓約は今年任命された計吏だった。
百人の経理担当から報告を聞かなければならないとなれば、当然途方もない時間がかかる。
報告を聞いた後に、その情報を精査し、場合によっては計吏に諮問をしなければならない。
他の地域の情報と比べる必要も出てくるかもしれない。
故に、計吏はみな、全ての話を聞き終え、問答を終えるまで洛陽に滞在することになるのだ。
洛陽の政庁に勤めている官僚たちもそれをただ傍観しているわけにはいかない。
少しでも諮問を円滑に行えるように、計吏たちとコミュニケーションを取って間柄を深めようとする。
官僚たちは他にもやるべきことがある。
犯罪に走っている郡国は存在しないか。
仮に、太守や県令が謀反を企てたとして、その抑止力を手に入れられるか。
そういったことに血眼になるのだ。
例えば、地形だ。
川や山、谷。そういった難所を知っていれば、進軍も容易になる。
国の中枢が地方のそういった情報を手にしているだけで、地方の有力者は叛意を翻しにくくなるものだ。
だから、地方から来た計吏を接待して懐柔するのだ。
太守は中央で任命され派遣されるが、計吏は太守が現地で見出した地元民だ。
地方の情勢などはよほど詳しい。
そんな田舎者を大都会に呼び出し、冷静な判断力を奪って地方の情報を丸裸にする意味も、この報告会には確かにあった。
確かに、そういう意味も、あるのだが。
韓約は一人で商業区を歩いていた。
(なんで? 歓待、されなくなったぞ? ヤク君、悪い計吏じゃないよ? 目つきは悪いけど。でもいい子だよ? 俺、今晩もフリーですよ?)
そんな心の声に応えるものは誰もいない。
目つきが悪く、猫背。周りから遠巻きに見られてひそひそと話される。
そちらに視線を向けると「ひっ」と息をのむ声。
かっこいい男を見て女があげる黄色い悲鳴、には聞こえない。なんだったら、野太い男のひきつった声だった。
韓約が首を巡らせると、周囲の人間はみな視線を逸らす。
その、いつもの光景に、韓約はため息を吐きながら商店の物色を続けた。
韓約の目に映るのは様々な品だ。
国内だけでなく、シルクロードを通じて国外からも運び込まれた品々は、韓約が聞いたことすらないものが多い。
ワインと呼ばれるブドウを用いた果実酒やいろいろな香辛料、ソースなども目新しい。
外来の物語を聞かせてくる説話師などもいる。
光り輝く純金や、火薬などもこの国ではまだ普及しきっていないものだ。
見聞を広めるには。
そして、国の政治を知るには。
商業区に来れば大まかに知ることができる。
(ついでに、辺雪に何か買っていかないとな。土産をねだられたし。あれはねだってるなんてかわいいものじゃねえか。ゆすってるんだよな。漢字にすると同じだけどさ)
強請ると強請るの違いに思いを馳せながら、韓約は適当なかんざしを手に取る。
白い花弁があしらわれたそのかんざしは、雪の結晶にも見える。
自分の審美眼の良さにご機嫌になりながらそのかんざしを買おうとして、後ろから声が聞こえた。
「店主。彼が持っているこのかんざし、買うぞ。いくらだ」
突然の声に韓約が驚きながら振り向く。「ふぇ、ひゅひ」とか声が口から洩れた。
そんな自分の緩い口を必死に引き締めながら、韓約は背後の男に言葉を返す。
「あいにくだけど、早い者勝ちだろ。このかんざしは俺が見つけて手に持ってる。さすがに横取りはどうだよ」
気分よく買い物をしようとしていたのを邪魔され、韓約の言葉が刺々しくなる。
それに対して、背後の男は自分の髪を撫でつけながら、もう片方の手を振った。
「ん? ああ、いや、違うんだ。俺の金で買うといい」
帰ってきた言葉が予想外すぎて、韓約は目を丸くする。
「は? なんで?」
「お前さんを口説くためさ」
思わず質問を投げかけた韓約に、男は明快に答えてくる。明快に、訳の分からないことを。
「あ、いや、そういう? あの、いや、俺、そういう気はないので。違います。俺、違います」
目線を合わせないように、韓約が答えると、男が焦ったように韓約の肩に手を置いた。韓約の身体が跳ねる。
「ちち、違う。そういう意味じゃない! 話を聞いてくれ! 韓殿!」
「名前を知られているぅ!?」
「合ってるよな。韓殿、だよな? 俺はこの地、洛陽の県令をやっている、何遂行という。お前さんが面白い奴だというのはよくわかった。しかし、俺にもその気はない。そちらの歓待がそろそろ落ち着いたと聞いたのでな。当家で歓待させてもらいたいと思った次第で探していたんだ。ありていに言えば、そのかんざしの金を俺が出すから仲良くしてくれんか?」
そう言ってくる男―――何進を韓約は上から下まで眺める。
嘘はなさそうだ。
県令というのも本当だろう。
洛陽の県令ともなればよほどの人物なのだろう。このかんざしの金を出すくらいわけもない。
しかし。
「まあ、じゃあ、ありがたく、ご相伴にあずかります。ただ、このかんざしは俺が自分で買うんでいいですよ。贈り物を人に買ってもらうとかダサいでしょ」
そんな韓約の言葉を聞いて、何進は「なるほど。やはり、面白い男のようだな」と、破顔した。
何進の邸宅は政庁にほど近い地区にあった。
他の市民のものと比べると、少し大きい程度の屋敷だ。
韓約は拍子抜けをするような気持になった。
それを見て取った何進が苦笑する。
「外戚とはいえな。まだ俺の身分は洛陽県令。俸給としても大したものではないさ。もっとも、陛下から挨拶金をもらっているから、金がないとは言わんがね。それでも、安定して金を稼げるようになるまでは優雅な暮らしはまだ我慢だな」
そう、あけっぴろげに言ってくる何進に韓約は唖然とする。
漢という国は、蓄財をする行為は褒められたものではないとされていた。
むろん、悪ではない。
しかし、財貨を貯めておかずに、市井に放出したり、国に提供することが善とされており、財を凝らして贅沢をすることも悪徳であるとさえ言われている。
生活に必要な金銭を得て、質素倹約に過ごすのが正しい生活態度だった。
立場が上になれば、国が任命した人間のほかに、自分が独自に見出した者を部下にすることができる。その際、見出した部下は自分の給料から俸給を出さなければならない。
昇進することで増える俸給の使い道はそれだけに限定されており、自身の贅沢に使うべきではないとされていた。
しかし、それは、体面の話であり、実質的には立場が上になればなるほど有り余るような財を手に入れられる。
何進はそんな暗黙の了解を言葉に出して笑うのだ。
韓約がギョッとしたのも無理はない。
「さて。ただいまー、っと」
そんな韓約には気づかずに、何進は邸宅の戸を開ける。
中からは旨そうな匂いが漂ってきていた。
「おかえりなさい、あなた。そちらが韓殿ですか? お食事の用意はできております。そちらのお湯で埃をお流しくださいな」
二人の前ににこやかな女性が姿を現した。
「おう。ありがとうな、ジュン。韓殿。妻の彗潤だ」
その言葉に、再び韓約はギョッとする。
基本的に、妻を人前に出すのは禁忌とされる時代だ。上流階級であればあるほど、当然それは忌避される。
何進は県令というが、それでも漢の首都の役人だ。そういった作法というものを知らないはずはない。
しかし。
「おう。韓殿。気にするなよ。俺は生まれも育ちも城外の里だ。さらに、身分も低かった。客を歓待するのに、女房を使う以外の選択はないのさ。それに、使用人を雇えるほどに潤沢な資金はないからな」
そう言って、韓約は笑って室内に入っていく。
「ああ、まあ、そういうこと、なら」
釈然としない面持ちで、韓約は何進の後に続いた。
「さて。まずはしっかりと名乗っておこう。何遂行という。洛陽の県令をしているが、近いうちにまた昇進の予定だ。皇帝陛下の奥方である何皇后は俺の妹でな。その外戚ということで、無官だったこの身は急遽役人として引き上げられたということさ。僥倖、というやつだな」
「………はあ。なるほど」
韓約は表情を動かさないように細心の注意を払っていた。そうでないと、露骨に嫌悪の表情が浮かんでしまいそうだったからだ。
要するに、皇帝に妹を差し出して、代わりに出世を重ねているということだ。
家族を売ってまで地位を求めるその姿勢は、理解はできても共感することはできそうにない。
「計吏として集まったものの中でも、貴殿は特に目立っていた。話を聞きたいと思っていたんだよ」
「目立って、ましたかね?」
「ああ。確実に。並み居る洛陽の化け物たちを相手に一歩も引かずに情報を出し渋ってみせたんだ。反逆を疑われても仕方ないが、それすらも華麗に躱していた。話を聞くたびに、見事なものだと思ったよ」
そう言われて、韓約はここ数日の歓待を思い出していた。
『韓殿。金城郡には湟水という川があるそうですね。深さはどの程度のものなのですか?』
そう聞かれれば、
『まあ、雪解け水の量にもよりますし、川幅のどこを測るかにもよりますねぇ。深いところだと、俺は頭すら出ないですよ』
と答える。
『韓殿。金城では税の徴収はどうなっている?』
と聞かれれば、
『報告書には書いてるので、そっちを確認してください。俺の権限では諮問以外で答えることはできないんですよねぇ』
と答える。
正しい答えだ。
しかし、歓待を受けている最中に、なかなかここまでバッサリと答えることはできまい。
それに、ほとんどが田舎の下級役人だ。洛陽の化け物たちにいい気分にさせられて、口を滑らす者がほとんどだった。
しかし、韓約は余計な情報は漏らさない。
歓待は受けても、そこからさらに金銀を受け取るのは拒否をしたそうだ。それについても、洛陽の化け物たちからすれば御しにくく感じただろう。
「さらに傑作なのがこれだ」
ある官吏が韓約を家に招き政治の話になった。
民が税を納めない。どうすればいいか。
それに対して、韓約は少し黙ると口を開いた。
『結局のところ、税を徴収できずに困るのは国です。ならば、国は税が納められるのを待つのではなく、税を集めに行けばいいんじゃないですかね。民からしてみれば、国に税を払わなかったとしても不利はないと思っているのでしょう。この国は辺境であれば異民族の襲撃もあってその都度官軍が民を守っています。だから、民は国に守られているという実感が働き、その礼として国に税を納めるのを渋りません。しかし、内地であればあるほど異民族の襲撃も起こらず民は国に守られている実感がありません。だから、税を出し渋る者が出るのでしょう。税を集めに行くことで民の生活を官吏が直接肌で感じ、民の求めていることを知り、それを国家の事業として応え、国に所属することの恩恵を明確にしてやれば、自然と民は税を払う、んじゃないですかね』
韓約の言葉を聞いた官吏は絶句した。
民をどう動かせばいいのか。
そう尋ねたのに、民が動かないなら自分が動けばいい、と返されたのだ。
官吏にもメンツがある。
そう簡単に納得できるものではない。人に指示を出すだけで金が手に入る立場なのだ。今更あくせく働くことなどできるわけがない。
しかし、渋る官吏に、韓約は笑顔で言った。
『あとは結局、そのメンツと国家の損の天秤じゃないですかね。国の損が微々たるものなら、メンツを優先すればいい。国の損が膨大ならメンツをかなぐり捨ててでもやらなくてはならないでしょう。官吏が国のためにどれだけ自分の誇りを捨てられるかじゃないですか?』
「いや、聞いたときは大爆笑してしまったぞ。それでいて、絶妙に明言を避けている。あれで怒ってしまえば、逆に自身の器の小ささを喧伝するようなものだ。俺は感動したんだよ。できれば、俺とも問答をしてくれると嬉しいものだ」
そう言って笑いながら何進は焼いた豚の身をほぐして韓約に差し出してきた。
特殊なたれを使っているらしく、口の中に入れるとピリピリとした辛みと、果物のような甘みが口の中に広がる。それでいて、肉の旨味を一切邪魔しない。不思議な味だ。
「問答と言われましても。俺はそもそも、問答だとは思ってなかったんですが。それに、人に何かを披露できるほど、俺は優れた人間ではないですよ?」
「まあ、そう言うだろうな、貴殿は。では、どうだろうか。貴殿に一つの意見として訪ねたい。ただのいち意見だ。気軽に答えてほしい。韓殿。俺はこれから、どうすればいいだろうか」
「―――は?」
呆けた韓約に、何進は苦笑した。
「俺は、望外の立身を果たした。全ては陛下が妹を見初めたからだ。いったい、いつ、妹が陛下とねんごろになったのかはわからない。しかし、結果として、妹は陛下のもとで御子を産んだ。であれば、覚悟などなくとも、俺は宮中に招かれる。せめて、自身の身を守りたいのだ。この立身を保つ術はあるだろうか」
そんな、問いかけに、韓約は目を丸くしながらも考えることとなった。
韓約は正面に座る何進を伺う。
いったいどういうつもりなのだろうか。
ここで、何進の肩を持つ発言をすることは可能だ。何進は外戚である。外戚と敵対している政治組織。そんなのは、宮中にいなくてもわかる。
宦官だ。
男根を切除し、皇后の身の回りの世話をする役人。
それがいつしか、皇帝の補佐まで行うようになってしまっている。
これは何も今に始まったことではない。
宦官が力を持つと、外戚がそれを排除し、外戚が専横を始めると、宦官と皇帝が力を合わせて国家を清める。
漢という国はこの繰り返しの歴史だといっても過言ではない。
そんなことは、辺境にいる韓約ですら知っている。
そうなれば、今は外戚が宦官を打ち崩そうとする番なのだろうか。
今は宦官が力を持ち、皇帝に近侍して都合の悪い上奏を断ち切り、宦官の支配に都合のいい話だけを皇帝にしているらしい。
それを、外戚である何進は打ち倒そうというのだろうか。
それとも。
何進は自身の躍進を助けたという宦官を守ろうとしているのだろうか。
韓約には、何進という男がいまだ量れていない。
「何県令殿は、孝廉という制度についてどう思いますか?」
なので、どこまで話すべきか。まずは、何進という男を推し量ることにした。
何進は質問を返されて目を丸くしたが、すぐに答えを考え始めたようだった。
質問を質問で返すなこのびちぐそが! とはならないようで、韓約はひと安心しながら何進の答えを待つ。
教えを受けたいと言っているのだから、偉ぶりすぎだということもないだろう。と、韓約が胸の内で必死に自分を慰めていると、何進は答えがまとまったのか口を開いた。
「孝廉。孝行者で清廉な人間を官吏として登用する制度のことだな。県令や県丞になる者は、才ある者よりも人格者の方がよりよく治められるということだ。民間人から広く募集することによって、太学に通う官吏とはまた違った才をもつ者を発掘できる。実際に、孝廉に選ばれたものが高官に至ることも珍しくはない。まあ、国としては、下手に優秀な者を従えて謀反を起こされるよりも、人格者を従えた方が御しやすい、というのもあるのだろうな」
何進の歯に衣着せない言葉に、韓約は本日何度目かわからない瞠目をした。
実際、漢という国は約百八十年ほど前に一度、重臣の反乱によって打ち倒されている。
打ち倒した後、『新』と名乗ったその国はわずか二十年後に漢の後継者によって打ち倒され、漢は復活した。
だから、歴史の中では『前漢』と『後漢』に分けて語られるのだ。
そして、漢は過去から学び、才ある者だけでなく、仁徳に優れた者を育成する方針を行ってきた。
国教が儒教であることもその一環だ。
その事実を、何進はしっかりと理解しており、その上で現実的なものの見方もできている。
外戚というだけでその立場に座っているのではない。
しっかりと物事を見て、考えて、自分の意見を持っているのだと感じさせられた。
ならば、宦官にただ阿るだけの男ではないのかもしれない。
そんな期待を込めて、韓約は口を開いた。
「孝行者で、清廉、ねぇ。まあ、まったく。原義としてはその通りでしょうな。しかし、現実はどうです。孝行という言葉、それから清廉という言葉はそれぞれ、意味を変えるべきではないですかね」
「どういう、ことだ」
「いや、そのままの意味ですよ。だって、そうでしょ。孝廉として選ばれた人間。それが、県令になって。県丞になって。どんな政治をしてるって言いますか。ゆくゆく高官になった時に、どうですか。洛陽ではどうかは知りませんが、地方では賄賂が横行していますよ。そもそも、洛陽でも、歓待を受けているときに金銭の受け渡しを申し出てきた人たちがおりました。そういった人たちが国としては清廉なんでしょ? 民が国に不信感を持つのはそういった悪政があるからです。民に不信感をもたせる政治をするのが孝行者ってことでしょ? いやあ、俺が知っている清廉とも孝行者とも違いすぎますね。ぜひとも、言葉の意味を変えるか制度の名前を変えていただきたいものです。邪心をもった不孝者の集まりってことで『邪孝』とかどうです?」
韓約は、決死の覚悟で、そう煽ってみた。
何進は顔を覆って、韓約の言葉を咀嚼した。
「そう、ならないためには、どうすれば、いい」
何進の消え入りそうな問いかけに、韓約は肩を竦める。
「そんなの、それこそ、俺みたいな地方の木っ端役人が思いつく程度のことなんて、皆さんでとっくに検討してることでしょう」
「物は試しだ。君の意見を聞きたい」
何進の視線がまっすぐに韓約を射抜く。その強い視線に、韓約はすわりが悪くなり目を逸らした。
「そうですね。ぱっと思いつく程度のことですが。そもそも、賄賂の授受をやめればいいんじゃないですか。賄賂を受け取らないとやりくりができないのは皇帝陛下の売官によるものですよね。それをやめてもらうように言上申し上げ奉るってのはどうですか。皇后の兄君であるあなたなら、その言葉も届きやすいのでは?」
「売官制度の取りやめをお願いするのか」
「売官さえなければ、官職を続けることに金が要らなくなります。そうすれば、高官たちが金を貯える理由が減り、賄賂の横行も今よりはおとなしくなるでしょう。結果として、民に課せられている税も安くなり、暮らしも安定するのでは」
「なるほど。一理ある。しかしな、韓殿」
頷いた何進は、しかし、その眉尻を下げて言う。
「すでに言上奉ったのだ。売官をおやめくださいますようにと。しかし、受け入れられることはなかった。実際に話せばわかる。陛下は愚かではない。だからこそ、俺はわからないのだ。陛下が国が乱れるとしても売官を行うその理由が」
「………………………………………」
(売官は、国が乱れる原因の一端を確実に担っている。売官がなかったとしても、先代皇帝の政治によって宦官が台頭してすでに国家は弱っていた。それが、売官をすることで加速している。今の皇帝はすでに荒れた国に着任したことになるのか。その荒れ模様を見て、皇帝は荒廃を加速させようとしてる、とか)
韓約は首を振った。
自分の妄想がバカらしかったからだ。
しかし、確実に、何進に助言できることも見えた。
何進に向き直り、その強い視線を受けて、目を逸らす。
目を逸らし、手をもぞもぞと組み替えながら、韓約は自分の考えを話し始めた。
「えー、あー、っすーーーーーー。そもそも、ですね。現皇帝陛下の売官は確かに国家の荒廃を招く一翼となっています。しかし、皇帝陛下の売官だけであれば、そもそもそこまで大きな事態にはなっていなかったのです。えー、売り物というのは買い手がいないと意味のないものです。値段にしても、法外な値段を払えるほどの財がなければだれも買いません。問題は、陛下が提示した金額を払えるだけの財力をもった者がいたということです。そしてそれが少なくなかったということです。陛下の行動はそういった者たちから正当な手順、と言えるかはわかりませんが、反感をもたれない程度に財貨を回収したともとれるのです。造園に資金を使ってらっしゃると聞きましたが、見方を変えれば高官たちがため込んでいた財貨を民に還元したとも取れます。そうなると、陛下の売官は高官たちが賄賂の授受を行っていた土壌がなければ実現しないものなのです」
皇帝・劉宏はその土壌を見て、自浄作用が機能しない国も見た。故に、売官を行うことで国の荒廃を加速させ、国を一思いに滅ぼそうとしているのだろう。
緩やかな腐敗ではなく急速に荒廃していけば、反感をもつ者たちも増え、漢を打倒して新たな王朝を作ろうとする者も出てくるはずだ。数年。もしくは数十年。激動の時代は続くかもしれないが、収まるころには新たな国ができている。
この大陸は、何度も支配する王朝を変えながら新たな文化を作り上げてきたのだから。
先ほど思い描いた妄想がなかなか消えてくれない。
しかし、妄想したことが事実であれなんであれ、根本を解決することはできる。
「例えば、皇帝に近侍している宦官。彼らは正当な報酬で働いていますか? 職務を忠実に行っていますか? そういった者たちを、粛清してしまいましょう。例えば、中常侍ですが、これは皇帝への取次ぎを仕事としています。しかし、彼らが自分たちに都合の悪い内容の取次ぎを行っていないことは明白でしょう? 証拠なんかなくても、わかりきってるのだから大粛清してしまえばいい。財を多く持ちすぎている宦官。それをまず皆殺しにします。そうすればあなたの対抗はいなくなる。あなたが独裁する時代が来ます。もちろん、それで国を荒らしては仕方ありません。そうならないように細心の注意を払うべきだとは思います。宦官の粛清が終われば、次に党錮の禁の解除を行って真の意味での孝廉にふさわしい者たちを招辟し、そこからまっとうな政治を始めていけばよいのでは」
不当に財貨を貯めこんでいる者たちがいなければ、皇帝の売官は機能しなくなる。
買い手のなくなった商品にいつまでも固執することはないだろう。
本来であれば、様々な法が個人を増長させないように縛っているはずだった。
しかし、その法を曲げて、無視して際限なく増長する者がいるのならば。
それを超法規的措置で排除するしかない。
皇帝の売官はあがきのようなものだ。
上級官職に位置する者たちにとっては労せず払える金額だっただろう。それでも、多少なりとも財力を減らすことに成功しているはずだ。その余波を受けたのが地方の太守や県令、そして民たちだった。
それでも、皇帝はできる範囲で国家に巣くう病巣の力を削ごうとしたのだろう。
何進がこのまま昇進を続けていけば、宮中の兵すらも動かすことができるようになる。
それを使って罪人をすべて処刑してしまえばいい。
血塗られた道となるが、そのあとに善政を敷けば後世からも英雄として称えられるはずだ。
しかし。
韓約の言葉を聞いた何進は顔を青くしていた。
「か、韓殿。それ、は。そこまで、しないと、ダメなのか。どうにか、もっと穏便に済ませることはできないのか」
「穏便に済ませるだけならいくらでも。ただ、問題の根絶ができない以上、同じことが繰り返されるでしょうね。県令殿も失脚させた相手に恨まれることになります。穏便に済ませた方が先は危険になりますよ」
その言葉に、何進は唸りだす。
「言いたいことは、わかる。正しいことも、わかる。しかし、俺にはそれだけの決断をする覚悟は、ない。それに、一時的にせよ俺が独裁を行う? そんな立場になって、自分が権威欲に憑りつかれない自信はないぞ。今だって、より安全に金を稼ぎたいと思って貴殿に相談しているくらいなのだ。そこまで高潔にはなれん。俗人だぞ、俺は」
絞り出すように何進が言う。
それに対して、韓約は肩を竦めた。
「まあ、あなたの立身を守る。あなたの立場を、あなたの稼ぎを、守るにはどうするか、という問いに対する答えの一つです。俺は非才なれば、この程度のことしか思いつきませんが、他にもいくらでも道はあるでしょう。俺の提案ができないのだとしても、そこまで気にすることはないですよ。所詮は見識の狭い地方の木っ端役人の妄言なんですから。だからできれば、今日の俺の数々の無礼は内密にお願いしたいです」
へへへ、と卑屈そうに笑う韓約を、何進は苦々しげに見つめるのだった。
異才だ、と思った。
いまだ、三十にもなっていない若者だ。
何進から見ても十近く年齢に差がある。
しかし、彼の見ているものは、とてもではないが一個人の視点ではなかった。
国としての動き。歴史の中での動き。
そういった超然とした俯瞰的な視野だ。
国にとって害となる存在を粛清すべし。
飲み屋でくだをまくオヤジたちと違うのだ。
今、彼は、確実にソレを為せる人物に、粛清を説いた。
自分の言葉が発端となって大勢の人間が死ぬことになるかもしれない。
そのことに恐れを抱いていないようだった。
理解していないのではない。
大勢の人の死を理解した上で、より大きなものを守ろうとしている。
何進は善人ではない。
人並みの欲もある。人並みに不正もする。
自分や家族の身を守るためならば、一人や二人罪のない人間を殺すこともできる。
しかし、それが、何十人という単位になれば尻込みをする。
その程度の人間だ。それが、何進だ。
人間はだれしも自分の中に理を持っている。
自分の中の正しさのために、世界の標準的な正しさを無視することもある。
自分の身を守るために人を殺す。
それは、法を犯してはいるが、自分が生きるために仕方がないことだ。
それと同じこと。
問題はどこまでの規模を許容できるかだった。
何進は、自分が家族と認めた者を守る際に法を犯すことを厭わない。
しかし、それにも限度があると思っていた。
韓約は、国を存続させるために、数百人いる宦官を殲滅しろと言ったのだ。
それを、正しいことと認識している。
その、際限のない善性が、何進には恐ろしく、そして、頼もしく、羨ましく、まばゆく映った。
「すまない。韓殿の言葉はまったくもって正しい。そして、その正しさを断行するだけの覚悟が、俺にはなかった。貴殿の助言に足る人間であれなかったことを、ただただ、悔しく思う」
頭を下げた何進に、韓約は慌てた。
「や、や、ちょ、やめてください。なに、頭とか下げてるんですか。いや、俺の方こそ、無茶言い過ぎまして、ごめんなさい。洛陽の県令様と話せる機会があるとは思ってなかったもんで。しかも、外戚様じゃないですか。調子乗ってすみませんでした」
お互いに頭を下げあう。
それがひとしきり済んだ後、何進は突然提案した。
「どうだろう。嫁を取らんか?」
「―――――――――は?」
「韓殿は独身か?」
「え、はいまあ。こんな面相の奴に嫁ごうなんてもの好きな女はいないもので。今生は縁がなかったと諦めております。きっと来世では、今生の分、女性に関していい思いができるのでしょう」
「はっはっは。枯れるにはまだ早かろう、韓殿。俺の部下に、年頃の娘を持つ親がいる。ここで、その娘と婚姻を結び、俺との縁を保ってはくれまいか」
「いやあの、言ってる意味わからないんですけど!? だいたい、相手の了承も得ずにそんな勝手なことあります!? しかも、仮に政略的なものだとして、それを本人に言うってどういうことですか!? というか、辺境の計吏に対して政略結婚もないでしょ!?」
慌てる韓約を、何進は無視する。
「ジュン! いるか!」
奥に声をかけると、彗潤が顔を出した。
「彼は立派な若人だ。呉明弼に使いを出せ。彼の娘を韓殿に娶せようじゃないか」
その言葉に、彗潤は顔を綻ばせる。
「あら。おめでたいですね。さっそく、使いを出しましょう」
「韓殿が洛陽を発つまでに交流を深めなさい。洛陽を発つときに彼女を連れて行きなさい。―――ああ、もちろん」
何進が韓約の肩を掴む。親愛表現のように見えて、その手にはどんどん力が込められていく。
「よほど気に入らないのならば、もちろん、無理にとは言わない。しかし、そうでないのなら、洛陽県令の勧めた婚姻、断ってくれるなよ」
にっこりと威圧してくる何進に、韓約は涙目で頷くことしかできなかったのであった。
何進と韓約のお話は大枠は史実です。
洛陽に計吏として来ていた韓約を何進は目をかけた。
韓約は何進に対して宦官を誅滅するよう何進が従わなかったため韓約は郷里に引き上げた。
と魏書の注釈にあります。
まあ、この辺りのエピソードを佐久彦風に書いたものですね。
まだ、韓約の人物像模索時期って感じです。




