1.
「おはようございます」
その、たった一言に、私がどれだけの勇気を振り絞ったか、きっとあなたは想像もできないんだろうね。
春。それは、始まりの季節。そして――恋の季節。
大学の入学式というものは、どこかの広い会場を借り上げて大々的に行うものだ、なんていうのは先入観だったようで。これから毎日のように何度も通うことになる道筋を、これからまたしばらくは着ないであろうスーツを着込んで、向かうところ。
その最序盤、家からの最寄り駅。
「ねえ? どっか変じゃないかな?」
私の前でくるくる回りながらそう尋ねるこの子は松下さん。通称、マッシー。私しかそう呼んでないけど。
実は特別親しいというわけでもない。同じクラスで同じ大学を受けるのはこの子だけで、一緒に行動することが増えて、お互い無事に合格してからも惰性で一緒に行動している、そんな感じだ。
それでも、これから新しい環境に飛び込むに当たって、こうして知り合いが側にいてくれることは、案外頼もしい。
「大丈夫、決まってるよ。それより私、防虫剤くさくない?」
「んー? ……花粉のせいでよくわかんないけど、大丈夫じゃね?」
こんな風に、彼女はちょっといいかげんなところがあって、だけどそれが人間関係においては踏み込みすぎない“良い”加減な距離感を生んでいたりもして、だから私はこの子と友人として付き合えているのではないか、なんて思ったりもする。
――そんな、なんてことのない会話をしながら、電車を待っていた時のことだ。
なんとなく目をやった、改札の方へ続く階段口。そこに現れた一人の女性に、私の目は奪われた。……いや、奪われたのは心だったのかも。
すらりと背の高いその人は、私たちと同じ新入生だろうか、同じスーツ姿、でも私とは違うそのパンツスタイルがビシッ! と様になっていて、ノンケの女子に聞いても『かっこいい系女子』という表現には頷いてくれるだろう。
いわんや“そうではない”私をや、だ。
もちろん、好みは人それぞれだから、同意を求めるつもりはない。ただ――私の好みだった、っていうだけのこと。
思えば。
小学校高学年の時は、担任の先生。中学一年の時はバレーボール部の先輩。高校の時は一、二年と同じクラスだった同級生。
いずれも片想いだったけど、私が好きになった人は、みんな私より背が高かった。……いや、考えてもみてほしい。バレーボール選手なんかには、女子でも身長が百九十センチメートルを越えるような人もいるのだ。女性の平均身長を大雑把に百七十としても、百九十ある人が一人いれば、百六十の人は二人いることになる。背が低い人間の方が多いのも当然ではないか。……だから私が百五十前半だからといって、私の身長が低すぎるということは、決してない。決してだ。
……話が逸れたけど、つまるところ、背が高ければ惹かれるというわけでもないが、惹かれる人は背が高い女の人ばかり、そして、あの人はドンピシャ、どストライクだったわけだ。
「どしたん?」
マッシーに声を掛けられて、振り返る。……おかげで、あの人と目を合わさずに済んだ。たぶん、私はかなりガン見してたから、目が合えば相手に変な印象を与えかねなかった。ファーストインプレッションはきっと大事だ。
「ん……スーツとかの人ちらほらいるけど、みんな私らと同じ新入生かな、って」
「みんなじゃないだろうけど、何人かはそうだろうね」
そりゃそうだ、と思わせる、相変わらずいいかげんなマッシーの返事だったけど、おかげでドキドキしていた心が幾分は平常に引き戻されていた。
――そんなことがあった日から、おおよそ三週間ほどが経った頃。
朝、いつもの時間、駅のホームに降りると、その日は私より先に到着していた、その人の姿を見つけた。
今までも、何度も駅でその姿を見かけてはいた。だけどいつもマッシーが側にいたおかげで、私はそのことを意識しすぎずに済んでいた、ということを改めて強く実感した。そのマッシーは、先週末からワンダーフォーゲル部に参加し始めて、朝は早めに大学へ向かうようになったため、今日から私は一人だったのだ。
エスカレータの慣性を維持するかのようにゆっくり歩きながら、頭の中はわちゃわちゃしていた。
――どうしよう。
いや、どうもしないだろ。元々会話を交わしたこともないのだ。何度か目が合ったことはあるから、あの人も私を見覚えてくれてはいるだろうけれど、それでも赤の他人でしかないじゃないか。でも顔見知りなら、挨拶くらいしても良いんじゃないか。でもでもいきなり声を掛けるのもあれだから目が合ったら会釈くらいにしておくか? いや、でもそれじゃなんか距離感が遠くない? 今は妥当な距離感かも知れないけど私はそれで良いの? そのままで、良いの?
いくない。
いくなかった。ならどうすんべ?
やるっきゃないっしょ。
自分から声、掛けるしかないっしょ。
ヨシ!
答えは、簡単に出た。
……でも、出たからといって、それを行うことも簡単かといえば、そうはいかない。
見知っているからといって、いきなりなれなれしく声を掛けてくる女を、あの人はどう思うだろう?
そんな不安が、お近づきになりたい気持ちをしなしなと萎えさせる。
なら、もっと良いきっかけを待つのか? そんなきっかけはいつ来るのか?
あの人が私をナンパしてくれる未来を想像するのは、さすがに私に都合が良すぎる。そんなのは想像というより妄想だ。統計的に考えれば、彼女もまたノーマルの可能性の方が高いのだから。
だったら……やっぱり私から行くしかない。
ホームの中よりをゆっくり歩いて、あの人の背中はもう近い。
ああ、バンジージャンプに臨む人の心境というものは、こんな不安な感じだろうか?
いや、命綱という安全マージンがある分、私ならそっちの方がずっと気楽に足を踏み出せる。
私が今からしようとしている、とても簡単なはずのことは、それほど勇気の要ることでもあった。
良い未来だけを考えろ――そう自分に言い聞かせる。
恋人としての付き合いは望むべくもなくとも、友人としてでも好きな人の側にいられれば、それはささやかかも知れないけれど、幸せだった。
キャンパス内で、彼女の姿を遠くに見つけたとき、ふっと切ない気持ちになったじゃないか。そんなことをこれからも繰り返すのか。
専攻が違うのなら、こうして時間が合うのも、今だけかも知れないんだぞ。
さあ――さあ! 踏み出せ、私。
なんてことないように挨拶すれば良い。不安なんて押し込めて、余裕のあるフリをしろ。中学の時、転校先で張った精一杯の虚勢だって、本物にすることができたんだ。私なら、できる。
――自分を鼓舞して、踏み出した。
あなたを見上げて、声を掛けてみれば、驚くあなたが可笑しくて。
それだけで私は、なにか……報われたような気がして。
だから、それからの私は割と自然な自分でいられた。
そんな自然な自分を、あなたは受け止めてくれて、思わず“その先”を期待してしまうくらいに、嬉しかった。