2.
「私が教師を目指したのって、中学時代にいじめられてたからなんだよね」
ただ、あなたのことが知りたい。その気持ちがあなたを傷つけたかも知れないと思うと、居ても立ってもいられなくなって、その言葉は自然と、零れるように声になったんだ。
六月も近づいて、そろそろ九州は梅雨入りするらしい。
――でも、毎年こんな時期だったっけ?
十四歳頃まで住んでいたはずなのに、忘れてしまったのか、そもそも興味が無かったのか。まあ、北部と南部じゃまた違った気がするし、知ってたからといってどうなるというものでもない。
それよりも、だ。梅雨よりも先に夏が来たんじゃないか、というこの暑さはどうだ?
朝はノースリーブのワンピースの上に、少し迷ってからカーディガンを合わせてきたけれど、その判断の正しさを、電車や教室の冷房で知ることになるとは思わなかった。
だけど……まあ、カーディガンを脱いで待ち合わせに現れた私を見たヒカリが、驚いたというか、あれは……ギョッとした、とでも言った方がしっくりくるような、そんな珍しい表情を見せてくれたので、悪いことばかりでもないのかも。
この日のテラス席は人も少なく、いつもよりゆったりと昼食を済ませる。これも暑さのおかげというべきか。
食事中の会話は、後からでは思い出せないほどに他愛もない内容で。だから、というわけでもないけれど、それが途切れて沈黙が訪れても、そこに焦りとか気まずさとかはなくて。
そして私はその沈黙の中で、ヒカリとの間にそういう空気感が生まれていることを嬉しく思っていたりもして。
だけど、やはり人の欲望というものは際限ないものなのか、私の中に、もっとヒカリのことを知りたい、近づきたい、そんな気持ちも生まれてくる。
「そういえば今更だけど……ヒカリはどうして心理学を選んだの?」
だからだろう、深く考えず、そんな質問を投げかけてしまったのは。
「えっ……? ああ、それは……」
ヒカリはそうつぶやくように言ってから、言葉を探していた。
その顔は少し困っているように見えて、私は自分の失態に気付いた。
人の心という訳の分からないものを、それでも知ろうとする、そこにはデリケートな動機があっても不思議ではないじゃないか。
私とて、これから教育心理学とかを学ぶ必要があるけれど、何故それを学ぶのかと聞かれれば、あまり愉快ではない記憶に触れずにいられない。
そう思えばもう、私はヒカリの言葉を黙って待っていることなんてできず、言葉は自然と口から零れたのだった。
「別に、いじめから守ってくれた教師に憧れて、なんて綺麗なものじゃないんだよ? むしろ逆って言うか、見て見ぬ振りされて、今に見てろよこんにゃろう、ってね。私なら絶対おまえみたいにはならないぞ、って、今はそれを証明しようとしてるだけ」
「……すごいね」
「えっ? どこが? ……いつまでも根に持って、ダサくない?」
「そんなことないよ。私だったらウジウジと内側に向かっちゃうから……その、反骨心? 反発心? まあ原因が何でもさ、私から見たら、モモはすごく前向きに見える」
「そんな綺麗のものじゃないんだけどなぁ……」
私が教師を目指した動機は、そんな反骨心だけじゃ、ない。
あれはたぶん、私の、初恋。
小学校高学年になって、私は『好き』という言葉の持つ意味が一つではないと、感覚で理解した。
だって、担任のミキ先生に対する『好き』は、それまで自分が口にしていた『好き』とは、全然違ったから。
あの、キラキラした憧れがあればこそ、私は教師を目指しているのだと思う。
私が冗談めかして、将来結婚するならミキ先生が良いな、なんてことを本人に言ったときのことを覚えている。
女同士で結婚なんてできないんだぞ、なんて騒ぐ男子たちに、
「昔はそうだったけど、日本でも今は女の子同士でも男の子同士でも結婚できる所もあるんだよ」
だから、それは変なことじゃないよ――と、そう優しく諭す先生の言葉。あれが、今の私に大きな影響を与えているように思う。
その時は「みんなが大人になる頃には私はおばちゃんだから、あなたの気持ちも変わっちゃってるだろうけどね」なんて、遠回しにフラれたわけだけど。
まあ、そんな綺麗な動機だけならどんなに良かったか、なんて思ったりもするけど、こんなことをヒカリに全部伝えるには、やっぱり中学の時の体験というものもまた、私に大きな影響を与えていて。
“そんなに綺麗なものじゃない”のは、そんな、全てを伝えずにヒカリに好かれようとする、私の浅ましさなのかも知れない。
「……私は、簡単に言えば……自分探し、かな」
少しの沈黙の後、ヒカリが口にしたのは、そんな言葉だった。
「ふぅん……ちょっと意外かも」
「意外?」
「うん、でもまあ、他人から見た自分の評価って驚くようなこと言われることもあるし」
「モモから見た私って……どんな?」
「えっ……うーん、なんていうか、こう、どっしりとして動じなさそうな、ちゃんとした自分を持ってそうな印象が……うん、あったかな」
「どっしりって……デカいからってだけじゃ?」
「違うよー。そんなに長い付き合いじゃないけど、その中での印象」
「……そうなんだ……」
ヒカリはなんだか不満、とまでは行かないけど、どこか腑に落ちないのか、ちょっと難しい顔をしていた。でも、私から見たらその方が腑に落ちない。
だって、そうじゃない?
自分、なんてものは、例えば私なら、恋愛対象が女の子だ、とか、身長にコンプレックスがあって、とか、胸が――あまり深く考えると落ち込みかねないからこれ以上は挙げないけど、とにかく、たとえそれが核心を突いたものでなくとも、そんな“わかりやすさ”みたいなものを組み合わせて納得してしまえばいい、なんて思ってしまう。というか、深く考えても絶対的な正解なんて引けない“哲学”とでもいうものだという気もするし、軽く考えておいた方が楽なんじゃないか、とも思う。
でも、『自分』なんて曖昧なものをわざわざ探す、っていうのは、本人には見えていなくても、ステレオタイプというか“属性”とでもいうか、そういったものに当てはめられない、当てはめたくない、確かな『自分』がもうそこに存在するからではないか。そしてそれに無意識に気付いているからではないか。私にはそんな風に思えるわけだ。
ヒカリっていう女の子は、そういう、流されない、とでもいうか、そういった芯の強さのようなものを持っている、と、少なくとも私にはそう感じられた。
特にこれ、といったエピソードがあるわけじゃない。ただなんとなく、たぶん、いろいろな小さなことの積み重ねから、自分にはそうと感じられる“匂い”みたいなもの。そして、私が今まで好きになった人たちも、少しずつ違うけど、でも似ている“匂い”を纏っていたように思う。
そう、きっとヒカリもそういう人だから、私は惹かれるのだろう。背が高くてカッコイイ女性なら誰でも良いというわけではないのだ。
「ヒカリは? 私のこと、どんな感じだと思ってる?」
そう、好きだから、どうしても私は知りたくなってしまう。こんなことを聞きたくなってしまう。ヒカリなら酷いことは絶対に言わない、そんな信頼に甘えて。
「えっ……?」
突然の私の質問に、ヒカリは一瞬驚いたようだったけど。
「ああ……うん、さっきの話を聞いても思ったけど、私なんかよりしっかりしてるし……カッコいいと思うよ」
その言葉は、さっきとは違って、迷いを感じさせずに彼女の口から発せられた。だから、私にはそれが彼女の本音なんだと思われて。
「……なんだよー。カッコいいのは……ヒカリだろー」
照れた。自分でもなんか知らないけど、ヒカリにそんな風に褒められて、嬉しいんだけど、こそばゆいような。
「それよりさ! まだ先だけど、テスト大丈夫そう?」
私の言葉に、ヒカリも同じように感じてくれていたのだろうか? 突然に全く違う話題が飛び出した。
「……それなぁ。なんでうち前後期制なんだろ? 授業聞いてる分には大丈夫な気もするけど、範囲が広くて不安だー」
「……わかる……」
そして、そんな少し未来の、でも確実に迫り来る現実に直面して、二人して無駄に落ち込んでしまうのだった。