再起
ふっ、と、全ての感覚が消えた――それまで全身をさいなんでいた激痛も。迫り来る炎の熱も、体の大半を包む水の温度も。鼓膜を揺さぶる全ての音も、嗅覚を刺激する臭いも、何もかもが、その瞬間、ふっと途切れた。臓腑を潰された気持ちの悪さも、舌に残る鉄臭い不快な味すらも消えた。
まるで、肉体という器がそっくり取り外されてしまったかのように、その全ての感覚が失われた――と、ふと朔海は気づいた。
確かに、竜王の吐いた火球の直撃を受けたはずで、運が良くても今、朔海は重度の火傷を負い、痛みにのたうち回るしかない状態のはず。そして、当たり前に考えれば――
(僕は……死んだのか?)
あの場所は、朔海の精神世界であるから、実際の肉体は滅びていないはずで、だから正確には“死”という表現は相応しくないかもしれない。
だが、あの場で朔海が倒れれば、朔海の精神は竜王に喰らわれ、朔海の肉体は竜王のものとなり、朔海の精神は消滅し――限りなく“死”に近しい状態になるはずで……。
(……そうだ、喰らわれたのなら、僕は今何を考える事も出来ないはずで、)
ならば、まだ喰らわれてはいないのだろう。
(それなら……僕は、一体――)
この感覚は、どうした事なのだろう。ふわふわと、肉体から離れ、精神体だけがふわふわと朧な空間を漂っているようなこの不思議な感覚は……?
「――だから、最初に言っただろうが。ここは精神世界で、この世界の主はお前で、この世界で起こることの全てはお前次第だって」
覚えのある声で、偉そうな台詞が乱暴に叩きつけられた。
「何で、お前一人で飛び出していくんだよ。何のためにオレ様がが白龍様に頭を下げてその御力を譲っていただいたんだと思ってるんだ!?」
がうっ、と吠えられ、怒鳴られ叱られる。
「言っただろう、オレ様はお前と、姫様の守護精霊だ。白龍様にいただいたこの力は、全てお前と姫様のためにある。なのに、何であんな無謀な事して、こんな無茶な状況に陥ってるんだよ、お前馬鹿だろ!?」
ぽんぽんと失礼かつ侮辱に近い言葉を遠慮会釈の欠片もなくぶつけられながら、その図星加減に朔海は反論も出来ずに呻いた。
「ご、ごめんなさい……」
きゃんきゃんと吠える小さな精霊に、朔海はうなだれつつも謝り、心に刺さった言葉のトゲをその痛みごと飲み込む。
だんだん、ゆっくりと戻ってきた視覚が、その小さな身体を捉える。
ふわふわと宙に浮かびながら、彼は大きな目の目尻をつり上げ、朔海と、そして上空の竜王とを交互に睨みつけた。
そっと自らの身体を見下ろせば、薄い半透明の膜が、全身を覆っている。
相変わらず、それに触れる潮の声以外は何も聞こえず、何も感じないが……唯一まともに戻った視界には、仕留めたと思った獲物を仕損じたと知った竜王が忌々しげに尾をぴしりと打ち鳴らす様が映る。
「いいか、よく聞けよ。ここは確かにお前の心の中、お前次第の世界だ。……けど、物事には何だって限度ってもんがある。お前のそのひょろっちい身体で、あんなデカブツと肉弾戦で勝てると思うか?」
「……思いません」
事実、つい今しがたこてんぱんにのされたばかりである。
「まあ、当然だな。だから、この戦いに勝つためにはそれ以外の戦い方をする必要がある」
潮は、言いながら手を空へ翳し、べオークのルーンを空に描いた。――べオーク、豊穣と誕生、成長を意味するルーンだ。文字が光を帯びたと思えば、次の瞬間にはわさわさと緑の蔓がいくつも伸び、縦横無尽に這い回りだす。
「――オレ様は、ムーンストーンに宿る精霊だが、元は植物に由来する破魔の精霊だからな。……それに今は白龍様にいただいた御力もある。だから――」
続けて、潮はイングのルーンを描く。やはり豊穣と、そして完成を意味するルーン。
湖を覆い尽くす勢いで伸びた蔓が、一斉に上空の竜王めがけてするすると上へ上へと伸び、竜王の身体を捉える。
全身にまとわりつくそれを面倒くさそうに払おうと竜王は身体をくねらせるが、その巨体からすると細く頼りなく見える蔓は、しつこく絡みつく。
現状、少々竜王の動きを阻害する以上の効果はなさそうなそれだが、潮はさらに続けてもう一つルーンを描く。
ヤラ――収穫を意味するルーン。
すると驚くことに、竜王が身体を震わせ、苦悶の声を上げた。
同時に、潮の体が仄かに光る。――それは、白龍の力を受けたときの様に。
とくん、とくん、と。彼に触れる一点から、朔海はそれを感じ取る。まるで大木に寄生するヤドリギの様に、竜王から魔力を奪い取り、奪った魔力が蔦を伝って潮に流れ込んでいるのだ。
――無論、竜王とてそれを黙って見ているはずもない。
くわっと口を大きく開き、自分と潮を繋ぐ太くより合わさった蔓を目掛けて炎を吐いた。
炎を受けた蔓は見る間にメラメラと燃え上がる。潮は即座に蔓を自ら断ち切り、ふわりと朔海の左肩に乗った。
途端、パシンとシャボンの泡が弾けるような感触と共に、朔海の体を包んでいた膜が弾け、わっと全ての感覚が一気に戻ってきた。
体の殆どを預けた湖の、火傷しそうなほど熱い熱湯の感触。そこから立ち上る湯気の湿気た空気。上空で怒りの咆哮を上げる竜王の唸り声。何かが焦げたような臭い。
全てが、クリアになる。
――が、それと気づいて一番に危惧した苦痛は……ない。
あの大怪我による痛みの一切は、未だ感じられないままだ。――あれから、そう時が経ったとは思えない。それだけの時で癒しきれるような生易しい損傷ではなかったはずなのに。
痛覚が麻痺したとか、そういう風でもない。若干、筋肉の強張りを感じる。少しの倦怠感も。
「ふん、感謝しろよ! 怪我なら、オレ様が治してやった。……まあ、ここが精神世界だからこそ可能な事だった訳だけど」
もう一度、言っただろう? という目で朔海を見る。
「ここは、お前の心の中。ここで起こることはお前の心次第だ。――さあ、行くぞ!」
潮は朔海の肩の上に立ち、威勢良く空の上を指差す。
「飛べ、……肉弾戦は無理でも、お前にはお前の力があるだろう?」
そう、魔界の者たちが厭う力が。
「そいつで、あいつから力を奪え。一度に全てを奪うのは無理でも、何度でも挑めばいい。最期に、奴を喰らい尽くせたら、オレらの勝ちだ」
潮は、牙を覗かせながらニヤリと自信たっぷりに笑う。
「オレ様は、魔物を狩る事を生業とする一族の守護精霊だ。竜ってのは魔物の中でも特にでかい獲物だからな。そいつを狩れた奴は一族の中でも英雄視されるんだ。……さっきから血が騒いで仕方ない。だから、さあ、行くぜ!」
潮の掛け声に押され、朔海は背中の翼を広げた。ふわりと、再び中へ舞い上がる。
成程、先ほど落下の際に破いた皮膜は既に修復され、痛みもない。
朔海は上空を見上げ、そのはるか高みに居る竜王と同じ舞台へ上がるため、翼をいっぱいに広げ、羽ばたいた。
肩に感じる、小さな両足と、頬に触れる小さな手のひらから伝わる、確かな温かみと、力。
結局、自分一人で出来ることなど、たかが知れているらしい。
(僕は……僕には、どうしても彼女が――咲月が、必要なんだ)
改めてその事実を噛み締めながら、朔海は術式を組み立て始めた。
潮が使ったルーン単体の単純な術ではない、もっと複雑な魔法陣。
成程、心次第で決まるこの世界で、術式を組むというのは確かに理にかなっている。
朔海は、完成した術式を竜王へ向けて発動させる。
青白い光を放つ魔法陣から、同色の光の矢が、幾本も続けざまに放たれた。
巨大な的にそれを命中させるのは難しいことではなかった。
勿論、竜王とて黙って蜂の巣にされるはずもない。翼を広げ、空を叩き、衝撃波と言うべき風の渦を巻き起こし、それを散り散りに吹き飛ばそうとする。
だが、実体を持たない魔術で造られた光の矢は、狙い違わず竜王の身体に突き刺さる。
堅く頑丈な鱗が、最後の盾としてそれを阻もうとするが、何しろ数が多い。ウロコとウロコの僅かな隙間や、関節部分のウロコの薄い部分などにも容赦なく矢は刺さる。
穿たれた傷から、ボタボタと、赤黒い血が滴り落ち――雨のように降り注ぐそれを、朔海は全身で受け止めた。
魔物の血は、吸血鬼の朔海にとって力の糧。強大な力を持つ竜王の血は、たったひと雫でも、朔海の身体に執拗に残る疲労を吹き飛ばす程の力に溢れていた。
痛みと怒りで狂ったように吠える竜王は、炎を吐いて、向かい来る矢を射落とそうと首を振った。
竜王の吐く炎の正体は、膨大な魔力の塊だ。
魔力同士がぶつかり合い、互いに相殺し合うが――一つ一つの魔力の総量は、竜王の炎の方が朔海の光の矢に比べ遥かに大きい。
朔海の放ったそれは、あっという間に薙ぎ払われた。
それでも勢いの衰えない炎の余波が、朔海に迫る。
「躱せ、次だ次!」
耳元で、潮が叫ぶ。
「このまま、押しきれ!!」




