1.
「おはようございます」
そんな、ありふれた言葉。だけどそれは、彼女が初めて私に向けてくれた、宝物のような言葉だった。
春には春の空気というものがある。
それは、肌に触れる風の感触だったり、香りであったり、くっきりとした輪郭のあるものではないのだけれど、漠然とそうと感じられるもの。
エスカレータでホームに降り立って、私がまず感じたのは、その“空気”だった。
そこに、なんとはなしに寂しさのような感情がよぎる。その理由を探すなら、きっとこの“空気”も、そろそろ去りゆく予感があるからだろう。
地元(長く暮らしていた土地、という意味での)の方でも、もう桜の花も姿を消しつつあるかも知れない。
四月も下旬にさしかかる。遠ざかろうとする春の気配が私から新鮮さも連れ去ってしまうのか、まだ一月も経っていないのに、この、大学へ向かう景色も日常になりつつあった。
その景色の中に、私の目にひときわ留まる存在がある。
背丈は私より頭一つ分は小柄で、髪はダークブラウンのラフなボブ。服装も白やパステルカラーが主体のスカートスタイルで、そのスカートも足の露出は少なめだ。
そう、だから、一般的には特別に目立つ容姿というわけではないだろう。
それなのに私が注目してしまうのは――そう、自分を取り繕おうとしても意味がないのだから、認めれば良い――彼女が、私にとって『好みのタイプ』だからなのだろう。
覚えている限りでは、小学三年生の時。
その時は、ただ『仲の良い友達』としか思っていなかった、その子。
何でもないときに、ふと「今、何をしてるだろう?」なんて思いが浮かんだり、目が自然とクラスの中にその姿を求めていたり。
今思えばそれは、ただの好意、ただの友情というものではなかったのではないか。
だとしたらそれは、初恋だったのだろう。
もしかしたら、私が同性の友人へ向ける想いがただの友情と違うことは、周りの子たちも理屈でなく感じていたのだろうか。
だからこそ、小学六年生の時。男子の誰がカッコイイ、というような話になったとき、そういう経験のなかった私が、クラスの男子より、ある女子の方が全然好き、なんて言ったとき、主に周りの男子に「やっぱり男女だ」とか、「おまえレズビアンかよ」なんて揶揄されたのかも知れない(そしてそれは、ただの考えすぎかも知れない)。
友人たちはそう言った男子に対して、馬鹿なことを言うな、と怒ってくれたし、その男子だって、たいした意味もなく口にしただけかも知れない。私はその時すでに身長が百六十を超えていたから、男子としてはやっかみがあったのかも知れないし、ものすごく好意的に解釈すれば、私に気がある男子の湾曲的なちょっかいだったのかも知れない。
でも、その時私は、別に腹が立つでもなく、ただ「そういうこともあるんだ」ということを、初めて明確に認識したように思う。
その時はまだ私も周りも、知識の足りない子供だったから、それだけの話で終わったのだけれど――つまりは、私にとっての、大げさに言えば“苦悩”というものは、それよりもっと後に始まった、ということだ。
ともあれ。
私がこの駅で毎日同じ時間、同じ場所に立つのは、そこに彼女の姿を見つけることが多いから。大学の最寄り駅でエスカレータ近くのドアであるという事実は私にとってさほど重要ではない。……いや、彼女が同じ場所にいる理由がそこにあるのなら、私にとっても非常に重要な理由に変わるけど。
最初に彼女を見かけたのは、入学式の日。着こなれていない印象のスーツ姿が、だけど彼女のかわいらしさを強調してもいて。
その時に感じたときめきは、子猫や子犬を目にしたときに通じるものだった気もするけれど、でも俗に言う『一目惚れ』だったのではないか――ということを、二度目に同じ場所で彼女を目にして、私が思っていた以上に嬉しく感じていることに気付いて、自覚した。
その体験が刷り込みでもあったかのように、それから私は朝からの行動をルーティンとして確立していたと言っていい。彼女の姿は毎回確認できるわけではないし、私が彼女の後ろに並ぶこともあれば、私の後ろに彼女が並ぶこともある。ただ、そんな違いは些細なことで、彼女の姿に出会える確率が高い、というだけで、私は大学生活を、一度の寝坊をすることもなく過ごせていた。
入学式の日のことから多分そうだろうとは思っていたけれど、ほどなく、同じ大学に通っていることも確認できた(目的地が同じなのだから仕方ない。こそこそ尾行したわけじゃないのだ)。キャンパス内で顔を合わせたことがないのは、学部、あるいは学科が違うからだろう。
でも、それで良いと思っていた。その、直接関わる機会のない距離感が。朝に彼女を見かけて、小さな満足感を、私だけが得られる、それだけの関係が。
だけど、彼女から、私にアプローチしてきたのだ。
その、なんてことのない挨拶。親しい相手、とまでは言わずとも、知り合いにするように、ごく自然に。他の誰にも向けてほしくないような、優しく穏やかな笑顔で。
「オハッ……おはようございます」
完全な不意打ちに、めちゃくちゃ動揺している自分を自覚する。少しどもってしまったことも恥ずかしい。だけど、そういった内面を表に出さないように、何でもないように、クールな私を装う。……その試みは、成功していただろうか?
「いつも会いますね。大学、同じなんですよね?」
挨拶だけじゃない。彼女はそうやって、自然に会話を続ける。
私はただ、はい、とか、ええ、とか、返事とも相づちとも言えるような言葉しか返せず、そんな自分をもどかしく思う。
――どうして彼女は、今日に限って私に話しかけてくれるのだろう?
ふとその思いがよぎり、そして、いつも彼女は同じ友人と一緒に並んでいたことを思い出す。そのことにすぐに思い当たらない辺り、どれだけ私はこの子のことしか見えてないんだよ、と苦笑したいような気持ちになる。
「そういえば、いつも一緒の子がいますよね? 今日はどうしたんですか?」
心の中で苦笑いしたことで、少し緊張がほぐれたのか、意外とすんなりそんな質問を口にすることができた。
「あの子はサークルに入ったんです。私も誘われたんですけど、向いてなさそうかな、って」
――だから、フラれちゃったんです。
続けてそう言いながら彼女が見せた、その、少しいたずらっぽい笑顔に、喉元がグッと詰まるほど、心臓が跳ねた。
それからすぐ到着した電車に一緒に乗って、大学までも一緒に歩いた――はずなんだけど、ゆだった脳みそにはそれを詳細に記憶するだけの能力が欠如していたようで。
家に帰って、スマホの中に彼女とチャットアプリで繋がっている事実を確認してもまだ、その日は現実という実感を得ることはなかった。