表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

あまいものがきらい

日が照りつける正午、とても暑かった。なにか飲みたいと思って居間に置きっぱなしにしていたコップを手に取り、台所へ向かう。銀色をキラキラと光らせる蛇口。あまり水垢は気にならなかった。レバーを引き水を出す。コップに汲み取った水は最初は白く濁っていたが暫くすると透明になる。これをぐびっと一気飲みする。美味い。喉が潤っていく。折角だからもう一杯飲もうとコップを蛇口の下に待機させる。流れてくる水はもう透明だった。


ちゃぽんっ


違和感のある音を発しながら、蛇口から何かが落ちた。そしてコップの中へと入った。


…?さかな?


ふと目に入ったのは尾びれだった。だから咄嗟に魚だと思った。しかしそれは魚ではない。くるりとその何かが尾びれを翻したとき、息を呑んだ。


にんぎょ?



信じられない。けい子は頭を悩ませていた。昼間あったことが現実とは思えなかったからだ。結局人魚は捨てるわけにもいかなかったので、家にあった少し大きめのバケツに水を貯めた中に放した。人魚は海にいると思っていたから、淡水である水道水で大丈夫なのかと心配になったが、問題ないようだ。元気にバケツの中をひらひらと優雅に泳いでいる。


そういえば、人魚って何食べるんだろう。


そんな疑問がふと頭を過ぎった。未知の生物とはいえ生きているのだ。何も食べなかったら死んでしまうだろう。しかし、与えるべきものがわからなかった。


貴方って何食べるの?


問に答えは返ってこない。当たり前だ。御伽噺の中の人魚は喋ったり歌ったりするが、私の目の前の人魚は話すはずがない。御伽噺ではないのだから。


どうしようかと悩んでいると、昨日買ったマグロの刺身を思い出した。魚なら食べるかもしれないと冷蔵庫からマグロの刺身を引っ張りだした。それを持ち、バケツの傍に座った。人魚は相変わらずひらひらゆらゆら泳いでいる。私に気づいているのかわざと無視しているのかはわからない。一切れ刺し身を箸でつまみ、人魚の近くに持っていく。人魚は泳ぎを止めた。不思議そうに頭をあげると首を傾げた。


ほらこれ食べれる?


人魚は頬を膨らませぷいっと首を捻った。どうやら気に入らなかったらしい。どうしよう。その他にも色々なものを見せてみた。野菜から果物、パン。どれに対してもあまりいい反応はしなかった。


もう何もないよ。


お手上げ状態だった。家にあるほとんどのものを見せたが、どれも気に食わないらしい。


あとはこれくらいしか。でも絶対食べない。


もう残るものはこれしかないと冷蔵庫にしまい込んであった白い箱を取り出す。それはけい子がバイトしているケーキ屋さんの余ったケーキであった。昨日貰ったものであるし期限もそう気にすることでは無いだろうとケーキをフォークで少量取り、人魚に近づける。頬を膨らませていた人魚が徐々に表情を緩ませていく。ああこれは食べれるのかと人魚の口元へケーキを運んであげた。人魚はぱくぱくと急いで食べている。お腹がすいていたのだろう。フォークに乗った分を食べ終わると人魚はすいすい泳いだり深く潜ってみたり飛び跳ねてみたりと色々な泳ぎを見せてきた。元気でよかった。そう思いながらけい子は余ったケーキを見る。


これどうしようかな。


ちゃぽんっ


またあのときと同じような音がした。人魚と出会ったときの。振り返るとまだお腹がすいているんだと言わんばかりに頬を膨らませてこちらを見ていた。なあんだ。まだ食べられるのか。けい子は再びフォークで少量ケーキを取る。そして人魚の口元へ運ぶ。これを何回か繰り返した。最後の一口まで、人魚は食べきった。これはよかったと安心したけい子はため息をついた。


私はケーキを食べないから助かるな。


けい子はそんなことを呟きながら人魚のことを眺めていた。



けい子はケーキがきらいである。ケーキに限らず甘いものがきらいである。それは甘いものを最後まで残さず食べることが苦手であることや、余計なカロリーを摂取したくないことが理由であった。けい子は容姿端麗ではないし、かといって醜い姿をしているわけでもない。凡庸であった。だからこそ、異端になりたくなかった。それに、あまり甘味を好いてもいなかったため、食べる必要がなかった。だが、何故けい子がケーキ屋でバイトをしているのか。これはけい子は甘いものの香りが大好きだったからだ。食べるまではいかなくとも、香りを楽しむことはこの上ない至高であった。しかし、それと同時に廃棄寸前のケーキを持ち帰るのは天国から地獄へ落とされる感覚と変わらなかった。



月日は流れ、人魚と出会ってから2ヶ月が経とうとしていた。木々は緑から茶色へと変わるところであった。人魚には毎日ケーキを与えている。勿論、バイトのない日もあるのでそういう日はスーパーで安くなった菓子パンをテキトーに買い、食べさせた。最初は嫌な顔をしていたが、一度食べると甘味だと気づいたのかむしゃむしゃ食べるようになっていた。しかし、今日は人魚の様子が少しおかしい。いつもは優雅に泳いでいるのだが、今日は退屈そうにしている。ずっと仰向けでぷかぷか浮いているのだ。


お腹空いたの?


ケーキを見せても反応が薄かった。何かあったのだろうか?もしかして病気だろうか?もし病気なら病院に…。でも人魚って病院ないよね。そんなことをぐるぐる考えていた。


ちゃぽんっ


またあの音がした。2ヶ月間、同じ様な音は何度も聞いていた。あまり不審に思うことも無くバケツの中を覗く。その瞬間人魚は大きく口を開けた。どういう意味だろうか?何か食べたいのかな?でもケーキには無反応だったし…。人魚の突拍子もない行動に混乱していた。まだ口を開いている。


真似しろってことかな?


人魚を真似て口を大きく開いてみる。それを見た人魚はいきなり泳ぎだし、大きく跳ね上がり、けい子の口の中へと吸い込まれるようにして入っていった。


…え?


口の中に入った。人魚が?何のために?けい子は混乱していたが吐き出さなければと急いで嗚咽交じりに喉や腹に力を入れても人魚が出てくることは無かった。


ちゃぽんっ


今の音どこから?


ちゃぽんっ


けい子の体内で人魚は跳ねているようだった。執拗に発せられるその音は気味が悪く、けい子は頭がおかしくなりそうだった。


やめて。やめて。跳ねないで。


ちゃぽんっ

ちゃぽんっ


やめて。やめてよ。


消えそうな声で叫んでいた。何度も何度も体内で鼓動を続けた。しかし、テーブルに置かれた白い箱を見た瞬間その音は止まった。それはケーキだ。人魚が食べるはずだったケーキ。けい子は箱を開けた。甘い香りが鼻を擽る。ショートケーキだ。白いホイップクリームと真っ赤な苺がとても美しかった。


食べてみようかな。


初めて湧いた感情だった。何故だろう。とてつもなく食べてみたくなったのだ。


美味しそう。


けい子は恐る恐るフォークでケーキを取り、一口食べた。今まで嗅覚で楽しんでいた香りを口の中でも堪能した。ふわふわのスポンジに甘ったるいホイップクリーム。不思議とくどいとは感じなかった。何個でも食べられるのでは?と錯覚するほどに美味しかった。


ちゃぽんっちゃぽんっちゃぽんっ


人魚は喜んでいるようだった。



けい子ちゃんはどれだけ食べても太らないのね。羨ましいわ。


ふふっと笑いながら洋子はスプーンに乗せたゼリーを口へと運ぶ。


ほんとに私は幸運だったの。


細い指でティーカップを持つ。人魚が体内に入った日から味覚と甘味に対する愛情が変わり、毎日甘いものを食べていた。しかし、あの日から体型は変わらずのままであった。特別運動をしているわけでもない。ただ人魚が体内で泳いでいるのだ。


私は好きなものを好きなだけ食べられるんだ。


ちゃぽんっ


心の声に反応するように人魚が跳ねる。今はどの辺を泳いでいるのだろう?胃?脳内?心臓?


ちゃぽんっ


ま、好きなように泳いでねと体を撫でる。気持ちを切り替えケーキと対面する。今日はフルーツタルトだ。艶やかなゼリーに包まれたフルーツが煌めく。一口食べれば幸せになれる。


甘いものって本当に美味しいね。


けい子は笑顔で洋子に問いかける。洋子はにこやかに頷いた。


ちゃぽんっ

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ