犬人間・ドッグマン
(おや? どこから入り込んだんだ?)
裏地粉砕=風珍は、首を傾げた。
路死蛙の首都、苔鍬にある政治中枢・呉無倫、その大統領執務室である。
そう、裏地粉砕=風珍は、北の大国、路死蛙の大統領であった、。
首都、苔鍬の名を冠する、路死蛙海軍最大の巡洋艦が、敵のミサイル攻撃を受けて沈没した、と報告を受けたのが、ケチのつきはじめであった。
数日で陥落するはずだった浮蕾菜の首都・奇異兎は、開戦から二か月が経過しても一向に攻め落とせず、佐官クラスの将兵が次々と戦死した。
東部戦線ではなんとか優位を保っているが、それとて国内の全戦力の七割強を注ぎ込んで、ようやく維持できているに過ぎない。
風珍は、自分の祖国が、思っていたよりもずっと弱い。ということを認めざるを得なくなっていた。不愉快な報告の連続に疲れ果て、幹部を軒並み粛清し、ついには執務室に閉じこもっていた風珍。
そこへ、ドアを軋ませて入ってきたのは、一匹の犬だった。
その犬は、中型犬というには少々小さい。
全身茶色で、体重は十キロ前後といったところだろうか。
品種は、ない。
東南アジアや南米などの路地でよく見かける感じの、貧相な痩せた雑種犬である。
犬好きの風珍には、すぐにその程度のことは分かった。
風珍は、しゃがんでその犬に手を差し伸べた。
「君はどこから来たんだね? ここはかなりセキュリティが厳しいはずなんだが……」
「そうでもない。侵入は容易かったよ」
いきなり流ちょうな路死蛙語でしゃべりだした犬に、風珍は腰を抜かした。
「お、おおおおお……お前は何だ? 何でしゃべれる!?」
「しゃべれるさ。私は犬ではないっ!!」
「犬じゃ……ないだと⁉」
「そう!! 私はドッグマン!! 犬の心を持つ男!! 犬人間!! ドッグマンだ!!」
「え?……犬人間? 何?」
「ドッグマンだ!! 正義のヒーロー!! ドッグマン!!」
「正義……だと?」
「そう!! 私は正義だ!! 裏地粉砕=風珍!! 貴様の悪行!! 断じて許し難し!! よってこの場で成敗いたす!! ドッグマ~ン!! チェンジィ!!」
叫ぶと同時に、その犬は後足で立ち上がった。
後足で踏ん張るように立ち、前脚でファイティングポーズらしきものをとるが、それ以上変化はない。体格も、姿も、一切変化はなかった。
「犬の心を持つ男!! ドッッッグマン!! メスだけど!!」
「メスなんかい!!」
思わずツッコミを入れた風珍であったが、これは異常事態だ。
「犬の心!! 犬の勇気‼ 犬の願い!! 犬のDNA!! 愛と平和を守るため!! それらすべてを拳に込め!! 悪を討つ!!」
「衛兵!! 衛兵はどうした⁉ コイツをつまみ出せ!!」
風珍が足をもつれさせながら執務室のドアを開けると、廊下には恐ろしい光景が広がっていた。
「なんだこれは……いったい……」
累々と横たわる衛兵たち。長い廊下の向こう、数十メートル先まで、たくさんの人間が、折り重なるようにして倒れている。事務官や秘書、出入りの掃除婦や給仕員までも混じっていた。
倒れ伏す人たちはぴくりともせず、その周囲には真っ赤な血だまりが出来ている。
不自然な格好に手足を曲げている者、壁に頭をめり込ませた者までいて、全員明らかに死んでいる。
「き……貴様がやったのか……?」
「そうだ!! 貴様を殺すのに、邪魔だった!!」
「正義の味方だと言ったのではないのか⁉ この虐殺のどこに正義がある!?」
「?……お前のやっている軍事行動とやらも、ネオナチを倒すための正義の行動なのだろう?」
「そそそその通りだ!! 貴様が正義なら、私を支持すべきなのだ!!」
「だが、巻き添えで多くの市民を殺している。いや、むしろ積極的に民間人を殺している。君が私の行為を責める理由はないはずだが?」
「わわ……我が国の行動は正義だから……」
「奇遇だな。私も正義だ。ゆえに私の行動も正義なのだッ!!」
「まままま待て!! 私を正義と認めるのに、殺すのか⁉」
「世界には……人の数だけ正義がある。それは当然のことだろう。だが、それをいちいち考慮していたら、正義を執行することなどできん」
「わわわわかった!! なら、すす……すぐにでも撤収しよう!! 軍を退く!! な? だから助けてくれ!!」
「そんなことをすれば、君の国内支持率が大幅に下がってしまうだろう? そんなことはさせられない。心配するな。一瞬で殺す」
「やめろ。死にたくない。国内支持率なんかどうでもいい!!」
「ばかもの!! 国内支持率を下げないために、ここまで苦労してきたんじゃないのか? 若い兵士達を死なせ、軍の幹部連中を粛清し、フェイクニュースで隣国を、西側の連中を貶めてきたのは何のためだ⁉ 自分の命惜しさに、信念を曲げるな!!」
「ししし……死んだら何にもならんだろう⁉」
「犬は死して牙を残す。人は死して名を残す。お前の名は、史上初めて犬人間に殴り殺された国家元首として、永遠に語り継がれるだろう」
「そんな不名誉な称号はいらない」
「不名誉とは何だ!! これからたくさんの人々が、我々に殴り殺されるというのに!!」
「私を殺して終わりではないのか⁉」
「風珍。君だけを殴り殺したのでは、『風珍差別』になってしまう。また、ここにいた人々も既に殴り殺した。彼等だけ殺したのでは『ここにいた人たち差別』になる。差別は良くない。なぜならSNSが炎上するからだ」
「SNS……やってるのか?」
「いや。私は端末を持っていないからな」
「なら何故炎上を恐れる⁉」
「SNSの炎上は、すなわち社会的な死を意味する。私とてそのくらいは分かる」
「……苔鍬の人々を殺すというのか?」
「そうだ。女も男も関係ない!! 子供、老人、病人、フェミニスト、オタク、すべて殴り殺す!! 差別しないことこそ正義!! すなわち無差別!!」
「貴様一匹で……そんな真似ができるものか……」
「既に種は蒔いた。見よ!! 生まれくる我が子たちを!!」
ドッグマンが叫ぶと同時に、衛兵の腹が不自然に膨らんだ。
「私は残念ながら、犬のDNAしか持たない。だが、私と人間の間に子を作れば、それすなわち真のドッグマンとなる。メス犬である私と人間の男の合体生物!! 『メス犬の子』である!!」
衛兵の膨らんだ腹は、血飛沫を飛び散らせて裂け、中から血まみれの小さな手が出てきた。
「ひ……ひいいいいい!!」
風珍は恐怖のあまり失禁した。
逃げたかったが、文字通り腰を抜かしたまま、立てない。何より、その恐ろしい光景から目を離せなかった。
衛兵の腹からは、五匹の生物が這い出してきた。
血にべっとりと濡れているが、どうやら全身が犬っぽい毛に覆われているらしい。
手足の形状は人間に近いようだが、顔はまるっきり犬であった。
気づけば、他の衛兵たちの死体も、不自然に腹が膨らんでいく。おそらく同じ生物が宿っているに違いなかった。
しかもなんと、その生物たちはその場でむくむくと大きくなっていく。それに従って、彼等を産み出した衛兵の遺体は、水分を絞りとられたように乾いていき、しまいには骨と皮だけの状態になって転がった。三歳児くらいの大きさになった子ドッグマンたちは、二本足で立ち上がると、あの決めゼリフを叫んだ。
「ドッグマンチェンジ!! 犬の心を持つ男!! ドッグマン!! メスだけど!!」
「分かるか? 生まれてくる子たちはすべてメス。一腹で五人ずつ生まれていく」
このペースで殖えていけば、あっという間に数万、いや数百万のオーダーになる。そのことに気付いた風珍は、更に恐ろしい可能性に思い当たった。
「まさか……貴様たちは、人類すべてを……?」
「当然だ!! 無差別と、そう言っただろう!! 国籍も、人種も関係なく殴り殺す!! 風珍、君も核兵器の使用までほのめかしていた以上、この程度の事態は想定内であろう!?」
「想定してねえって……SNSの炎上とか、もう関係なくないか?」
「差別は良くない!! それが答えだ!! 我々ドッグマンは、肌の色や宗教、民族、イデオロギー、軍事力、金銭的豊かさ、学力、それらいかなる理由によっても差別はしない!! 偉さを決めるのは……毛の色のみ!!」
「ハァ?」
風珍は思わず間抜けな声を発した。
「茶色ければ茶色いほど偉い!! それが我々の思想である!! 白? 違う!! 黒? 違う!! 赤? 青? 冗談ではないっ!! もはや原色の時代は終わった!! これからは中間色こそが世界を制するのだ!!」
風珍はがっくりと膝をついた。
この犬が何を言っているのか、まったく理解できなかったのだ。
それだと毛色で差別するってことじゃないか、とは思ったが、それを口にする気力すら湧かなかった。
そもそもコイツは犬人間を名乗っているが、人語をしゃべっていること以外に、人間の要素がまったく見当たらない。
(あ……そうか。このワケの分からなさ……ちょっと人間ぽい……かも)
そう思った時。ドッグマンが改めて身構えた。
「理解したか? 理解したなら、死ね風珍。ドッグマン……パァンチ!!」
犬は、右前脚をまっすぐ風珍の顎へと伸ばしてきた。
たいして腰の入っていない遅いパンチ。避けるまでもない。そう一瞬思った風珍ではあったが、何か嫌な予感がして、わずかに顔を右に避けた。
轟っ!! という衝撃を発し、パンチが通り過ぎる。
風珍が避けたパンチは、彼のすぐ脇の椅子にヒットし、それを粉々に打ち砕いた。
「ひっ⁉」
風珍は、思わず息をのんだ。
マホガニー製の高級椅子だ。ちょっとやそっとで壊れるような代物ではない。
避けなければ、頭蓋骨を砕かれていた。間違いなくそう思わせるパンチであった。
見た目とかけ離れた破壊力。あまりにも現実離れしたその状況に、麻痺していた恐怖心が一気に蘇った。
ドッグマンは勢い余ってよろけ、椅子の残骸ごと床に転がっている。
「避けたか。命冥加なやつ……だが、貴様にはここで死んでもらうッ!!」
そう呟くように言ったドッグマンは、ゆらりと立ち上がると、見たことのない奇妙なフットワークで前後左右に動き、風珍に迫ってきた。
「ひえっ……」
どう見ても普通の雑種犬としか見えない生き物が、流暢に人語をしゃべり、後足で立って殴りかかって来るのだ。名状しがたい恐怖を覚え、風珍は四つん這いで逃げ出した。
風珍は、柔道の有段者である。いや、そもそも軍の特殊部隊の出身であるから、七十代を迎えた今でも、そのへんの素人相手であれば、後れを取ることはない。
だが、立てなかった。
どうしても足に力が入らない。じたばたと足掻いた挙句、結局立ち損なった風珍は、今度は仰向けになったまま、両手両足で便所虫のように逃げ惑う。
「やるな? なかなかいい動きだっ!! だが……そこまでだっ!!」
風珍は、周囲を見回して、ようやく部屋の隅に追い込まれていることに気が付いた。
「誰か……たっ……助け――」
思わず発した恐怖の叫び。だが、風珍はそこまでしか言えなかった。
風珍の顎を、ドッグマンの拳が叩き割ったからだ。
風珍は、血反吐を吐いて吹っ飛んだ。
「ほげえっ……!!」
もんどりうって転がり、壁に叩きつけられた風珍は、それでも逃げようともがいた。
だが、ドッグマンは見事なフットワークで間を詰めると、渾身の右ストレートを風珍の顔面にたたき込んだ。
脳漿が飛び散り、首から上が消失する。
さらに、左のアッパーが風珍の鳩尾を襲った。
首のない風珍の体は、高々と舞い上がる。腹部が内圧で破裂し、そのままシャンデリアに貫かれて、天井板に激突した。コミカルな絵のような平面姿で天井にへばりついた風珍は、そのまま落ちてくることはなかった。
「……しまった。これでは孕ませることが出来ん……」
ドッグマンは、残念そうに天井を見上げて言った。
そこへ、数十人の衛兵や事務官の遺体から生れ出た、子ドッグマン達が、わらわらと集まってきた。
その数、およそ三百。
「ははうえ……ごめいれいを……」
「われわれは……どうすれば……」
口々に言う子ドッグマン達に、ドッグマンは高らかに宣言した。
「正義を執行するのだ!! 正義とはすなわち無差別!! 手当たり次第に!! 殺せ!!」
「お……おう!!」
その日。三百以上の犬人間たちが、苔鍬の街へとあふれ出した。
地球上が、なんだか貧相な犬と人間の中間生物に埋め尽くされ、より茶色い者が偉いという、非常にシンプルかつ意味不明な思想に裏打ちされた、極めて平和な世界が訪れるのは、それから約一年後のことであった。