新たな街で
咲月は夕食の席で、おずおずと切り出した。
「あの、……実は、一人暮らしを始めようと思って」
――疫病神。
もう一月も前のあの言葉が胸に突き刺さったまま抜けず、心は静かに血を流したまましくしくと痛み続ける。
もうじき、、ここへ来てから三月が経とうとしている。
葉月の自宅で過ごしたのとほぼ同じだけの時が過ぎても、未だに朔海からの連絡はない。
もしも何か良くないことがあったのだとしても、それはそれで付き添っているというファティマーという魔女から連絡が来る手はずになっているというから、連絡がないというのは彼が無事でいる証拠でもある――。
そう言い聞かせるのも、そろそろ限界が近かった。
相変わらず、社の住人たちは温かく、優しく、親切にしてくれる。
居心地はとても良く、日々修行に明け暮れる毎日はとても充実している。
文句のつけようのない、穏やかで平和な日常。
だがその環境こそが、咲月の心に恐怖を呼び込んでいた。
――疫病神。
そう言われた言葉が、耳奥で木霊し続ける。この平穏な場所に、もしもまた再び不幸が訪れたら……?
彼らでなくとも、朔海の方に何か良くないことが起きたら……?
元々、咲月のこれまでの習慣上、時期的にそろそろ新しい環境へ移るべき時期だ。
幸い、あちらからちょっかいをかけに来る者も、ぱたりと途絶えて久しい。
今なら、不可能ではないはずだ。
少し前から考え、仕事や住居など考え、それぞれ大体の当たりは既につけていた。
幸い、葉月が用意してくれていたお金がある。
「まだ、修行が中途半端ですから、お休みや週末にはまた色々お世話になりますが……」
それでも、毎日毎日暖かな湯に浸かり続けたままの状態で居る事が、咲月にはそろそろ耐え切れなくなっていた。
自分が本当に望む幸せとは違う形の幸せの中で、心が緩んでしまうことが、怖くて。
神社の祭事も一段落し、秋の収穫の時期までは特に行事もない。
「忙しい時期はまたお手伝いに来ます。……でも、このままただお世話になりっぱなしなのは、……どうしても慣れられなくて」
それでも、あちらから頻繁に“お客”がやって来ているうちは、周りの迷惑になるから、それが咲月の選択肢に挙がることは無かったが、……今なら。
何より、考えたくもない事だが、もしも――もしもこのままいつまで待っても彼から連絡がなければ……いずれは、新たな道を選ばなければならない時が来る。
そのためにも、“自分で稼いだ自分のお金”が欲しかったし、社会経験のひとつくらいしておきたい、という思惑もある。
けれど、やはり何より怖いのは――このまま、この居心地のよい場所にこれ以上居座り続けたが故に起こるかもしれない、未来の不安が一番の理由。
だが、仮にも“任された”立場からすれば、その役目を完全放棄する事は出来ないだろうし、咲月としてもやはり力を得る手段を失うのは避けたかったから。
「……実はもう、住まいと職はほぼ決まっていて……、後は最終的な契約を済ませるだけになっているんですが……」
豊生神宮からさほど離れていない場所で、ある程度拓けた場所、となると限られ、咲月が見定めた場所。
駅には特急も停るし、高速バスも出ている。交通の便を考えても、そこしか考えられなかった。
敏い彼らは、おそらく気づいていたのだろう、……咲月が少しずつ溜め続けたものが、限界に近づいていることに。
渋々といった様子ではあったが、特に反対される事もなく、それは割合あっさり決まった。
――休みと、週末は必ず社へ来ること。狛を共に連れて行くこと。何か不穏な事がありそうだったら即社へ戻ること。
その3つを条件に、咲月は荷物をまとめる事になった。
三月前、狛と共に降り立った駅から、咲月は列車に乗り込んだ。
ローカル線から中央本線へ乗り継ぎ、向かうは――甲府だ。
辺りは山に囲まれているが、駅近くはそれなりに拓け、一人住まい用のアパートも、贅沢を言わなければそこそこの家賃で貸し出されている。
市街地の中なら、スーパーやコンビニもあるし、車がなくともギリギリやっていける。
新しい住まいとなるアパートの名は、『白鐘荘』。築50年、木造2階建て、1階に3部屋、2階に3部屋、全部で6部屋のうち、4部屋までが既に埋まっていた。
2階の3部屋と、通り沿いの1部屋にはそれぞれ、一人暮らしの男女が住んでいる事を、咲月は引越しの挨拶へ訪れて知った。
ちなみに、咲月の部屋は1階だ。
――若い女性の一人暮らしとしては少々無用心かとも思われるが、既に2階の3部屋は埋まってしまっていた。
家賃や間取り、立地を考えれば、そこは譲歩せざるを得なかったのだ。
間取りは、1DK。玄関を入るとまず6畳程のキッチンと居間があり、奥にもうひと間、和室がある。トイレとバスも別で、4万弱の家賃は破格だろう。
駅までは自転車で15分ほど。スーパーへも、市役所や郵便局、病院、一通り、頑張れば十分歩ける距離にある。
咲月は何も、贅沢がしたくて一人暮らしを始めたいのではないのだから、それだけ揃えば充分だった。
黙々と荷物を解いたあとで、勤務先へ自転車を飛ばした。
ショッピングモールに入るアイスクリームのチェーン店と、駅前の小さなパン屋が、咲月の主な働き場だ。
今日は、パン屋のシフトが午後から夕方まで入っている。
仕事自体はレジ打ちのみながら、全てバーコードを読めば良いスーパーなどのレジ仕事と比べ、毎日変わるパンの種類と値段を全て覚えなければならないのが、この仕事の大変なところだ。しかも、単価だけでなく時間によって値引き処理などあるから尚更間違えないようにするのに必死になる。
だが、売れ残りのパンをお持ち帰りさせてもらえる点では有難いバイトではある。
……難点を挙げるなら、同僚がパートのおばさま方ばかりだというあたりだろうか。
本当なら高校へ行っているべき時間に働きに来る少女に、彼女たちは興味津々に噂をする。
くだらない噂を聞き流す術には長けている咲月であるが、……やはりここのところずっと生ぬるい環境に身を置き続けたせいか、以前に比べ妙に心が傷つきやすくなった気がするのだ。
――かと言って。
早朝や、夜のシフトに入ることの多いアイスクリーム店は、咲月より少し年嵩の学生バイトが多い。店柄か、男女比は女性の方が多く、やはり噂話は絶えない。
物珍しそうに妙な誘いをかけてこようとする男もちらほら居て、決して居心地のよい場所とは言えない。
それでも、何故か咲月はそんな中でホッとしていた。
心は、相変わらず痛いままながら、一番大きな不安が無くなったから。
一人暮らしをしている今なら、自分が巻き起こす不幸に巻き込まれる哀れな者は現れずに済むはずだ。
……でも。
「……もう、いつになったら戻ってくるの? ……ねえ、朔海……」
ふと、気づけばいつも、いつの間にかそう呟いている自分がいる。
真夏の残暑も徐々に薄らぎ、季節は流れ、町はどんどん秋へと色を変えていく。
汗ばむほど暑かった風が、徐々に涼しくなるごとに、咲月の心に吹きすさぶ風も冷たくなって行く気がする。
「……お願い、朔海。早く……戻ってきて」