3.
「きっと、そんな風に悩んじゃうのも含めて、ヒカリっていう一人の女の子なんだね」
そのモモの言葉は、私の脳が理解するより前に、すっと私の内に入り込んで。不意に泣きそうになって、それが私にとっては“救い”なのだと、解った。
肌を守ってくれるはずの日焼け止めが、全く頼りなく思えるほどに、降り注ぐ日差しは肌に突き刺さるようだった。校舎の中から出口に近づいただけで、ムワッとした熱気を感じられたけど、日向に出るとまた格段に暑い。
まだこの先に夏の盛りが待ち受けているか思うと、うんざりする。唯一救いがあるとしたら、ようやくテストが終わったことだろうか。大学で初めてのテストということで不安もあったけど、とりあえずの手応えとしては落とした単位もなさそうだ。
同じ講義を受けていた顔見知り程度の、よく連んでいるのを見かける女の子三人組から不意にかけられた別れの挨拶に、お疲れ様でした、と咄嗟に返事を返して、日陰を選んで歩き出す。
テストが終わったばかりとはいえ、同級生に「お疲れ様でした」は変だっただろうか? なんてことをぼんやり考えながら歩いていたら、後ろから「お疲れ様!」と声をかけられた。
突然のことに少しビクッとしてしまったけれど、その声を聞き間違えたりはしない。
振り返れば、案の定そこには、一日早く休みに入ったはずのモモの姿があった。
こんな風に、会える時間が増えるなら――その考え一つで、さっきまでのうんざりした気持ちはどこかへ消えていた。
そんな浮かれた気持ちだったからだろう。
「せっかく長い夏休みだし、集中講義とか受けないんなら、一緒にどこか泊まりがけで旅行にでも行かない?」
そんなモモの、魅力的で、魅惑的で、誘惑的な提案に、私が一も二もなく賛成してしまったのは。
だけど、一人になって、冷静になって、私の内側に沸き上がってきたのは、楽しみな思いよりも、「フェアじゃない」という思いだった。
何が? 当然それは、私がモモのことを好き、ということだ。
モモは友人として気安く、そこに何の不安もなく、その提案をしてくれたのだろう。だのに、私は彼女に対して友情以上の好意を持っている。
だけど、私のその彼女への想いを、私のその性向を知れば、モモはどう思うだろう?
知られれば――そこに不安は、当然ある。でもそれは元よりのこと。それよりも、私が彼女に邪(私にとっては純粋な、純情だとしてもだ)な思いを隠したままということが……何というか、許せない。許したくない。
そう思わせるのはきっと、彼女への好意ではなく――そう、敬意からだ。
モモがその程度のことで私から離れていくような人間だとは思わない。思わないからこそ、なのだろう。そんな彼女に恥ずかしくない自分でいたい――そういうことだと、思う。
だって、こんな私を隠したまま彼女の側にいれば、惨めな気持ちを積み重ねるだけだ。そうして肥大化した惨めさは、歓びなんてあっという間に飲み込んで、私はきっと圧し潰される。
だから。逃げ出したくなるような不安や恐怖を抱えていても、結果この片想いに終止符を打つことになろうとも。それでもなお、モモに、できる限りに私のことを、そして、この彼女への想いを、ちゃんと伝えよう。私は、そう決意した。
時間が経てば、決心も揺らぐ。少なくとも私は、そんなことはない、と言えるほど、私自身を信じていない。だから、翌日には直接会う約束をした。幸い、お互いに他の予定はなかった。
いつもの駅の入り口。約束より一時間近くそこへ到着して、彼女を待つ。それは自分なりの誠意のつもりだったけど、本当のところは判らない。いろいろ考えて寝付けなくて、朝だって家にいれば余計なことまで考えてしまいそうで、飛び出してきたに過ぎないのかも知れない。
でもやっぱり、ただ待つばかりの時間は、余計なことを考えてしまうわけで。ここに至ってもなお、どうしたって私の脳裡には、ネガティヴな考えばかり浮かび上がる。
もし、モモが、私をどうしても受け容れられない、となったら――そんなことは、考えるだけで、体中が萎縮して、心が切り裂かれるように感じられる。
でも、その痛みは、それが痛いほどに、そんなにも私はモモを好きなんだ、と再確認させた。
今まで生きてきた中で、ここまで強く誰かを想ったことが、あっただろうか?
きっと、無い。
だからそう、喪失を想像しただけで泣きたくなるようなこの出逢いは、たとえ苦しくたって、絶対に幸せなことなんだと、信じられる。
――だから、向こうからやってきたモモを、私は笑顔で迎えることができていたと、思う。
炎天下、世間的には夏休みにはまだ早い、平日の午前。
大通りから逸れてしばらく行けば、そこに人影なんて見えなくて、世界を二人占めしているような錯覚がよぎる。
――でも、この世界に最後に取り残された二人きり、という方がロマチックかも知れない――そんなことをぼんやりと考えて、本題から逃げだそうとする自分の弱さに気付く。
モモはただ静かに私の隣を歩いている。
「ヒカリのタイミングで、焦らなくても良いよ」
話たいことがある、そんな文面で呼び出しても、彼女はそんな一言だけ私にかけて、せっついたりはしない。
そんな彼女の優しさに、私は心に喜びを感じて、やっぱり好きだ、と思い知る。
だから、なあなあで良いはずがないんだ。
伝えるべきことは、単純で、そこに言い訳なんか必要なく、ただ事実を口にすればいい。
「……私は――」
私は――何だ?
口にしようとして、強烈な違和感に襲われた。
いろいろ考えていたはずのことが全部、すっぽりと抜け落ちて、続く言葉が出てこない。
「……ヒカリ?」
立ち止まった私を、モモが振り返り見上げる。
その姿に、少しだけ落ち着いて、でも何かしゃべらなければ、そんな焦りが新たに沸き上がって、考えもなく口を開いた。
「……私は、小さい頃から、女の子が好きで。だけどそれが恋愛感情なのかは判らなくて。だけどやっぱり男の子を好きになる感覚っていうのは解らないから。私はきっとレズビアンなんだって、そうじゃなけばトランスジェンダかもって、考えるんだけど、なんか違うような気がして。最近はクエスチョニングとかクィアとかっていうのもあって、でもそれはそれでしっくりこなくて……」
零れてくるというか、溢れてくるというか、ただそのままの、たどたどしい私の言葉を、モモはただ黙って聞いてくれている。
私自身、こうして言葉にすると、ずっと悩んでたことのはずなのに、変に新鮮な感じがして、何故かちょっとだけ気が楽になった。
「私は……モモと旅行に行けるなら、すごく楽しみ。でも、こういう私を隠したままっていうのはどうしても卑怯な気がして……。私でも私自身のこと、はっきり解ってないのに、それでも、いわなくちゃって、気持ちばかり先行して……。だから、何が言いたいかっていうと……」
言いながら、次の言葉を探して、それでもなかなか見つけられない私に、モモは優しい微笑みを浮かべたまま、静かに言った。
「もう大丈夫だよ。ヒカリのその……誠実さは、十分に伝わったし、そんな風に真剣に考えてくれて、私は嬉しいよ――」
そして彼女は続けて、その、救いの言葉を、私に掛けてくれたのだった。
“それが、私という人間なんだ”
女の子を好きだと感じたり、言動が男っぽいと思われたり、そういう私を、レズビアンだとか、トランスジェンダとかいう言葉でなく、ただそう言ってくれた彼女の言葉。“私がどういう人間か”ではないのだ。
それは等身大の“私”を、ただそのままに認めてくれた言葉だった。
そして、彼女が“私”を認めてくれたことで、私は初めて“あるがままの自分”を認めようとも受け容れようともしていなかったのだと気付いた。
私自身、世の中のカテゴライズにとらわれて、そのどれかに自分を当てはめようとして。それは、決して型の合わないジグソーパズルを無理矢理はめ込もうとしてるようで。
それが、私が“社会”、もっと大げさに言えば“世界”に対して、なんとなく感じていた、息苦しさや重苦しさのようなものなのだろう。
ただその人の個性を認めるということ。それは(私の感覚では)パーソナリティやインディヴィデュアリティの尊重、というのともちょっと違くて、ユニーク、という言葉の持つ“特別なただ一つ”というニュアンスを、ただ当たり前に、大げさでなく、等身大のまま受け止めること。
彼女のそんなスタンスが、私を(改めて言うと大げさな物言いにも聞こえるけれど)“救って”くれたのだと思う。
同時に、例えば『性同一性障害』という言葉の『障害』を、障害たらしめているのは、自分自身ではないのか、なんてことも思う。いくつかの条件が当てはまっているからといって、違和感を感じながらもそれを悩み続ける。それは自分が作り出していた苦しみでしかないのではないか、と。
もちろん、それは私自身についてだけ言えることだ。世の中には私なんかよりずっと苦しんでいる人もきっといて、そういった人にこんな説教をしたところで、きっと救いにはなりはしない。もしかしたら、おまえの悩みなどそんなものだ、と怒られるかも知れない。
その通りだ。私は私なりに悩んで苦しんで、それは私だけの悩みや苦しみだ。
そして、私は私なりに救われて、それは私だけの、ユニークな“救い”で、でも、私だけじゃ得られなかった救いだ。
それだけのことなのだ。
結局、自分のことを救うのは自分なのだろう。
だけど。
考えたことはある。自分を苦しめているのが自分自身なら、自分を救えるのも自分の考え一つなのではないか、とは。
それでも、その考えが自分を救いはしなかった。
自分だけではダメなのだ。
そして、彼女以外の誰でもダメだったのだろう。
だから、私は……そう、幸運だった。
彼女に出逢えたこと、それが、とても。
「そういえば、私がいじめられるようになった原因って言うか、きっかけって、言ってなかったよね」
私が、彼女が与えてくれた幸福感をかみしめていると、不意に、モモはそんなことを言って、私に背中を向けて、ステップを踏むように軽やかに走り出す。
――まだ私は、大切なことを言えてない。
慌てて追いかけようとして、でもモモはピタリ、とその足を止めて。
振り返ったその顔には、いつか私の心を鷲づかみにした、いたずらっぽい笑顔を浮かべていて。
そして言ったのだ。
その、私を、とても期待させて、心をかき乱す、魔性の言葉を。
「あの子たちに言わせるとね? ……女の子を好きになる私ってヘン! なんだってさ」