不安
――疫病神。
あの日以来、自分でもその言葉を思い返しては自らの心を抉ってきたそれを、嘲笑を含んだ冷たい声音で投げかけられ、咲月は息を飲んだ。
常の習慣で、咄嗟に俯き、己の意識を周囲から遮断し、嵐が過ぎ去るのを自らの殻の中でやり過ごそうと身構える。
彼女は――そう、咲月を引き取った家の娘で……一時期、義姉として同居していた娘だ。名は確か……亜梨沙……だったか。
まだ幼い時分、散々虐められた嫌な記憶が、ずるりと引きずり出される。
親の見ていない隙に殴ったり蹴ったりの乱暴をされたり、持ち物を壊されたりは当たり前の日常だったし、何より大切にしていた一番最初の養父母との思い出の品を壊された事は今でも忘れられない。
彼女の父親が浮気をしているのがバレ、怒った妻と離婚する事になるまで、約半年。
長い、辛い記憶の中のほんの一部分ではあるが、こうして改めて目の前に現れると、その頃の記憶だけがやけに鮮明に切り取られ、蘇る。
かつての息苦しさを思い出し、咲月の呼吸が浅くなる。
手の中の作りかけの腕輪を取り落としそうになったのを、慌ててしっかと持ち直す。
「何これ。パワーストーンのお守りアクセを作ります? アンタが作ったやつなんて、どうせ全部不幸を呼ぶ呪いの品になるんでしょ? 一つ500円? そんな金出して不幸を買わされたお客は災難よねえ?」
わざとらしい大声で、彼女は侮辱の言葉を平気で吐き出す。
500円という単価は、石の原価を考えれば殆ど利益のない、ギリギリの超良心価格だ。本格的な店に頼めば、桁が一つか二つは違ってくるだけに、店の人気は高い。
今実際に店に張り付いているのは美姫だけだが、通りを歩く人々の目は、ちらちらと咲月の店を気にして、ふと足を止めるものも少なくない、というのに。
「それにしても。こんな所でアルバイトでもしているのかしら? あなた、確か今年中学を卒業したばかりよね? ……あなた今、どこの高校へ行っているの?」
明らかに小馬鹿にした目でこちらを眺めながら、亜梨沙は意地の悪い笑みを浮かべる。
「というか、あなた今誰のお宅に居るのだったかしら? ……少なくとも叔母様の親戚に、この辺りに住んでいる方はいらっしゃらなかったはずだけれど」
咲月を嘲笑い、貶める行為が楽しいのか、彼女の目は生き生きと輝いている。
「……今は、この町の神社の方にお世話になっています。私はそこでお社のお手伝いをしているので、高校へは行っていません」
竦みそうになる心を叱咤しながら、咲月は言った。
――敵を前に怯んだ様子を見せたら、それだけで負けだと思え。ハッタリでもなんでもいい、敵の前では常に強気でいろ。
耳奥で、稲穂に叩き込まれた心構えが木霊する。
「この店は、私が彼らから任された仕事です。……買う気がないのなら、どうかお引き取りください。他のお客様のご迷惑ですから」
震えそうになる心を抑え、咲月は彼女を見据えて言った。
だって、何のことはない。彼女は特別な力など何一つ持たない、非力な人間の少女なのだ。
心無い言葉は咲月の心の傷を抉るけれど、結局それ以上の事など彼女にできはしない。
こんな所で、怯えて下を向いているようでは、一体何のために日々修行を重ねているのだか分からないではないか。
たかが人間の少女相手に竦んでいるようでは、本物の“魔物”を前にして出来ることなど、それこそ何一つないだろう。
そうならなくて済むように、咲月は力を求め、日々修行に励んでいるのだから。
咲月は、強く彼女を睨み据え、彼女以上に低く冷たい声で言った。
「お店を任されるのは、今日が初めてではありません。七夕祭りの時も、先月神社であったお祭りの時も、お店を任せていただいて、ご好評をいただきました。先日お買い上げになられたお客様で、ご利益があったと後日お礼に来てくださった方もいらっしゃいました。お呪いのアイテムで全てが決まるとは思いませんが、あなたの言うそれは根拠のない侮辱です。あまり酷いようなら、営業妨害で商工会の見回りの方を呼ばせていただきますが?」
半年前の咲月であれば、決して口にできなかったであろう台詞をつらつらと並べ立てる。
「そうだね。よければ僕が呼んでくるよ。……君、咲月ちゃんの知り合いのようだけど、……もしかして豊生神宮目当ての観光客かな? だとしたら、一ついいことを教えてあげよう。今、彼女を保護しているのはそのお社の神職の一家だ。……彼らを怒らせれば、ご利益があるどころか、祟られるよ? あそこの神様方はとても寛容だけど、本気で怒らせたら本当に怖いから」
すると横から誠人がそう口添えしてくれる。
「――その必要はないよ」
その後ろから、さらに低い声が割り込んだ。
「来ていたんだな、誠人。……成程、美姫も食いついたか。さすがの繁盛ぶりだな」
口元に仄かな笑みを浮かべるのは――
「ああ、来て一番に美姫に引っ張ってこられたよ。竜希の方は、真っ先に食べ物の屋台へ突進していったけど」
肩をすくめながら苦笑する誠人が、声の主を振り返り、少し先の焼きそば屋台に張り付いた一人の少年を指して言った。
「本当は、七夕や社の祭りにも連れてきてやりたかったけど……、休みを取ろうと思ったら、やっぱりお盆のこの時期しかなくってさ」
常の紅いルビーの瞳をカラーコンタクトで色を誤魔化し、濃い茶色の瞳に変えた晃希が、気安い笑みを誠人に向けた。
「ふぅん? エリートサラリーマンっつーのも難儀なもんなんだな。まあ、せっかくの祭りだ、楽しんでいけよ。……で、こちらのお嬢さんは君の知り合いなのかな?」
軽い世間話のノリから一転、彼は厳しい目を亜梨沙へ向けた。
「俺は、とある方から彼女の一切を任されている。ついでに、この祭りの警備も任されていてね。……何か揉め事なら、俺が事情を聞くよ?」
瞳の色こそ常の色とは違うものの、漆黒の美しい髪と、そこらの女より余程綺麗な白い肌、美しい面立ちに変わりはない。
凄絶な美貌に浮かぶ、冷たい表情は、思わず背筋をゾクリと冷やす程の迫力があった。
「こいつが今言ったとおり、折しも今は盆の時期だ。――死した者の魂が、あちらから帰ってくる今の季節、彼女の養父母様方らも娘を心配していらしているかもしれない。そんな時に、彼女を泣かせとくわけにはいかないんだよ。彼女の保護者としても、聖職に就く者としてもな」
それで? と、口をぱくぱくさせながら声にならない罵り文句を喉の奥に詰まらせた亜梨沙に、続きを促す晃希に、誠人が小さくため息を吐いた。
「……なんだか、昔やらかした記憶をつつかれているようで少しばかり心が痛むなあ」
と、誠人は頭をかきつつ気の抜けた声で呟く。
「とりあえず、彼女に謝ったらどうかな? 人を貶めて優越に浸るのは感心しないし、自らの過ちを認められないのはあまり褒められたことではないよ?」
彼は、大人の顔をしてそう諭したが、亜梨沙はそれにムッと反抗的な表情を浮かべた。
「あ、謝るだなんて、冗談じゃない! その女がどこの誰の子かも分からない親無し子を親切で引き取った家に次々不幸を呼び込んだのは事実なんだもの。うちだって被害者よ、逆に謝って欲しいくらいだわ!」
晃希への恐れに引きつった声で、それでも亜梨沙は叫んだ。
「――帰る。……こんな女が居る神社へお参りなんかしたら、恋愛成就どころか呪われそうだもの」
咲月は、その言葉にぴくりと目尻を引きつらせた。
散々迷惑をかけているのに、温かく迎え入れてくれた優しい人たちを、そんな風に貶されて、良い気がする訳がない。
……だが、咲月を引き取った彼女の家に不幸が舞い込んだ事は確かな事実なのだ。
ただの偶然、で片付けるには少々重なりすぎた不幸。
何度、咲月のせいではないのだと諭されても、なかなか抜けない心に突き刺さった刺が、一際ツキンと痛んだ。
彼氏であるらしい連れの男の腕を引っ張り、人ごみの中へ消えていく彼女の背を見送りながら、咲月は詰めていた息を一気に吐き出した。
「大丈夫か?」
晃希が、気遣わしげに咲月の様子を窺う。
「もしかしなくとも、今まで渡り歩いて来た親戚連中ってのは皆あんな奴ばっかだったのか?」
「……そう、ですね。少なくとも、笑って歓迎してくれたのは、朔海や葉月さんと、皆さんだけでした」
咲月は、苦い笑みを浮かべて答える。
「でも、仕方のないことなんです。……彼女の言ったこと、……全く見当違いとは言えないから」
作りかけの腕輪の仕上げに取り掛かりながら、咲月は目を伏せた。
「私の行く先々で、何故か不幸な出来事が起こる……。それに関しては、確かに幾度も事実として起きてきたことだから」