愛読者
私はアマチュアの詩人だ。これまでもそうだったし、これからもずっとそうだろう。
私は高校生の頃から詩を書いてきた。文芸誌に投稿した事も何度かあるが、採用された事はなかった。短い小説を書いて送った事もあるが、音沙汰はなかった。
プロになる為の試みを何度かしてみた後、私はすっかり諦めた。そうしてアマチュア詩人として生きていく事に決めた。
私は、書く事そのものには決して絶望していなかった。それは、私に才能がなかったからかもしれない。詩に絶望したアルチュール・ランボーはあまりにも才能に溢れており、彼の才覚が彼の詩才を越えていった時、彼は昂然と詩を投げ捨てた。才能あるものは、才能ない者がすがりつくものを未練なく捨て去る権利があるのである。
私は詩にすがりついていた。それは生活の中では決して満たされぬ、どのような社交や労働を通じても解放されない感情を解き放つ為だった。私は詩作を自らの習慣としていた。
軽率な事に、私は自分の詩をインターネット上に投稿していた。はじめは、ただ誰か興味深く思ってくれればいいという気持ちだった。
私の詩は人気がなかった。ごく少数の人間が褒めてくれただけだった。ただ、熱心なファンが一人、二人、あるいは三人ほどできた。そうした人達は温かい褒め言葉と、絶望する事なく書き続けていって欲しいと励ましてくれた。
「彼」はその一人だった。私がこれから語ろうとするのは「彼」の話である。
彼の名前は石津圭介と言った。ペンネームは「探求者」だった。今となっては、ペンネームにどんな意味が込められていたのかはわからない。
彼は私のある詩に、熱心な感想を送ってくれた。その詩は、子供の頃見た夕日と、大人になって見た夕日とを対比的に述べた詩だったが、彼は、その詩は何よりも自分の心の風景にぴったりきた、と褒めてくれた。彼は、私を優れた詩人とみなしていた。彼は、私の詩の中に、自分の中にあって解放されない言語を解き放つ何ものかを認めていた。要するに彼は、私の詩を、自分の心の代弁者とみなしていたのである。
最初に送られた感想の時点から、どこか平衡を欠いたような感覚が溢れていたのもまた確かだった。彼の感想は熱心なものだったが、しばしば、その文章は自分語りに流れ、また、それが客観視を欠いた、ほとんど意味不明の呟きになってしまっていた。ただ私は最初の時点ではそれほど気にしなかった。
私達は感想欄を通じて何度かやり取りをした。やり取りをしている内、彼の言葉の中で何度か「入院」「病院」「退院」といったキーワードが出てきた。私は、彼がどこかを悪くして入退院を繰り返しているのだろうと思った。もっとも、彼は自身の体調についてあからさまに語る事はなかった。「昨日退院して、やっと読みたい本を買えました」といった風に書いていただけだ。
やり取りする内に、一度会ってみようかという話になった。私達はアドレスを交換して、都内で会う事にした。私は、彼と会う事に別段大きな期待は抱いていなかった。インターネット上で人と会って、一度痛い目にあった事があったからだ。彼との関係も、一定の距離を保ったままにしようと、会う前から考えていた。
その日は雨だった。私は約束の時間に二十分ほど早く着いていた。私は駅前の柱に背をもたせかけて、行き交う人々を眺めていた。
人々は傘を手に持ち、忙しそうにどこかへ向かっていた。私は流れに取り残されて、人々を見ていた。石津は、黄色い服を着てくるからすぐにわかる、との事だった。まだ来ていないだろうと思って私は、ポケットから文庫本を取り出して読み始めた。
文庫本を読んでいる内に、ちらと視界に黄色が映った気がした。本を降ろして、そちらを見た。彼は円柱の前に立っていた。
石津の初対面の印象を私はどう言えばいいだろうか。一言で言えば「奇異」な印象だった。真っ黄色の上着を着て、下はよれよれのジーンズを着ている。髪は半端に茶に染められており、姿勢は崩れている。彼は周囲をキョロキョロと見渡していた。私を探しているようだった。彼は、人混みの中でも一際浮いた存在に見えた。
私は彼に近づいた。心の中では(本当にあれであっているよな?)と自問自答していた。横から近づいたので、彼から私の姿は見えなかったらしい。私は彼の肩を軽く叩いた。
「あ…沢田満ですが。石津さんであってますか?」
私は名前を告げた。石津はくるりと振り返った。彼は私を食い入るように見つめた。
「ああ、あなたが…その…」
彼はそう言うと、手を差し出してきた。どういうわけか、彼は卑屈と言っていいほどに、背をかがめて手を出した。私も合わせて、背をかがめた。私達は握手をした。彼の握手は妙に強かった。
「どうも。沢田満です。あなたが石津さんですよね?」
「そうです、そうです。ああ…こんな人でしたか。意外だなあ。本当に意外だ。意外だなあ」
石津は繰り返した。
「こんな人でしたか」
石津は笑っていた。
「意外ですねえ。あなたがこんな人とは…。私はてっきり和服を着てくるものだと思いましたよ。高下駄か何かを履いて来ると思った。私は、あなたが刀を差している所まで想像したんですよ。…いやいや、そんなはずはない、って後で思い返してね。…いや、でも、可能性はなくはない。この現代で刀を差している…ありえない事じゃない。まあ、何があり得るかありえないかはよくわかりませんが、私はあなたをそんな風に想像していました。それがこんな…失礼ながら、ごく普通の、今どきの若者だなんて! 今どきの!」
「…そんなに若くないですよ」
私は微笑した。
「もう三十一です」
「若いですよ。十分、お若いです! 私はあなたは五十代だと見積もってきました。強面でね、まわりをギロギロと見渡す侍のような人間を想像していた! …それが、こんなごく普通の青年だったとは。不思議ですねえ。そんな事があるんですねえ」
石津は感慨深げだった。話が長引きそうだったので、店に向かおうと彼を促した。元々、どこかの喫茶店で話す予定だった。
石津は四十歳だった。だが、彼の挙動はどことなく子供じみていた。彼の言葉は途中から支離滅裂になったり、妄想に入ったりした。
私達はファミリーレストランで話をした。石津が腹が減っているというので、オムライスを頼んだ。オムライスをたいらげると、まだ腹が減っていると言い、うどんを注文した。
「一杯食べるんですね」
私が微笑しつつ言うと、石津は「お腹が減っているんです」と笑って言った。その表情は子供のように無邪気なものだった。
詩の話になった。彼は、私の詩をよく読んでいた。
「あの詩は良かったですね。ほら、海岸の貝を詩人が拾うやつ…」
私は言われた詩を覚えていなかった。
「え? どうして覚えていないんですか? …残念だなあ。あれには感銘を受けたのに。私は随分、あなたの詩には感銘を受けました。色々と、影響を受けました。…いや、影響を受けるだけじゃなく…あの、つかぬ事をお伺いしますが」
「はあ」
「あなたは私の頭の中を読んでいませんよね? 私の日記を見たりした事は? そういう事は、あるんですか? …いえ、本当に、そういう事がありうるんですか?」
私は、思い出した。彼とのメールのやり取りの中で、彼がそういった類の事を匂わせていた事を。私は彼の言わんとしている意味がわからなかったので、その時はその件については無視した。
「私はあなたの頭の中を見た事なんてありませんよ。そんな事は不可能だし、あなたの日記も見た事がない。そもそもあなたと会うのは今日がはじめてじゃないですか。私があなたの家に忍び込んだとでも言うんですか?」
石津は私をじっと見つめていた。彼は時が止まったかのように動作を止めて私を見ていた。彼はふいに微笑を浮かべて、次のように言った。
「そうですね。…すいません。ただ、あまりに私の知っている情景と、詩に書かれていた光景が似ていたもので。そういう事って、ありますよね。たまたまイメージが似てしまうという事はありますよね…きっと…」
私はその言葉を聞いて、パスタを食べていた手が止まった。一口に言って、私は彼の思考に極めて危ういものを感じ取ったのだった。
彼は私の詩をよく覚えていた。彼は私の詩を絶賛した。
「あなたの詩は素晴らしいですね。ほんとに素晴らしいです…」
私達は共に食後のコーヒーに手を付けていた。
「私はね…もともと、こんなですから。ずっと鬱屈していたんです。鬱屈。わかりますか? 鬱屈が。あなたには才能がある。だけど、才能のない者の辛さはわからないだろうなあ。…いや、あなたには才能があるから、才能のない者の痛みがわかるのかな? そうなのかな? …まあ、そんな事はどうでもいいですけど、私はね、とにかく、苦しかったんです。私の中に出口を求めて這い回る一匹の蛇のようなものがいて(これは詩的比喩というやつでしたね。へへ…)それは外に出るのを求めて私の中をぐるぐるぐるぐる、うごめいていた。こいつが苦しかった。だけど、私にはあなたと違って才能がないから、どうにもできなかった。私には詩を書く才能も、小説を書く才能もない。それは、歴然としている。どうもこうも、そいつはどうしても歴然としている」
「実際にやってみたんですか?」
私は質問した。
「え?」
「実際、書いてみたんですか?」
「…そりゃあ、書きましたよ。あなた、私がそんな事も試さない人間に見えたんですか? …そんな馬鹿な。私はね、試しました。ノートを買ってきてね、書くんです。ボールペンでね。一行目に、こう書いた。『ある時、天使の羽を持つ象がいた』 二行目はこうです。『象は飛ぶ事ができなかった。そこで、飛べる人間に声を掛けた』 こんな風ですわ。だけどね、自分でもわかるんですよ。こいつは、嘘だって。悲しいもんですね。自分で、自分の書いている事が嘘だって、わかってしまう。それで、どうにもこうにも無理でした」
「他にも書いたんですか?」
「え?」
「他の詩も書いてみたんですか? …いえ、なかなか興味深い話だと思って」
「他の詩? …だったら、ノートを持ってきたら良かったなあ。あ! あのノートはもう燃やしちゃったっけ? そうだ、じゃあ、もうだめだ。私はね、書きましたよ。詩を。詩というやつを。例えば一行目はこんな風、『夏には風が足りなかった』 あるいは、こんな書き出しとか。『俺は夏の妖精だった』 だけど恥ずかしくってね。要するにね、まあ、あなたにはない感覚でしょうが、言葉がね、言葉がどうしても言いなりにならんのですよ。手の先五センチの所で止まってしまってね、ハートと言葉がどうしても、手を介して、連結しない。だから、詩が書けない。手が動かない。言葉が出てこない。出てきても、どこかよそよそしい。私に才能がないというのはそういう事です。ピアニストだってそうでしょう? 手とハートが連結するから、見事な演奏をするんでしょう? そこに人は感動するんじゃないですか? そうじゃないんですか?」
「あなたの言う事には一理ありますね」
私はうなずいた。
「でしょう? …だけど、私にはどうしても詩が書けなかった。小説や詩。ただ言葉を操るだけの事じゃないか? そう思った事もあります。だけど、どうしても、自分の詩を書けなかった。どうしても、ダメでした。もやもやしていた。ずっと。そんな時にあなたの詩を見た。最初、『よく書けている』と思った。その内、既視感が出てきた。『もしや俺の詩を盗んだのか?』 そう思った。いえ、率直に言うとですね。だけど、そうじゃなかった。…そうですよね? …ですよね? …それでですね、私はあなたの詩がだんだん、私の心を歌ったものじゃないかという気がしてきた。ずっと以前、私が見た風景をあなたが歌っている。そう思えてきた。だけどあれは…苦しんだ人の詩だ。私は、わかるんです。あなたの詩が。あなたの詩は苦しんだ人の詩ですよね? 世の中からのけものにされてきた人の詩だ。あなたは…質問ですが、精神病院に入った事はありますか?」
「ありません」
「…あそこはいい所ですよ。あそこにいるとまわりが狂人ばかりでしてね。でも、あそこには普段見えない真実が垣間見れる。私も具合が悪かった時は、入っていました。医者が薬をくれましてね。いい医者ばかりじゃない。悪い医者ももちろんいます。殴る奴もいるが、そいつはある日どこかへ行った。…だけど、病院の一番の楽しみは夜ですね。夜。夜じゃなきゃ無理なんですけど。あのね、夜が来る前に仲のいい奴と一緒に相談しとくんですよ。できるだけ頭がマシな奴と一緒に組んで、事前に準備しておくんです…」
私は彼の話を遮り、詩の話に戻るようにお願いした。
「ああ、わかりました。すいません。どうしても、話がよそへ飛んでしまって。それで…あなたの詩でしたね。あなたの詩。あれは…そうですね、例えば、鳩が窓から出ていく詩、あったじゃないですか? ああいうものは、良かったですね。私は…苦しんだ人生でした。生きるのが辛かった。精神が、頭がおかしいですからね。だけど、一番辛いのは、頭がおかしいっていう事ではない。それを自分がわかっているという事なんです。こいつは、辛い事だなあ。ほんとに辛い。あなたも、一度、そうなってみたらいい。私、一日、意識を失ってずっと喚いていた事があります。翌日には喉が腫れて、声が出なかった。誰かが警察に通報したらしいですが…。で、ですね、あなたの詩を読んでいく内、私はあなたが、私と同じ病んだ人間だという確信を持った。それと同時に、文章の切れ味からして、武士の家系だと思った。病人の武士! …こいつが、私のあなたに対するイメージですね」
「不思議なイメージですね」
「不思議でもなんでもないですよ。当然の、ごく普通のイメージですよ。私はあなたをそんな風に想像していた。実際は、違ったみたいですけどね。それにしても、才能がないというのは辛いですね。私にとって、普段の生活というのはただ自分自身との悪戦苦闘でしかないのに、あなたにとってはどんな精神的痛みも、素晴らしい言葉の魔法に変えてしまう材料でしかない! 詩人という、これほどひどい存在がこの世にありますかね!? 他のみんなは嘆き悲しんでいるのに、その感情を詩に使えるのではないかといつも密かに目論んでいる。こんなひどい奴らが他にいますか? …もちろん、それこそが詩人の仕事であり、それで救われる人間もいるんですが…」
「あなたは私を立派な詩人と思っているようですが、そんな事はないですよ」
私はさっきから感じていた事を言った。沼津は、目をパチクリさせた。
「私は立派な詩人でも、天才でもなんでもない。ただのアマチュアの詩人です。読んでくれる人は数人だし、たいした反響があるわけでもない。あなたがそんなに褒めてくれるのは嬉しいけど、私の詩は有名でもなんでもなければ、歴史に残るような物でもない。ただ、時間の上で溶けたバターのように速やかに消えていくものですよ。あなたはあまりにも私を過大評価しています。残念ながら、あなたの評価は高すぎるんですよ」
「いや! …そんなはずはない!!」
石津は興奮して立ち上がった。まるで熱湯がかかったかのような急激な反応だった。私は座ってくれるようお願いした。
「…そんなはずはない。あれは、残りますよ! 間違いなく、残ります! そうです、残ります。私の魂に誓って残ります!」
大きな声に反応して、まわりの客がこちらを見た。私は落ち着くようにお願いした。
「…あなたは自分を見誤っている」
石津は声を小さくしたが、譲るつもりはないらしかった。
「あなたは、自分の書かれたものの良さを自分でわかっておられない。あなたは、自分の手が、言葉がどのような深みにまで達したのか、決してわかっていない。あなたは、この世界で生きている孤独な人間の魂をはじめて…はじめて、鷲掴みにしたんですよ。それがわからないのですか?」
私は過大な称賛を耳にしつつ、疑問を覚えた。彼の言う『孤独な人間の魂』とは、書き手である私を指したものか、読者である石津を指したものか、一体どちらなのだろう? 私にはそれがわからなかった。
「そろそろ行きますか」
私から声を掛けた。石津はとりとめのない事を喋って、話が終わらなかった。三時間は話していた。私は、彼と話すのに疲れていた。彼の高い精神的オクターブとでもいうものに、体も心も疲れていた。彼はいつもはしゃいでおり、からからと自分の心のペダルを漕ぐのだが、それは結局どこにも向かわない。彼は地団駄踏んでいるだけだが、彼自身はどこか遠くへ行っているように思う。そうして他人には「どうしてあなたには私の言う事がわからないんだ!」と非難する。実際、私も、何度か私に対する非難を聞いた。「今話しているのは大切な事なんですよ」「今話しているのはあなたとも関係のする事なんですよ」 彼はそんな風に言ったが、私にはとてもそうは思えなかった。彼の苛立たしい調子は、これまでに散々、私の態度のような拒否に出会った事を示していた。
「行きますか……あっと」
彼は立ち上がり、上着のポケットに手を突っ込んだ。
「あれ? あれ?」
彼は、上着の他のポケット、ジーンズのポケットに順に手を突っ込んでいった。「あれ? あれ?」と何度も言っている。
「あれ? おかしいな? …もしかしたら、財布を忘れたかもしれない」
石津はそう言って、なおもポケットを探り続けた。「あれ? あれ?」 私は、彼のあまりにもわざとらしい芝居に(そうとしか見えなかった)、腹も立たなかった。私は立ち上がった。
「ここは私が払います」
私は言った。石津は「へ? そうですか? こりゃすいません。どうも、財布を忘れてしまって」と言って、頭をポリポリ掻いた。今までに、この動作を一体何度繰り返した事だろう。彼はこの事によって、一体どれくらいの人と袂を分かってきただろう? 私は余計な事を考えた。
「ここは払うから、行きましょう」
私は鞄を持って、レジへ向かった。私が歩いていくと、石津は後ろを歩きながら「すいません、すいません」と言った。
「それじゃあ、お別れですね」
店の外に出ると、私は開口一番そう言った。もう空は暗くなっていた。
「そうですか」
石津は不思議な返答をした。私は駅まで一緒に歩いて行くのを提案した。私達は並んで歩き出した。
「それにしても…今日は良かったですよ。あなたとお会いできて。…少なくとも、私の詩にも一人のファンがいる事が確認できました」
私は言った。外に出て、なんとなく心が広がる思いだった。
「ファンは一人じゃありません。これから沢山できます。間違いなく」
「そうですか。そりゃ、ありがたい」
私は空を見上げた。星は見えなかった。そもそも、地上には光源があまりにも多すぎた。
「…いや、私もあなたと直接会えて良かった」
石津が言った。石津は背をかがめながら、卑屈な感じで歩いた。私の位置から彼の後頭部が見えた。
「こうして会えて良かったですよ。…私も、大変でしたからね。今日も、実は…ええ、あまり言う事じゃないけど……抜け出してきたんですよ」
「抜け出してきた?」
「いえ、まあ。こっちの事情なんで詳しくは言えませんが、要するに、私も危険な冒険をしたって事ですわ。私は、見張られているような身分でしてね。…大変でした。今日、ここに来るのも大変でした」
私は黙っていた。石津は続きを話した。
「いえ、これでも結構、色々と大変でしてね。私の事を、至極重大な存在だと勘違いしている奴から見張られていましてね。抜け出すのに、それなりの苦労を払ったという事です。…そうです、ただそれだけです。それだけなんです。私は、いつも監視されていてね…。ただ、今日はまあ、楽しかったですね。あなたは…私の思っていた人とは違ったけれど…」
私は何も言わなかった。石津は私の反応を気にしていないようだった。
「…でも、もしかしたら、もう次には会えないかもしれないですね。次はないかもしれない。というのは、私はまたあそこに戻るからですね。これから。次はどうなるか、わからない。動悸が上がったり、色々あるんですわ。私も。たまにウワーン・ウワーンと音が聞こえてね。この世界は地獄かと思う事もある。そうなると、またあそこに戻されるんだ。戻るとね、ある居心地がある。居心地というものがね。多分、この世界が地獄である事から、その地獄性とでもいうやつ、そういうものが具体的に現れる事に、落ち着くんでしょうな。あそこでは。要するに、嘘をついていないという、そこがいいんだ。この世は地獄を砂糖菓子で飾ってごまかしていますからね。嘘は嫌いだ…。あのね、心が、心が落ち着きさえすれば、大丈夫です。心です。心。心が落ち着けば、人はどこでも生きていけます。荒野に向かった聖者だって、さぞ心が落ち着いていたんでしょうな…。私、また戻されるかもしれない」
「どこに戻されるんです?」
私は質問した。
「どこ? さっき言ったでしょう? 病院です。私のもといた場所です。そして……いや、そんな事はない。病院。病院ですよ!!」
私達は駅前についた。私は立ち止まった。私は、はっきりと喋った。
「今日はどうもありがとうございました。私にも熱心なファンがいると知って、嬉しかったですよ。私の詩が、別の誰かに届いているなんて、思いもしなかったから」
私は微笑していた。石津は私の左手を掴んだ。両手で掴んだ。
「先生! みんな孤独です!」
石津は喚いた。私は注意しようかどうか、迷った。
「先生、みんな孤独です! 誰もが、泣きたいんですよ! 絶望している! だけど、それを言葉に出せるのは詩人だけです。詩人、詩人だけです! それも、一流の詩人だけだ。どいつもこいつも言葉を弄りく回しているだけ…でも、誰もが自分の魂を自分の檻の中に入れて、解き放つ事ができない。詩人だけが! 詩人だけが、翼を与える。あなたのやったのはそれです! 私は…嬉しいんです! あなたに今日、会えた事が!」
石津は感激していた。私は彼の言葉が嬉しかったが、同時に、周囲の目を気にしていた。私は自分が「変な奴」に見られていないか、気にしていた。
「ありがとうございます」
私は言いつつ、手を離した。石津は食い入るように私を見つめていた。
「ありがとうございます。今日は、あなたと会えて本当に良かった。私も少しばかり自信が持てましたよ。ただのしがないアマチュア詩人ですが…いえ、これからもきっとそうだろし、誰にも私の言葉は届かないのかもしれないけど…それでも、少しばかり、自信が持てました。私の書いたものがこうして、あなたという良い読者を手に入れたわけですから。…あなたの称賛は心地よかった。ありがとうございます。本当に、あなたと会えて良かった」
私は深々とお辞儀をした。
お辞儀をしている時、石津はどんな表情をしているだろう?とぼんやり考えた。私は実際は、彼の称賛にさほど心を動かされてはいなかった。私の詩は、そんなに素晴らしいものではないのだ。
※
石津と会ったのは一度きりだった。ただ、その後も、私達はメールでやり取りをした。
何かが大きく変わる事はなかった。私は相変わらず、定期的に自作の詩をインターネットに投稿し、それは大反響になるわけでもなく、ごく少数の読者が読むだけだった。石津はその度に感想文を送ってきてくれた。感想文は、一度会った事により、馴れ馴れしさが加わり、批判的な言葉も入るようになったが、気になるほどでもなかった。
そうして時間が過ぎていった。
石津と会って、一ヶ月が過ぎた頃、連絡が突然、途絶えた。メールに返信がなかったのだ。私は、石津が書いた短い文章を送付され、その感想を求められていた。石津の文章はそれほど良いものとも思えなかったが、私なりに良いと思うポイントを褒めて、返信した。
いつもならすぐに返信が来るのだが、その時は来なかった。(忙しいのだろうか?)と考えたが、一週間経っても、返信は来なかった。
(何か気でも触ったか? それとも、もう絶縁したいという事なのか) 私は考えた。私は考えるだけで、それ以上のリアクションは起こさなかった。これも、今を生きている人々が経験する、繋いでは切れる刹那的な人間関係の一つに過ぎない。私はそんな風にあっさりと考えた。去っていく者は仕方あるまい。去るに任せるまでだ。それに、彼は少しばかり奇妙な人物だった。…そうして私は、彼を忘れていった。
私は生活に戻った。とはいえ、それは何という事のないものだ。この大きな世界で、労働し、生活し、趣味の詩を書いているだけの事だ。
石津と連絡が途切れて二ヶ月経った頃、ある人物からスマートフォンに着信があった。後で私は訝ったものだった。石津に電話番号を教えた事はなかったのに、どうやってその人物は番号を知ったのだろう? その謎は、今もまだ解けていない。だが、そんな事はほんの些細な事実に過ぎないと感じられるような現実が、その人物によって私に知らされた。
電話が鳴った時、私は離席していた。テーブルに戻ると、スマートフォンに着信の通知が出ていた。見知らぬ番号だったが、なんとなく気になった。三回ほど電話をかけてきている。営業の電話じゃないだろう、と判断して、私は番号をコールした。
相手はすぐに出た。若い男の声だった。どこか、苛立っているような口調だった。電話が三度かかってきた事を伝えると「ああ、あなたが沢田さんですね?」と言った。
「ええ、そうですが」
「私は、石津健吾の弟です」
言われて、私は一瞬、石津健吾が誰だかわからなかった。ややあって、それが誰かを思い出した。
「ああ、石津さんの弟さんですか…どうかなさったんですか?」
「いえ、別に、こちらもあなたに伝える事でもないのかなと思っていたんですが。どうせ、兄がそちらに迷惑を掛けていただろうし、わざわざこうして伝えるのもどうかと思ってまして。ただ、兄はあなたにずいぶん入れ込んでいたみたいだし、家族で相談して、あなたには伝える事になりました。それで、こうして電話を掛けているというわけです」
「はあ。それで、何かあったんですか?」
「兄は亡くなりました」
石津の弟はあっさりと言った。
「亡くなった?」
「そうです。十日ほど前です。病院で、朝、発見されました。発見された時には冷たくなっていたそうです。部屋で首を括っていたそうです。個室じゃなかったんですけどね。六人部屋でした。カーテンの一枚向こうで首を吊って死んでいたらしいですが、誰も異変に気づかなかったらしい。まあ、狂人の集まりだったからな…おっと、失礼。とにかく、そんな風にして誰も気づかなかった」
「自殺だったんですか」
「そうですね。…ただ、この件についてはあまり広言しないでくれると助かります。なにせ、世間というのはうるさいものですからね」
「待ってください。病院で…首を吊ったという事ですか?」
「そうです。病院です。精神病院の部屋で首を吊って死んでいました。兄は少々、頭が悪くてね。あそこに入れていたんです、私達は。そうすると、首を括って死んでしまった。どうせ…隣の部屋から電波でも聞こえたんでしょう。兄はよく言っていました。『頭の中を覗く奴がいる』って。何でも電波が、頭の中に入ってくるそうです。それで、死んだのかもしれない。頭の中の電波を取り除く為に」
「どうして自殺したのか、理由はわかるのですか?」
「…わかるわけないですよ。仮にわかったとしても、私達正常な人間にわかるような理由のはずはないですよ。私達、家族は兄に散々苦しめられてきました。薄情と思われるかもしれませんが、兄が亡くなってホッとしている側面もあるんですよ。寂しさもありますが。なんだかんだと苦しめられました。あなたと兄が…詩とか、小説とか、何やらそんな繋がりで繋がっているとは聞いていました。でも、こうして話してみて、安心しましたよ。あなたはきちんとした人らしい。兄のようなタイプの人だったらどうしようと、怯えていたんですけどね。そんな事はないようで、安心しました」
私はスマートフォンを一旦、耳から離した。頭が混乱していた。
「もしもし? もしもし?」
スマートフォンから声が聞こえて、もう一度、機械を耳に当てた。
「すいません。気が動転したもので」
「…そうですか。とにかく、私はあなたに兄が亡くなった事を伝えたかった。役目は果たせたようで良かったです」
「………」
「兄はあなたの事をよく話していましたよ。…余計な話ですがね、あなたの詩がお気に入りだったそうです。正直、私に詩はよくわかりません。兄と違って、俗人なものでね。詩とか、文学とか、そういうものは何だか夢のようなもので…いや、大したものだとはわかっています。大した、立派なものらしいですね。ですが、私なんかは兄と違って、そういうセンスはまるきりなくて。生活にかかりきりでした。兄は…夢想家でしたからね。そういうものを好んでも、仕方なかった。私はと言えば、生きる事で精一杯で、兄の面倒もみたり、その他になんやかんや、まあ、色々大変でした。…私には詩や小説が何の助けになるかは全然わかりません。あれは夢とか幻の類じゃないかと疑っています。兄はそういうのが好きでしたけれどね」
「そうですか」
「そうです。…私は俗人なものでね。あくまで俗人ですから…失礼な事を言ったかもしれない。だけどそれは許して頂きたい…俗人なので。でも、兄は本当に大変な人でしてね。私達は色々、苦労しましたよ。夜中に家を飛び出したりなんかして…。兄が詩や小説にうつつを抜かすというのも、私達はどちらかと言えば苦い気持ちで見ていました。夢や空想が現実に結果として結びつかなければ何の意味があるだろう?…と、詩情のない人間は考えてしまうわけです」
「………」
「いえ、これ以上はやめましょう。余計な事を言いました。とにかく、兄の件をあなたに伝えられて良かった。兄にとって、あなたは大切な人だったようですから。あ、それと…もう一つ、大切な用件がありました」
「…なんですか?」
「兄はあなたに書き置きを残していっています。ある意味、遺書と言えるかもしれませんね。ごく短い走り書きですが。あなたの家にそれを郵送しようと思っているんですが、郵送してよろしいですか? それとも、ご迷惑ですか? どうですか?」
「…送ってください」
「了解しました。それではお送りします。…全く、兄は私達には何も残していかなかったんですけどね。あなたには、紙切れを一枚残していきました。それほど兄にとってあなたは大切な人だったらしい。大したものですね。詩というのも。私にはよくわからんが…」
「………」
「それでは、用件は済みましたので。どうも。ご迷惑を…おかけしました。あなたには、兄が沢山ご迷惑をおかけしたと思います。その件に関しては申し訳ありませんでした。…申し訳ありませんでした。…それでは、失礼します」
電話は切れた。私はスマートフォンを机に置いた。
頭が混乱していた。(紙切れ? 自殺?) 私は一人の人間の死を受け止めかねていた。だが、そうした事もわずかの時間が経ちさえすれば、すぐ日常に溶け込んでいくのを、私は知っていた。
※
郵送が届くまでの間に、私は石津とのメールを読み返した。そこに死の兆候がなかったのか、確認しようとした。
読み返してみると、私が思った以上にそうした言葉は散見された。私は、はっきり言って、彼の弟と同様、彼を「精神を病んだ厄介な人間」とみなしていた。だから、彼の言葉に信を置いていなかった。彼が死に近いような言葉を吐いても、私は本気には受け取っていなかった。
彼のメールには例えば、次のような文面があった。
「思えば、頭がおかしいっていうのも辛いもんですね。辛いのはね、頭がおかしいから辛いんじゃないです。『自分は頭がおかしい』ってわかってるから、辛いんです。前も言ったかもしれませんが。ゴッホなんてのも、そうだったんだと思いますよ。気が違ってるから死んだんじゃなくて、気が違った自分を殺す為に死んだんです。気が違った自分を、抱え続ける事に耐えきれなくて、それで死ぬんですよ。狂人はそうやって死ぬんです。ゴッホだって、そうです。絶対、そうですよ。私もこの頭をぶち抜いてしまいたい時がありますよ。時々ね」
メールの中には、こうした言葉がところどころ見られた。彼が自殺した今、彼の言葉は、自殺までの長い助走を果たしているように思えた。先にある飛び込み台に向かって、彼は助走していく。その間、迷ったり、悩んだりするが、結局は走り出し、そのまま飛び込んでしまう。そうして遂に戻ってこない。
自殺の報を受けて、しばらくすると、私はだんだん納得してきた。(そうだ、それしかないじゃないか) 私には彼の自殺が一つの必然であるように思えてきた。
この世界で生きる事そのものが辛い人間…存在する事そのものが苦痛であるような人間は、自殺によって救済される。そして、存在する事そのものが苦痛であるとは、わからない人間には絶対に伝わらないし、仮に伝わったとしても、別段苦痛が和らぐわけではない。
石津の道化のような、能面のような顔。他人に対する恐怖心と、猜疑心と、他人を安心させる為の演技的な表情…それらは全て一つの事を物語っていた。それはこの世界で生きる事の辛さだった。彼は世界と自分とのズレの中で絶望して死んでいったのだろう。
私は、一人の人間が死んだ事をそのように受け止めようとしていた。しかし、そうした理解もまた、人間という不可解な存在の一面を切り取って、自分を安心させようとする試みに過ぎない。結局の所、真相は闇の中だ。
だがーーと私は考えた。彼は私に書き置きを残していった。私は想像した。その書き置きは私に対する呪詛が綴られているのではないか、と。私の詩は結局は彼を救えなかったし、おそらくは大した慰安にもなっていなかっただろう。私の彼に対する対応も、どこかよそよそしかったし、私は正直、面倒くさがっていた。
彼の書き置きが私に対する呪詛だとすると、彼はもう死んでしまった事だし、呪詛は呪詛として永遠に残る事になる。彼は自分の死の間際に、私が何一つ彼の助けにならなかった、誰一人助ける事ができなかった、その事を告発したのではないだろうか? …そんな疑念が頭に浮かんでしかたなかった。
私は呪われても仕方のない人間だった。もともと、そんな人間だったし、そもそも詩を書くとは世界に対する呪詛以外の何物でもない。呪詛を紡ぐ人間が、その事自体によって他人から呪詛されても仕方あるまい? …私は堂々巡りに考えた。私は、郵便が届くのをそんな不安な気分の中で待った。
郵便は三日後に届いた。三日間、私は職場で心の動揺を見せないように苦労していた。私は平然としており、誰一人死者はなかったかのような顔で同僚に冗談を言ったりした。
家に帰ったらポストに封筒が入っていた。差出人は「石津祐二」だった。私は鼓動が早くなるのを感じながら封筒をポケットに入れ、素早く自分のアパートの部屋に飛び込んだ。
鍵をかけると、封筒から取り出して、中身を見た。中には一枚、ノートの切れ端が入っていた。そこには毛筆の字体、震える字体で次のように書いてあった。
『先生、ありがとうございました 先生の詩に支えられて今まで生きる事ができました』
書かれていたのはそれだけだった。私は玄関で、紙切れを握ったまま、棒立ちになった。
※
私は未だに詩を書き続けている。プロの詩人になる見込みはないし、これから先も、素人の下手な趣味としてインターネット上にぼそぼそと詩を投稿するだけだろう。
そこにはごく少数の読者がいるかもしれないが、それはただそれだけで、それ以上のものではない。少数の読者は私の詩を少しばかり面白がるだけだ。私の言葉は、砂の上に書いた文字のように速やかに消え去ってしまうだろう。
そして私の人生もまた、同じように消え去ってしまうだろう。私は世界の片隅で何者にもなれなかった存在として、生き、消えていく。どこかの帳面に私の名が記載される。役所の死亡者欄。帳面もまた、いずれ破棄される。全ては跡形もなく消え去る。
私の詩作はほとんど何の意味もないものだと言える。ただの素人の趣味でそれ以上、何の意味もない。私には何の才能もない。
それでも、私は自分の書く物にも意味があるものではないか、と錯覚してしまう瞬間がある。…そういう瞬間には、机の引き出しから、ファイルに入れた紙切れを取り出す。そこには私の読者…狂人としての私の読者から、私への短い感謝の言葉が書いてある。
私は、全ては無意味なのではないかという恐怖に取り憑かれると、その紙切れを取り出して眺める。そこには震えた字体がある。血を思わせるような、かすれた毛筆の字がある。
私の詩は誰かに届いているのだろうか? それとも、私の詩には何の意味もないのだろうか?
一つ確かな事は、私の詩を最も熱心に称賛してくれたのが、精神を病んだ人間だったという事だ。…それで構わない。彼の弟の言った事は全て、正しかったに違いない。私への嘲笑的な態度も、社会的に真っ当な人間としてはごく当然のものだ。
私は自分の書くものが何の意味もないと知っている。それでも、私はこの世界が無意味と定めた領域に言葉を注ぎ続けるのを止めないだろう。私の存在が無意味であり、私の読者が狂人一人だけだったとしても構わない。一人のアマチュア詩人はこのようにして身を滅ぼしていく。だが私は、虚無に向かって歩むのを恥ずかしいとは思わない。そうして、その勇気を与えてくれたのは、私にとっては面倒な存在に過ぎなかった、精神の病んだ一人の愛読者だったのだ。




