パンドラの箱
ツルの恩返し、という有名な昔話がある。
「決して覗いてはいけませんよ――」
そう言われたのについ覗いてしまい、ツルは帰って行ってしまうという、あの話。
ふと、昔絵本で読んだあの話を思い出したのは、つい今しがた聞いたばかりの彼の台詞が妙に耳に残ったせいだった。
「診療時間中は、何があっても決して診療所へ来てはいけませんよ?」
――買い物から帰り、少し早めの夕飯を済ませた後。葉月から告げられた言葉だ。
「夜間診療専門の外科医院なんですがね、そう大がかりな手術が出来るような設備も入院施設もありませんから、救急指定されているわけでもなくて。自然、ウチに来る患者さんの殆どがワケありな人達になってしまって……」
言いにくそうに苦笑を浮かべて頭をかきながら、
「場合によっては診療室がだいぶ賑やかになる事もそう珍しくないんです」
と、申し訳なさげに続ける。
「そんな中に、女の子を巻き込む訳にはいきませんから……」
――彼らが何者かなんて気にするつもりはなかった。
でも。
……絶対に見てはいけませんよ――だなんて。
そんな風に言われて、気にせずにいられる人間なんて存在するものだろうか? たいていの人間は、そんな風に言われたらむしろ余計に気になると思うのだが……。
そう、物語の中で「見てはいけない」「開けてはいけない」と言われた人物の大半は言いつけに背いて、良くない目にあうのだ。「浦島太郎」しかり、「パンドラの箱」しかり――。
……彼らは一体、何者?
ここへ来て、2日目の夜。
部屋の明かりを消し、布団に体を横たえて数刻――。
昨夜の静けさが嘘のように、階下は賑やかだった。うめく声、ドッタンバッタンと暴れるような物音。怒鳴る声。
……なるほど、葉月の告白通りである。身を起こし、カーテンを僅かばかりずらして窓越しにちらりと下を覗けば、いかにもな黒塗りペッカペカの車が停まっている。
車の脇でタバコをふかしているサングラスの男の風体はまるで……昔、養父の従弟の家にいた頃度々やって来ていた借金取りの様……。
つまり、彼の言っていた“ワケあり”とはヤクザ御用達という事……、なのだろうか?
――え、まさか葉月さん……、堅気の人間じゃない……とか? ……なワケないか……、あの華奢な身体じゃ……。
あの、モデルでも通りそうな白く細い腕で、例えばあの屈強そうな男を殴り飛ばしたところでどれだけの効果があるだろう?
どっかのドラマか映画で“マフィアも今は頭を使う時代だ”なんてカッコつけた親分が言っていた気もするけれど。それにしたってあの人のよさそうな優男にはおおよそ似合そうにない職業(?)である。
聞いてみたい気持ちと、聞きたくない気持ちが、心の天秤をゆらゆらと揺らす。
――と。窓の外でぽそぽそと小さく囁くような声が聞こえた気がした。
「あの娘が例の?」
「そうらしいな。アイツはともかく、坊ちゃんのほうはだいぶご執心の様だぜ?」
カーテンの向こうに揺らめく、小さな影が2つ。
「でも、実際はどうなのかしらね?」
「さあね、どうなる事やら……」
そろそろと窓辺へ這い、そろぅりとカーテンの裾をつまみ、息をひそめて、そぅっとめくってみる。
「どこまで隠し通せるもんか……。もし正体が知れたらどうなるだろうな?」
黒い綺麗な毛並みの猫が、長く細い尻尾をくねらせる。
「逃げ出す? それとも現実逃避に走るか……。それとも退治を試みるのか……」
「あら、受け入れる――という選択肢もあるはずよ?」
それに応えるように真っ白な毛並みの猫がとがった耳を動かし――ハッとしたように視線をこちらへ向けた。
「にゃぁ」
猫として当たり前の鳴き声を、その白猫は警告の様に鋭く発し――ビクリと一瞬身体を強張らせた黒猫は慌てたようにベランダから飛び降りた。
「にゃあ」
白猫は、もう一度猫語で鳴いて黒猫の後を追って闇へと消えた。
――ええと、……私、よっぽど疲れているのかしら? ……今のは、夢? 幻?
猫が、人の言葉を話すなど……。普通に考えたらあり得ないけれど……。
――もし正体が知れたらどうなるだろうな……って、どういう事?
一向に収まる気配のない階下の騒ぎ。
窓辺を離れ、布団に転がる。咲月はもう、それに関して完全に無関心を貫く事は……できそうになかった。