薔薇の名前
ロージー達一行の逃亡劇から、およそ2ヶ月後。
ここ『エンドノート』は、スペルバウンド王国の東の果てにある辺境の町。
町外れの川の向こうは、もうマルト王国だ。
そんな田舎町のメインストリートに、半月前。
午後はティールーム、夕方からは居酒屋になる、おしゃれな店がオープンした。
外壁は、趣のあるレンガ作り。
店内はカウンターに4席、4人掛けのテーブル席が5個。
床や壁は、シックな茶系で統一されている。
店の名前は……
「奥様ここですわ、『薔薇の名前』! もう来られました?」
「もちろんよ! お茶にサンドイッチにケーキ、どれも美味しくて。
中でも、あの……」
「『スコーン』、ですわね!?」
「そう! 絶品ですわっ!」
『薔薇の名前』、その店の奥手にあるキッチンの窓から、そよそよと春風と一緒に入って来た、奥様方の噂話。
ティータイム用の茶器を用意していたロージーは、思わずにんまり口角を上げた。
「メイジー、聞いた!? 『スコーンが絶品』ですって!」
弾んだ声をかけられた料理人は、熱いオーブンを覗き込みながら
「当たり前ですよ! 何たって、うちのスコーンは『狼の口』が――あっ、お嬢様! お願いしますっ!」
「もうっ、まだ『お嬢様』と敬語が、直らないんだから……」
小声でぼやきながら、真っ白なエプロンをひるがえして、オーブンの前にしゃがむロージー。
天板に並んだスコーンに向かって、パチンと指を鳴らして、そっと呪文を唱えた。
「バーニング・ウルフ……!」
ぱかん、ぱかん、ぱかんっ……!
キレイに焼き色の付いた、40個余りのスコーン。
その側面に次々と、ぱっかり――まさに『狼の口』のような、割れ目が開く。
これが、元ローズマリー・フローレス男爵令嬢、ロージーの魔法。
『バーニング・ウルフ(狼よ、吠えろ)』
残念ながらこの国では、狼は絶滅種。
百年以上も昔に姿を消した、幻の動物だ。
『お隣のマルト王国では、時々山奥で見かけるらしいけど』
仮に本物の狼がいたとしても、ロージーに出来るのは、ただ吠えさせる事だけ。
何の役にも立ちはしない。
「ただスコーンを焼く時にしか、役に立たない魔法なんて。
そりゃ『婚約破棄』も、されるわよね?」
思わず自嘲気味にぼやいたら、
「何言ってんの……!
うちの店が話題になったのも、奥様方が予約してまで押しかけて来てるのも。
ロージー! 全部――あんたのその、素晴らしい魔法のおかげじゃないかっ!
『狼の口がキレイに開いたスコーンは、美味しいスコーンの証』って、生まれたばかりの子供でも知ってるよ!」
顔を真っ赤にした料理人が、一気にまくし立てた。
「メイジー……今、『ロージー』って?」
「あっ、つい敬語も忘れて! すみません、お嬢さ……」
あわあわと謝りかけたメイジーに、ロージーが飛びつくように抱きついた。
「やっと『ロージー』って呼んでくれた――ありがと、『メイジー姉さん』!」
「ろっ、ロージー……!」
焼き菓子の甘い香りが漂うキッチンで、生まれたばかりの『姉妹』がぎゅっと、幸せそうに抱き合った。
「あらあら、二人共――お邪魔して悪いけど、もうすぐ開店の時間よ!」
笑いながら声をかけたのは、落ち着いたベージュ系のドレスを身に着けた、ティールームの店主。
元家政婦のルイーズ。
「いけない――急ごう、ロージー!」
「はいっ、メイジー姉さん!」
5個の丸テーブルそれぞれに、真っ白なテーブルクロスを掛け、中央には薔薇を活けた小さな花瓶。
食器やカトラリーを整えて。
白い襟とカフスの付いた黒いドレスの上に、今まで付けていたシンプルなエプロンを、フリルやレースで飾られた真っ白な物に取り替えて。
ボーン、ボーン……2回鳴った時計の音と共に、ロージーは扉を開く。
「お待たせ致しました。『薔薇の名前』に、ようこそいらっしゃいました……!」
店の前で待ち構えていたレディ達を、元男爵令嬢は笑顔で出迎えた。
同じ日の夕刻、
「おいっ――今日帰りに、あそこで一杯どうだ?」
「『薔薇の名前』だろ? いいぜ!」
「あそこ料理も美味いんだよなー! 料理人も威勢のいい、中々の美人でさ!」
「たまに顔見せる給仕も、ちょっと年上だけど、上品ないい女だぞ!」
「うちの奥さんの話だと、ティータイムの時だけ、めちゃ可愛い子が手伝ってるって!」
訓練を終えた後、新しく出来たパブの噂話に花を咲かせる、国境警備隊の面々。
「店主がまた、渋い男前で――すごい魔法使うって?」
「店で騒いだヤツが、ぽいっと追い出されて。ぐるぐる迷ったあげく、家に着いたつもりが川にドボン!」
「『幻影』か!? すげぇ……!」
「『スタンリー』だっけ? 家の娘も『アシュトン様とエルム様の次に、ステキ!』って、騒いでたぞ!」
わいわい話しながら、着替えに向かう一同。
「おいっ……!」
良く響く低い声に、何気なく振り返って。
「た、隊長っ!?」
「お疲れ様です!」
慌てた軍人達が、ぴしりと敬礼をした相手は、
ふわりと額に流れる、少し癖のある黒髪。
きりっとした眉毛の下、光の加減で黄金色に輝く、鋭い金褐色の瞳。
すっきりと整った顔に、鍛えられた185cmの、すらっとした長身。
黒い軍服が良く似合う、スペルバウンド王国の国境警備隊隊長。
「その話、詳しく聞かせろ」
先ほどの噂話にも名前が出ていた、この町の女子たちの憧れ。
アシュトン・リード大尉が、にやりと笑った。