竜姫の助言
咲月は、注意深く耳を澄ませた。
豊生神宮のあるこの山は、拝殿の周辺を除けば、ほとんど人の手の入っていない自然のままの山で、神社の主たる彼ら以外に立ち入るものはない。
――とても、静かだ。
木々の葉が擦れる音。山の裏を流れる川のせせらぎの音。鳥や獣の鳴き声。そんな自然の音以外、しんと静まり返っている。
梅雨明けも間近なこの時期の早朝。とても心地よい清涼感の漂うそこで、咲月は緊張感も顕に全神経を耳に集め、それらの音を必死により分ける。
僅かな、空気の揺らぎ。常人には判別不可能な、それを感じ、咲月はそちらへ目を向ける。
すると――。
(!、 居た!)
空気に色をつけたような、それ。仄かな薄緑色をした空気がより集まり、なんとなく人の形をとっているのは、先日清士が示した彼女だ。
だが、ここで慌てて動いてはいけない。咲月は、そうっと、野生動物を相手にするように、彼女を驚かせないようゆっくりとした動きで彼女に手を差し出す。
そうしないと、繊細な彼女はたちまちのうちに消えてしまうから。
差し出された手に気づくと、彼女は焦ったように視線を彷徨わせ、困ったように手で口を隠し、頬を僅かに紅潮させる。そのリアクションは、まるで自意識過剰な思春期の乙女のようだ。
実際、ここで慌てると、まさに“自意識過剰な思春期の乙女”のごとくあっという間に逃げ去ってしまう。
咲月は、彼女の気分が落ち着くのを、辛抱強く待ち続ける。
やがて、彼女は恥ずかしそうにしながらもおずおずと手を差し出し、咲月が差し伸べていた手に重ねた。
――正直、触れているという実感はあまりない。ただ、彼女に触れられているその部分の空気だけ、周囲のそれとは僅かに温度が違うような気がしないでもないのだが……。
だが、それによってもたらされる効果は凄まじい。
まず、ふわりと身体が軽くなり、同時に聴覚がそれまでより格段に敏感になる。……いや、聴力自体の能力に変わりはないが、普段なら聞き取れないような遠くの音も、風に乗って流れてくるのだ。
(――今日は、ここまで成功した……。あとは……)
咲月は、いきなり驚かせてしまわないよう、細心の注意を払って彼女に声をかける。
「あのね、あなたにお願いがあるの。……聞いてくれる?」
すると、彼女はまたしても赤面し、狼狽えた。まるで異性に口説かれでもしたかのような反応だ。こちらまで恥ずかしくなってくるのを必死にこらえ、咲月は努めて笑顔を保つ。
「私の名前は、咲月。私に、あなたの力を貸してくれる?」
内心、ドキドキしながら、じっと彼女の答えを待つ。
彼女はひとしきり照れたあと、ゆっくりと首を縦に振った。
それが嬉しくて、つい手を叩くとか、飛び上がるとかしたくなるのを必死に堪えて、彼女の手から流れ込んでくる力に意識を集中する。
それは、先日朔海に“痺れ”の魔術をかけられた時の感覚に似ていた。
あの時は傷口から入った魔力が血管を伝わりじわじわとその周囲に痺れの範囲が広がっていったのを覚えている。
そしてこの力は、彼女が触れている部分から神経を伝って、ピリピリとした感覚が全身に広がっていくのが分かる。
咲月は、ピリピリと刺激のあるそれに、意識を集中する。
あっという間に全身に広がったそれを、意識的にひとつにまとめ上げ、それを両耳へ持っていく。
それまで、全方位から漫然と流れてきていた音を、意識的に一方向へ限定し、風の流れを意識する――と、上手くできれば、道場で稲穂を相手に巫女修行に励む瑠羽たちの様子が聞こえるはず……・、なのだが。
これがなかなか難しい。
“意識的にひとつにまとめ上げ”とは言うが、漫然と漂うそれを意識する、というのがまず難題だ。ピリピリとした刺激があるからまだその存在は意識できるが、それを“まとめる”というからには、それらを操らなければならないわけだが……。
“それ”を、どうすれば操れるのか、さっぱり分からない。
とりあえず、ピリピリするそれを、血流に乗せ身体の中心に集めるイメージで一箇所にまとめようとしたが……上手くいかない。
全身に漂うピリピリはびくともせず、その場に留まったまま。
だが、確かに彼女に触れたところから継続的に、ピリピリした感覚が送り込まれ続けている。
それは咲月の意図を伴わずとも、腕を伝って胴を巡り、両足、左腕へと流れていく。
そこで咲月はふと朔海の言葉を思い出した。
『魔力って、結局のところはエネルギーの一種でね。ただ、あるだけでは何ら意味をなさないんだよ』
今のこれは、この目の前の精霊の力で、それは魔力と呼ぶには相応しくないのかもしれない。――だが、身体に感じるそれは、魔力とそう変わらないように思える。
『魔力を使って、あれをしたい、これをしたい……そう具体的にイメージした上に魔力を乗せる』
そう、大事なのは“意思”の力だと、彼は教えてくれた。
つまり、まだ足りないのだ。“意志の力”、“イメージ力”が。
――彼女は、風の精霊。その力を取り込んだだけの今も、ある程度風の力の恩恵を受けられているからつい失念しがちだが、基本的にはきちんとイメージできなければうまくかたちにならないのは同じなのだ。
咲月は、もう一度全神経を集中し、自らの内側のイメージを頭に浮かべる。神経を伝う、力の流れ。
その流れの向きを、あちらこちらで修正し、ひとつにまとめ上げる。
意識しないままのときはさらさらと抵抗なく流れていたはずのそれは、一度流れを変えようと手を出すと、途端に重く粘つき意思に反するようにまとわりつき、抵抗を示す。
咲月は、それを力づくで制そうと、さらに集中を高め――
バシン、と突如強い衝撃を受けた。
「きゃっ!?」
咲月は思わず悲鳴を上げてしまってから、しまった、と慌てて口を手で抑えるが――
(あ、ああ……、遅かった……!)
手に触れていた感触がたちまちのうちに離れ、風の精霊は一目散に逃げ出し、すぐにふっと空気に溶けるように消えてしまった。
「ま、また失敗……」
がくりと肩を落とす咲月に、後ろから厳しい声が飛ぶ。
「こら! 落ち込む前にしなきゃいけないことがあるでしょう?」
咲月はその声にハッとし、慌てて、既に姿の見えなくなってしまった彼女に、心の中で礼を言う。
(……私の声に応えて、力を貸してくれてありがとう)
そして、改めて声の主――竜姫の方を振り返り、頭を下げる。
「済みませんでした。……次こそは、成功させてみせます。もう一度――」
「だめ。今日はこれでおしまい」
「え、でもまだ時間は……」
咲月は、木々の葉の隙間から溢れる朝日を見上げる。まだ、刻限までは若干猶予があるはずだが……。
「時間はあるけど、今のあなたの体力や精神力を考えれば、一日につき二、三回が限度よ。なのにもう今日は五回も試したでしょう。続きは明日になさい」
竜姫は、咲月に水筒を手渡しながら諭すように言った。
「たった一日でこれだけできるようになれば御の字よ。そもそも、精霊に気に入られるのがまず一番大変なのに、初対面からあの好かれよう……。少し羨ましいくらいだわよ」
竜姫は大げさにため息をついて見せながら、大きな岩の上に腰掛けた。
「まあ、精霊、っていってもあれはどちらかといえば九十九神に類するモノノケに近い、下位精霊だから、世間に名の通った大精霊のように正式な契約を結ばなくても、魔力や霊力で従わせることは可能なんだけど……」
「今の私には、それを出来るだけの力がないから、お願いしないといけない……」
竜姫が頷く。
「下位精霊と言っても、それぞれ心もあれば感情もある。だから、気に入らない人間の前にはまず姿を現すことすらしないの。特に、風の精霊は基本的に気まぐれなのが多いからね、たとえ見つけられたとしても、知らんぷりされちゃうことだって珍しくないのよ?」
だからこそ、精霊に嫌われないように、驚かさないように、細心の注意を払い、その心を推し量らねばならない。
「初日からああもあっさり精霊をみつけて、あんなにめろめろにさせちゃうなんて」
「めろめろ、ですか……」
「そうよ、それ以外の何に見えたの、あれが? 完全に恋する乙女だったじゃない」
「で、でも私も彼女もどっちも女なのに??」
「まあ、かたちは女性に見えるけれど、基本的に彼らに性別という概念はないから。もう一つ言っておくけど、彼らは皆同じような容姿に見えても、“違う”からね? 今日のあの子達もそう。みんな“別人”だったの、気づいてた?」
咲月はふるふると首を横に振った。
「だからね、次はきちんと彼らの心をよく視てあげて。その力を利用するのではなく、あくまでその力を借りて、手を貸してもらうんだって事を忘れないで」
その言葉で、咲月はさっきは何がいけなかったのかを悟る。
あの時、精霊の力が注がれた瞬間、それを自らの力であるかのように扱い、利用しようとした。――そう、“力が全て”という魔界の掟のように、相手を力で従わせようとした。
でも、それではいけないのだ。あくまでお願いする身なのだから、手を貸してくれることに最後まで感謝しなくてはいけないのに、さっきはそれすら忘れそうになった。
それを理解した咲月は、猛烈にもう一度、試してみたくなる。
「――だめよ」
だが、それを言い出す前に先に竜姫に釘を刺されてしまった。
「言ったでしょう? 何をするにも身体が資本だって。それを疎かにして良い事なんか一つもないわよ」
竜姫が、きっぱりと言う。
「……あなたの気持ちは、痛いほど分かる。目の前で、大切な人を失ったんだもの、自分の力のなさを呪いたい気持ちは分かるし、一分一秒でも早く強く、少しでもより強くなりたいって思う気持ちも分かるわ。――私も、目の前で両親を妖に喰われて……何もできなかった自分をずっと責めていたから」
「……え?」
竜姫は、咲月に微笑みかける。
「私の母だけは、僅かながらにも霊視能力を持っていたけれど、他に稲穂たちが視える人が、あの時私の周りには誰も居なくて。本当の事情を分かってくれる人が、稲穂と久遠以外に誰も居ない中、私はこの地を離れなければならなくて。――伯母に引き取られて、従兄と同じカトリック系の学校に通わされたんだけど、……邪教の神を祀る廃神社なんか継いでどうする、って散々言われたわ。……理解されないどころか、存在をまるごと否定されて。あれは、本当に辛かったなあ。稲穂や久遠は一生懸命神様をやっているのに、私の力が及ばないせいでこんな風に言われるんだって、自分を責めてた……」
そして、竜姫は懐かしそうな目を虚空に向けながら、綺麗な笑みを浮かべた。
「そんな時にね、言われたことがあるの。“お前、もうちょい自分を信じろ。その心も、魂も、力も。どれ一つとして、俺や、あのバカ天使や……他の誰にだって劣ってやしないんだから。身体は……まだ人間なんだ、魔物と比べちゃ限界があって当然だろ?足りない分は、俺が補ってやる。頼れ、……お前は一人で頑張ってる訳じゃないだろ?”ってね」
「それは……、もしかして晃希さんが……?」
そう咲月が尋ねると、竜姫は頬を赤らめつつも幸せそうな笑みを浮かべる。
「ええ、それも出会ってすぐの頃のことよ。思えば不思議な縁でね、あの学園に通わされてなかったら私、彼と会うことはなかったはずで……。今となってはもう、彼の居ない日常なんてありえないけど、あの時彼に出会えていなかったら今頃自分はどうしていたんだろう、って思うことはたまにあってね。……もしかしたら、今でも吹っ切れずにうじうじ思い悩んでいたかも知れない。でも実際は彼に出会って、今日まで過ごしてきて、二人の娘に恵まれて……。今は、とても幸せ」
そして、最後に竜姫はそう断言した。
「ねえ、咲月ちゃん。あなたの持ってる力は本物だわ。精霊に好かれるにはね、外面をいくら取り繕っても無駄なの。内面……つまり心や魂が本当にまっすぐ綺麗でなければ駄目なの。精霊に好かれる性質、ってだけなら多分私より咲月ちゃんの方が優秀よ。まだ、昨日今日に修行を始めたばかりなんだもの、急ぐ必要はないわ。……でなきゃ、この歳になっても毎日必死に修行に励んでる私の立つ瀬がなくなっちゃうじゃない!」
と、冗談交じりに怒ってみせたあと、竜姫は笑った。
「ね? だから、一人で抱え込んで頑張り過ぎないで。私たちはもちろんだけど、あなたにも居るでしょう? あなたの足りない部分を補えるように、一緒に頑張ってくれる人が。何かあったら、一番に助けに来てくれて、心から頼れる味方に、心当たり、あるでしょう?」
そう言われたら、思い浮かぶ顔などひとつしかない。
「朔海……」
咲月は、思わずポツリとその名を呟く。
竜姫はそれに満足げに頷いた。
「ねえ、咲月ちゃん。彼のためにも、まずはあなた自身の力を信じてあげて。それが、身体ともうひとつ、大事な資本になるんだから」