一日目?(4)
顔は顔として確かに分かるのである。それも見知っているべきものとして、私を頷かせるのであるから、一体どこが道理に背くかというと、いいや、別に全く自然であるかも知れないが、そうだ、例えばそれがいつ見たものであるだとか、これは全く分からないのである。というのも、この顔からは人間の当然として持っているべき年齢というのが感じられないのだ。
ああ違うな。どうも思ったようにしか見えないようである。どこか見出そうとすれば、どこか見出だせてしまうのである。それが己の知るべきものとして、如何様にも当てはまってしまうのに、それが己の持つどの記憶にこそ対応するものであるかは、検討が付かないのである。そも記憶といって、たぶん私は、朝起きてより抱いた諸々の感覚の他、諸々の「分かっている」という以外には持ち合わせていないのである。
ああ、こんな印象の塊をは、本来として全く記憶してしまうなどということは無いのかもしれない。実際分かった気になって、その印象は目まぐるしく移り変わっでいるのであった。ただ、私の分かる顔としては、甚だ明瞭に、ただその場しのぎの印象を私に、いや、私が与えているのだろう。