稲穂の教え
「よし、それじゃあまずは瑠羽について外周を一周しておいで」
――竜姫との早朝練習を終えた後、道場の前まで山を降りてくると、朝の特訓を終えた瑠羽と出くわした。
瑠羽にとっては朝の特訓の最後のメニューであり、咲月にとっては最初のメニュー。
……正直なところ、咲月はあまり体力に自信のあるタイプではなかった。少なくとも元気に外へ遊びに行くタイプの子供ではいられなかったから。
学校の体育の授業でさえ、しょっちゅう学校を移り変わっていた咲月は、一つの課題を全うした記憶がほとんどない。大概が途中からの参加となるか、もしくは途中で抜けるかしてしまっていた上、『誰かと組みになって練習』という、よくある展開にも悩まされたという、あまり好ましくないイメージがつきまとい、運動全般になんとなく苦手意識が働いてしまう。
だが、今はそんなつまらない言い訳をしていていい時ではない。
咲月は、瑠羽が慣れた様子で走るその後ろを走り始め――5分も経たないうちに後悔した。確かに体力や運動神経に自信はないが、それでもまさか、たかがランニングで小学校低学年の子どもに負けはしないだろう、などと甘く考えていた事を。
まず、コースが酷い悪路なのだ。舗装され整備されたランニングコースなどとは程遠い、獣道同然の山道。地肌のままの路面は、ところにより落ち葉くずに覆われていたり、石ころがごろごろ転がっていたり、上り下りの傾斜のきつい場所があったかと思えば、小規模とはいえ沢を登ったり、川に渡された丸太橋の上を渡らされたりと、凄まじくハードな道のりを、瑠羽はひょいひょい慣れた様子で足取り軽く駆けていくその後ろを、咲月は青息吐息で遅れずついていくだけで精一杯だ。
明日は絶対に酷い筋肉痛に悩まされるに違いない。
時間など、計る余裕は皆無だった。一体どれほど走っただろうか、ようやく道場と母屋の建物が見えた時には、既に全身疲労困憊状態であった。
稲穂は、2人がランニングに出た時と同じように、道場の壁に背を預け、ひらひらと手を振った。
「やあ、おかえり」
咲月は、彼女の前にたどり着いた途端、服が汚れるのも構わずズルズル地べたへ座り込んだ。息は切れ切れだし、しばらくはもう立ち上がりたくないと思う程だった。
そんな咲月を見下ろし、瑠羽は不思議そうに首をかしげた。
「お姉ちゃん、どうしたの? 今日は一周しかしていないのにもう疲れた?」
彼女の言葉に咲月は衝撃を受ける。あのハードなコースは一周すればそれで十分だと思うのに、“しか”とは……。
「だらしないなあ、瑠羽だったら十周したって平気だよ!」
と、彼女は自慢げに胸を張る。
幼い子どもの言葉が、妙にぐさりと咲月の心に刺さる。実際、彼女は息を切らすどころかまだまだ元気が有り余って仕方がない様子なのだ。
だが、彼女の頭に、ガツンと容赦ない制裁が下ったのはその直後のことだった。
「こら、瑠羽。いつも言って聞かせている事を忘れたかい?」
稲穂が、怖い顔で瑠羽に迫った。瑠羽は即座にぴしりと姿勢をただし、気をつけの態勢をとると慌てて答える。
「わ、忘れてません!」
「そうか? ならどうして拳骨を食らったか、その理由もきちんと分かっているよな?」
瑠羽はその問に無言でこくこく頷いたあと、しょんぼり項垂れると、小さな声で咲月に謝る。
「……お姉ちゃん、ごめんなさい」
「え、あ、ああ、うん?」
だが、どうして謝られるのか良く分からない咲月は戸惑った。
確かに彼女の言葉に傷つきはしたけれど、それは彼女の言葉に図星をさされたからであって、彼女が謝るほどのことではない気がするのだが……。
「咲月、この間言っただろう、この子は晃希の娘、つまり半吸血鬼、半人半妖なんだと。当然、普通の人間より優れた身体能力を持っている。見た目は子供でも、そこいらの大人より体力も運動能力も余程優れているんだ。今日が初めての人間と、瑠羽の出来を比べて瑠羽が勝るのは当然さ。落ち込む必要はないよ」
そして、稲穂は改めて瑠羽に向き直る。
「お前は、半人半妖だが、それを周囲におおっぴらに吹聴するのは良くない事だとアタシも竜姫も晃希もいつも言っている。それで人に優ったからって、決して自慢にはならないとも、教えたね? 咲月は、身体的には美姫や竜希、誠人たちと変わらないんだと、そう教えたはずだったと思うがどうだった?」
「はい、昨日、ちゃんとそう聞きました。……ごめんなさい」
「うん、分かればいい。さあ、じゃあ竜姫のところへ行って、次のメニューをこなしておいで」
「はい!」
瑠羽は、たちまちのうちに身を翻し、素晴らしい速度で山を駆け上っていく。
「だけど咲月、今日は初日だから仕方がないが、最終的には五周くらいは軽くこなせるようになってもらうから、覚悟しろよ」
と、稲穂がすかさず意地悪そうに微笑んだ。
咲月は思わず息を飲んだ。一周でこれだけきついのに、さらに五周……。少なくとも今は想像すらしたくないけれど――。
「それで、ある程度足腰が出来上がってきたら、実践的な技を色々教えてやろう。敵の殴り方や投げ方、武器の扱いなんかも含めて、な」
……そう言われたら、咲月に否やは言えない。
「まず始めにある程度体を作ってからでないと、いらない怪我をしかねない。こればっかりは一夜漬けだのと無茶はできないんでね。辛いだろうが、地道な努力を積み重ねる他ないんだ」
稲穂は、咲月に手を差し出しながら言った。咲月は、その手に縋りながらそろそろと立ち上がる。――が、膝が笑ってしまい、すぐに道場の壁に手をつき、寄りかからねば一人では立っていられないほどに、足の疲労が酷い。
それを見た稲穂は、咲月の手を引き道場の中へと誘った。
「流石に、いきなりだったからね。ちゃんとアフターケアをしてやった方が良さそうだ。診てやるからちょっとそこに横になりな」
掃除の行き届いた板張りの床を指し、稲穂はその場へどかりとあぐらをかいて座り込んだ。
着物の裾がはだけ、足の付け根近くまでが際どく露出され、同性のはずの咲月でさえ目のやり場に困る程なのも気にせず、稲穂は咲月の足に手を滑らせた。
暖かく、細く柔らかいすべらかな手が肌をなぞる。朔海に手を握られたり、葉月に服の上からマッサージをして貰ったりしたのはつい先日の事だが、……自分以外の、ひとの手が肌に直接触れるというのは咲月にとっていつ以来だったか記憶も定かでないほど久方ぶりの事で、反射的にびくりと体を強ばらせてしまう。
普段、丈の長いズボンばかり履いているのは、そこにある傷跡を人に見られたくないがためだ。夏でも七分より袖の短いシャツ一枚にならないのも、同じ理由。
だが、稲穂は頓着することもなく淡々とマッサージを始めた。
「ふむ。やはり何事も経験が大事だな。うちは代々瑠羽も竜姫も優花も、その母も、とにかく日々この山を駆け回って育っているから、元々足腰の丈夫さだけは折り紙つきでね、こういうアフターケアなんぞ一切したことがなかったどころか、それの必要性すらまともに認識してなかったんだが……」
固まった筋肉を揉みほぐし、熱くなった筋肉を冷やす。
「だがね、竜姫の従兄に誠人というのが居るんだがね。奴は優花の姉の息子なんだが、外、それも都会育ちでね、、初めてお前と同じ事をさせた時には今のお前より酷い有様だった。それがきっかけで、スポーツトレーナーのマニュアル本片手に奴を練習相手に身につけたんだが……」
ふふふ、と笑いながら、稲穂は言った。
「役に立ったようで良かったよ。長く生きてるとね、一見役に立たないように思えることでも、思わぬところで思わぬ役立ち方をすることがあるんだ。――他人が何を言おうと、気にすることはない、胸を張っていればいい。それにね――」
稲穂は、ぴしゃりと肌を軽く叩きながら断言した。
「……敵の前で、弱気になるな。隙を見せるな。ハッタリでも何でも良いから強気で行け。これが、人外の輩と向き合う時に絶対忘れてはいけない鉄の掟なんだ。どんなに優れた護身術や魔術を身につけても、心で負けたらそれで終いだ。それを忘れるな」